第93話 暴走の予兆

 キーンコーンカーンコーン……。


「ふぅっ。ようやく仕事も終わりか。」


 人気の少ない校内に響き渡る、午後の始まりを告げるチャイムの音。

 授業がない夏休み中も、チャイムが鳴る時刻は普段と同じだ。

 チャイムの音が鳴っているのに教室にも行かず、ずっと図書室にいるなんて変な気分になるよなぁ。

 まあ、その代わりに図書委員の仕事で動き回っている訳だけど。


 とにもかくにも、僕と蟻塚の今日の仕事は、今この時をもって終わりとなる。

 午後からは、やっと夏休みを満喫できるのだ。

 とはいえ、蝶野会長との約束があるので、1人でのんびりとはいかないがな。

 それでも、一仕事を終えた後の解放感は格別だ。

 さて、帰るか。


 僕は受付の内側のスペースに置いていた自分の鞄を手に取った。

 その後、既に図書室で待機していた、午後からの当番の生徒達に声を掛ける。


「じゃあ、僕達はこれで帰るから。後はよろしく。」

「はーい、お疲れー。」

「お疲れ様でした。」


 僕の隣に並んだ蟻塚が恭しく頭を下げ、それからキラキラとした笑顔でこちらを見る。

 その笑顔には、相変わらず妙な圧が秘められていて、思わず逃げ出したくなる。

 だが、今はまだ我慢だ。


「先輩、一緒に帰りましょうか。もし良ければ、私が昼食をご馳走しますよ?」

「いや、僕はこの後予定が入っているんだ。悪いけど……」

「昼食をご一緒するだけでも駄目ですか?」


 蟻塚は悲しそうな表情を浮かべ、上目遣いでこちらに訴えかけてくる。

 そんな顔をされると心がグラつきそうになるのは、僕が優柔不断だからだろうか。

 美少女の憂い顔には、言葉では表現し切れない程の痛切な破壊力が秘められている。


 ただ、午後の昼食については、蝶野会長からも「一緒に食べよう」とお誘いを受けているからな。

 約束が被った場合、先約を優先するのは当然の事。

 しかし、正直に会長との約束があると告げるのは悪手だろう。

 会長に対抗心を燃やす蟻塚を余計に焚き付ける結果になるのは、火を見るよりも明らかだ。


「実は、この後で母さんから買い物を頼まれているんだよ。だからあまりゆっくりしている時間はないんだ。」

「お義母様から? そういえば、いつかご挨拶に伺わなければと思っていたのに、まだ出来ていませんでしたね。」

「は? 待て待て、挨拶って何だよ?」

「お付き合いをしている以上、彼女としてご家族への挨拶に伺うのは常識ですよね?」

「一体いつから僕が君と付き合い始めたんだよ!?」


 こいつ、とうとう脳内で現実を都合良く改ざんしやがった!

 幾ら外見が美少女だからって、こんな妄言を顔色一つ変えず平然と言い放つ女なんて僕は御免だぞ!

