第90話 夏の図書室

 何処の高校もそうだと思うが、夏休み中も部活動や委員会の活動は普通にあるのが世の常だ。

 授業がないだけマシ、と言いたいところだけど、わざわざ授業以外の活動のために休みの日まで学校に来なきゃいけないのは億劫だよな。

 ただでさえ、夏休みには大量の宿題が出ているっていうのに、勘弁して欲しいものだ。

 まあ、委員会の活動は、運動系の部活のようにほぼ毎日出てくる必要がない点が唯一の救いか。

 それにしても、本当に暑いな……。


 などと僕が心の中で愚痴っていると、ようやく目と鼻の先に目的地である自分の高校が見えてくる。

 早く図書室に駆け込んで、冷房の効いた部屋で涼みたい。

 その一心で風を切り、ペダルを踏み込んで、僕が跨る自転車は校舎の敷地に到達した。


「ふぅっ……。」


 今日の午前中、僕は図書委員の当番に割り当てられている。

 だからこそ、休みの日なのに朝早く起きて、汗だくになりながら高校まではるばるやって来た訳だ。

 ここに到着した時点で、もう今日一日の体力を全て使い果たした気分になったけどな……。

 冷房の効いた図書室で休憩したいところだが、果たして僕とペアを組む彼女が、それを許してくれるかどうか。


「おはよう。」


 僕は図書室の扉をガラリと開け、受付に座っている黒髪サイドポニーの女子生徒に……ん?

 サイドポニー?


「あ、先輩。おはようございます。」


 受付に備え付けられている椅子から立ち上がり、楚々とした仕草で女子生徒が頭を下げると、その動きに合わせて頭部の右側で結われたロングのサイドポニーがふぁさっと揺れる。


「蟻塚さん、髪型を変えたのか?」

「はい。どうですか? 似合っていますか?」

「ああ、まあな。」


 いつもの黒髪ロングも良いが、たまに髪型が変わると新鮮さがあるな。

 髪を束ねたお陰で首回りがすっきりしていて、近付くと白いうなじがよく見えるのが色っぽい。

 外見だけで言えば、蟻塚は僕の好みど真ん中なので、こういう軽めのイメチェンは……いや、グッと来ますね、はい。

 ドストライク過ぎて言葉遣いがおかしくなっているところは、あまり気にしないでくれ。


「先輩? さっきからボーッとしているみたいですけど、もしかして見惚れてしまいましたか?」

「え? あー、いや、その、だな……。」

「ふふっ。やはり、先輩の好みは私の予想していた通りのようですね?」


 得意げに微笑む蟻塚は、正直言って非常に可愛い。

 しかし、それを直接口に出して認めるのは憚られる。

 そんな事をしたら、彼女からのアプローチが激しくなる事は必至だからな。


 幾ら外見が好みでも、口が悪い上に脅しを掛けるような真似を平然と仕掛けてくる女はさすがにお断りだ。

 付き合い始めてから喧嘩の1つや2つでもしてみろ、どうなる事か。

 言い争ったりせず、平和にカップルとしてやっていけるなら然したる問題はないだろうが、蟻塚の性格上、それが難しいのは分かり切っている。


 だからこそ、外見だけに惑わされず、きちんとした良識を持った女子と付き合いたいというのが僕の本音だ。

 僕の周りでその条件に当て嵌まる唯一の女子、蜂須は、今日は朝からアルバイトに勤しんでいる。

 彼女は、僕の図書委員の当番に合わせて学校に来てくれるつもりだったらしいのだが、今朝バイト先の店長から「体調不良の子の代わりに出て欲しい」と急遽頼まれたため、今日はこちらに来れなくなってしまったのだ。


 蜂須に会える事を期待していただけに、正直テンションが下がるよなぁ。

 いっその事、本当に蜂須と恋人同士になれば、理由なんてなくても堂々と顔を合わせられるっていうのに。

 はぁ、蜂須と本当に付き合うにはどうしたら……そうだ!


 ここは、思い切って本気のデートに彼女を誘ってみるのはどうだろう。

 そして、デートの終盤で自分の気持ちをぶつける。

 まさしく、王道の告白だ。


 でも、それが出来るなら最初から苦労しないんだよなぁ。

 堂々とそんな事が出来る度胸の持ち主が、陰キャの立場に甘んじている訳がない。

 誰か、僕に告白のイロハを教えてくれぇ!