 やはり、蟻塚は僕の周りの女子の中で最も危険な存在だ。

 その認識を新たにした僕は、この危険な流れを強引に断ち切るのが最善だと判断した。


「悪いけど、挨拶だとかそういうのはちょっとな。そういうのは止めてくれないか?」

「どうしてですか? 結婚を前提にお付き合いしているのに挨拶もしないなんて、非常識ですよね?」

「だから、そもそも僕達は付き合ってないだろ!」

「ひどいです、先輩。ひどいです、ひどいです……。」


 蟻塚の顔から感情が消え、虚ろな暗い瞳でこちらを見上げてくる。

 目が合った瞬間、ゾクリと悪寒が僕の全身を駆け抜け、思わずその場から後ずさった。


 ヤバい。

 こいつ、いつからこんなキャラになったんだよ。

 以前にも増して、どんどんおかしくなってきているじゃないか。

 一体どうしたら――。


「あのー、2人共、まだ帰らないの?」


 僕と蟻塚のやり取りを聞いていたのか、午後からの当番に割り当てられている図書委員の女子が、こちらに声を掛けてくれた。

 膠着した状況だっただけに、第三者の介入は本当に有難い。

 この機会を逃す手はないだろう。

 場が一瞬緩んだ隙を逃さず、僕はすぐに口を挟んだ。


「悪い、僕はもう帰るよ。そういう訳だから、蟻塚さん、挨拶云々の話はここまでにしてくれ。いきなり挨拶なんて言われても、僕はもちろん、親だって困るだろうしな。」

「そうですか……。先輩だけならまだしも、ご両親の都合を考慮しない押し掛けはマイナスに響きそうですし、今日のところは退くとしましょう。」


 図書委員の子が介入したお陰か、蟻塚の表情は先程までの虚ろなものではなく、普段の彼女の顔つきに戻っている。

 危なかった、何とか暴走を食い止められたか。

 図書委員の子の介入がなかったら、今回はどうなっていたか分からないな。


「じゃあな。」

「はい。さようなら、先輩。」


 校舎の玄関まで一緒に出てきた蟻塚に別れを告げ、僕は駐輪場へ向かう。

 そして蝶野会長に連絡を入れると、待ち合わせ場所への移動を開始した。

 同じ学校にいるのだから、会長と一緒に学校から出る事も可能ではあったが、蟻塚の動向が不安だったため、敢えて学校の外で待ち合わせる事になっていたからな。


 とはいえ、夏真っ盛りの時期に、外で長時間待つのは苦痛どころの話じゃない。

 そのため、会長は既に待ち合わせ場所であるファミレスの店内で待っているとの事だった。

 僕は自転車を必死に漕ぎ、蒸し暑い風を切って目的地へ急ぐ。


 蟻塚とのやり取りがあったせいで、待ち合わせの予定時刻よりも少々遅れてしまっているしな。

 それ以前に、さっきからお腹が鳴りっ放しだ。

 早く何かを腹いっぱい食べたいところだな。


「すみません、お待たせしました。」


 僕がファミレスに着いた頃には、時刻は既に13時半を回っていた。

 今から昼食を食べるには少々遅い時間だが、致し方ないか。

 まあ、ランチタイムのピークを少し過ぎているお陰で、店内がそこまで混んでいないのは救いだろう。

 制服姿の蝶野会長を見つけた僕は、彼女が座るテーブル席の対面に腰を下ろした。


「大変だったね、蜜井くん。また蟻塚さんに絡まれたんでしょ?」

「ええ。って、会長には『少し遅れる』という以外の情報は連絡していませんよね?」

「遅れる理由なんて、聞かなくても大体想像がつくからね。別に不思議な事じゃないよ。」

「あー、確かにそうですね。」


 そもそも、こうして別々にファミレスに来る事になったのも、蟻塚に絡まれるのを見越しての動きだしな。

 僕がわざわざメッセージで事情を伝えるまでもなく、これは蝶野会長にも容易に予測できた展開だ。

 しかし、それにしても会長の言い方がやけに断定染みていたのは少々気に掛かるが……。

 ま、僕の気のせいか。


「蜜井くんは何にする? 私はもう注文する物を決めたよ。」

「うーん、お腹が減ってるんで、ガッツリ食べられる物が良いですね。定番のハンバーグランチにしますよ。」

「じゃあ、早速注文するね。すみませーん!」


 蝶野会長が、片手を挙げて大きな声で店員を呼ぶ。

 中二病モードではない、引っ込み思案な会長が堂々と大声で人に声を掛けられるようになるなんて、彼女もかなり変わってきたんだなぁ。


 おっと、しみじみと物思いに耽っている場合じゃないな。

 今日僕が会長と出掛ける事にしたのは、彼女に相談したい話があったからだ。

 この昼食のタイミングで、仕掛けてみるとしよう。

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