「先輩。いつまでそこで棒立ちしているんですか? 私に見惚れるのは結構ですが、仕事も大事ですよ?」

「お、おう。分かってる。」


 もっとグイグイ来るかと思ったが、意外と仕事は真面目にやるつもりらしいな。

 いや、こいつはそもそも真面目な性格だったか。

 図書委員の当番の初日から、僕よりも早く図書室に来ていたくらいだしな。

 挙句、少し遅れてきた僕に苦言を呈してきたのだから、蟻塚は本当に肝が据わっている。


「ま、夏休みの図書室なんて、殆ど人は来ないだろうけどな。」

「だと良いのですけれど。どうやら、そう上手くはいかなかったようですね。」

「は?」


 険しい顔をした蟻塚が、不意に図書室の出入り口を見やる。

 その直後、まるで謀ったかのようなタイミングで扉がガラリと開き、1人の女子生徒が図書室に入ってきた。

 彼女は、図書室に入るなり本棚へは向かわず、僕達がいる受付の方へ真っ直ぐ近付いてくると、穏やかな微笑を浮かべる。


「おはよう、蜜井くん、蟻塚さん。」

「お、おはようございます、蝶野会長。」

「おはようございます。私達が図書室を開けた直後に来るなんて、驚きました。」

「ククク。私は生徒会長だぞ? 朝から学校にいてもおかしくあるまい?」


 栗色の髪をふわりと掻き上げてそう答える蝶野会長は、久しぶりの中二病モードになっているみたいだな。

 彼女が素の状態を露にするのは僕と2人きりの時だけと決まっているから、今回はこっちのモードになっているんだろうが、最近は素の彼女と接する事が多かったので逆に新鮮だ。


「今日も本を借りに来たんですか?」

「うむっ、生徒会の仕事のついでにな。それと、もちろん其方に会いたかったから、というのもあるが。」


 ススッとこちらに近付いてきた蝶野会長が、至近距離で僕を見上げながら指先で頬をツンツンと突いてくる。

 また、会長は香水でもつけているのか、フローラルの甘い香りが僕の鼻腔を擽ってきた。


 何だろう、この人、以前よりも更に距離が近いような。

 っていうか、至近距離で微笑まれると、さすがにドキドキしてくるんだが。

 中身はちょっと残念なところもあるけど、外見だけならアイドル級の美少女だしな。


「蝶野生徒会長? 私の先輩に、勝手に触らないでもらえますか?」

「っ!」


 思わず背筋がゾクリとするような声音が、僕の背中を容赦なく突き刺してくる。

 驚きのあまり、一瞬だけ飛び上がってしまった僕が後ろを振り返ると、案の定、目の据わった蟻塚がこちらを凝視していた。


 声色は明らかに怒っている感じなのに、蟻塚の表情には露骨な怒りの色が出ておらず、ほぼ完全な無表情と言っても良い顔つきだ。

 だからこそ、余計に怖い。

 普通にキレてくれた方が、まだマシなくらいなんだが?


「ククク。彼は、まだ誰とも付き合ってはいないはずだぞ。当然、蟻塚さんとも、な。であるならば、私が彼に触れても何も問題はないだろう?」

「問題があるから、こうしてわざわざ抗議したつもりだったのですけれどね。蝶野生徒会長は優秀な方だと聞いていましたが、この程度の事も分からないような脳みその持ち主だったのですか?」

「其方こそ、己の優秀さをあれだけ喧伝していた割に、現実をまともに見る目がないようだな。蜜井くんを思い通りに出来ないからと言って、彼とまるで付き合っているかのような妄想に逃げるのは情けないと思うが?」


 あのー、お2人さん?

 さっきから物凄く火花を散らしていないですかね?

 正直どっちも怖過ぎるんですが。


 こういう時は――うん、逃げるが勝ちだな!

 久しぶりに、事なかれ主義を発動させてもらうぞ!

 図書委員の仕事よりも、身の安全が最優先だからな!


 決心を固めた僕は、抜き足差し足で、そろりそろりと――。

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