第89話 ある少女の独白 ―孤独な蜂― 後編
鮮血に塗れた弟の姿を見てしまったわたしは、目の前が真っ暗になる感覚を再び味わう事となった。
それから、どれだけの時間が経過しただろうか。
我に返ったわたしは、いつの間にか、病院の霊安室に立っていたわ。
我に返ると同時に、左の頬がジンジンと痛む事に気付いたわたしの胸倉を、目の前に立っていた母が乱暴に掴んだの。
「綾音! あなたのせいよ! 功太が事故に遭って助からなかったのは、あなたのせいよ!」
「……。」
「黙っていないで、何とか言いなさいよ! 功太に謝りなさいよ!」
「お母さん、落ち着いてください!」
激昂する母と、母を必死に宥めようとする医者や看護師。
ふと視線を横に逃がすと、傍らのベッドには目を閉じて眠る功太の姿があったわ。
可愛らしかった顔には無数の傷や痣が出来ていて、事故の悲惨さを克明に物語っていた。
わたしはそれ以上弟の顔を直視できず、すぐに視線を正面に戻したの。
すると、憎悪を滲ませた瞳でわたしを睨んでいる母と目が合ってしまった。
「離して! 綾音には、言わなきゃいけない事がまだまだあるのよ!」
「お母さん! もうそのくらいに……」
「綾音! あんたの事は、絶対に許さないわよ! あんたのせいで、功太は死んだんだから! この……疫病神!」
「……っ!」
疫病神。
母がわたしにぶつけた幾つもの言葉の中で、その単語は、わたしの耳と心を奥深くまで突き刺した。
父に続いて功太まで喪った事で、この時の母には余裕がなかったんだろう。
それでも、わたしの胸に突き刺さった痛みは紛れもない本物だった。
ズキンと痛む感触を覚えると同時に、わたしの心の奥底から、仄暗い感情が沸き上がってくる。
沸き出した感情は、迸るマグマのように、わたしの口を突いて火を噴いた。
「何で……どうして、わたしばかりが責められなきゃいけないのよ! わたしは、毎日家事も勉強も必死に頑張っているのに! 功太はね、わたしと違ってお手伝いの約束を何度もすっぽかしていたのよ!? 功太がお手伝いの約束を守っていたら、わたしが叱る事も、家を出て行って事故に遭う事もなかったわ! わたしは何も悪くない!」
「功太を死なせておいて、開き直るつもり!? いつからあんたはそんな娘になったのよ!」
意味が分からない。
わたしは何も間違った事はしていないのに、どうしてこうなるの?
ずっと「真面目」に頑張っていたのに。
――もしかして、それが間違いだった?
でも、そう考えると辻褄は合う。
これまでの出来事も、わたし達が置かれている今の状況も。
それが、全ての諸悪の根源だったんじゃないだろうか。
1つの結論に至ったわたしは、急速に頭が冷えていくのを感じた。
軽く深呼吸をして、乱れていた呼吸を整えたわたしは、ここで反撃に転じる事にしたのよ。
「ねぇ、お母さん。お父さんは、昔からずっと口癖のように言っていたわよね。『真面目に生きていれば、最後には必ず報われる』って。」
「今はそんな話は関係ないでしょう! 話を逸らさないで!」
「関係はあるわよ。だって――わたし達の家族は、全然報われてないじゃない。そうでしょ?」
「まさか、お父さんの言葉にまで泥を塗るつもりなの!? 何処まで口答えするつもりなのよ!?」
「だって、本当の事でしょ。」
わたしは、何1つとして間違った事は言っていない。
何故ならば、わたしが導き出した結論には明確な根拠があるからだ。
「お父さんが一番守らなくちゃいけなかったのは、同僚の人なんかじゃなくて、わたし達家族なのに。よその人を庇って、ずっと真面目だったお父さんは死んじゃったわ。」
もし、父がまだ生きていたら、わたし達一家は今も幸せに暮らしていただろう。
だが、父の死が全ての歯車を狂わせた。
「お父さんが亡くなって、お母さんは忙しくなった。だから、小学生になったばかりの功太にも家事を多く手伝ってもらう事になった。そのせいで忙しくなって遊べない事を不満に思っていた功太は、わたしに叱られて、自分の境遇に反発して家を飛び出した結果、死んでしまった。」
父の死がなければ、弟は他の同級生の子達と同じように、自由に遊び回る事が出来ていたはずだ。
不満を爆発させて事故に遭う未来は、少なくともここで訪れる事はなかった。
「そして、お母さんは家計を支えるために毎日ボロボロになるまで働いているでしょ? お父さんの死からまだ立ち直れてなくて、精神科からお薬をたくさん貰ってる状態なのにね。」
心を病んでいる状態なのに、母はわたし達を養うために無理をしていた。
笑顔を失い、いつも疲れた顔で奔走していた。
「これの何処が、幸せなの? 真面目に生きようとした結果、わたし達は不幸のどん底に堕ちた! お父さんがわたし達に遺した言葉は、間違っていたのよ!」
わたしの家族は、日々を真面目に一生懸命に生きていた。
だけど、今こうして不幸の真っ只中を生きる事を強いられている。
死んでしまったら最後に報われるも何もあったものじゃない、という真理を、お父さんと功太の末路がわたしに教えてくれた。
「綾音ぇぇぇ! あんたは、まだ――」
「お母さん、落ち着いて! 一旦移動しましょう! 君、手伝ってくれ!」
「は、はい!」
わたしに掴み掛ろうとした母を、医者や看護師達が強引に引っ張って霊安室の外へと連れ出していった。
今思い返せば、わたしが母と言葉を交わしたのは、これが最後だったかしらね。
意外にも、功太の死後も母はわたしの養育を放棄せず、これまで通り同じ家で暮らす事になったの。
母は、「父の分まで自分が踏ん張り、子供達を立派に育てる」という誓いを律儀に守るつもりだったらしいわね。
しかしながら、父の死から立ち直れていない状況で起きた功太の死によって、母の精神状態は以前よりも更に悪化してしまった。
我が家の唯一の収入源である母のパートの仕事もシフトを減らす事になり、収入の減少に伴ってわたし達はオンボロの安アパートに引っ越したの。
また、これ以降、母は週2~3回のパートの仕事と買い物、病院通い以外で外出する事はなくなった。
一方のわたしの日常にも、これを切っ掛けに大きな変化が起きたわ。
わたしが弟の忌引きを理由に暫く中学校を休んでいたから、下衆な尾ひれの付いた噂が学内に広まってしまったの。
父と弟の相次ぐ死、更に弟の死にわたしが関与していたのは事実であったため、わたしは尾ひれの付いた噂を払拭し切れず、親しくしていた友人達はみんな離れていった。
それどころか、疫病神だの呪われるだの、陰口を叩かれる事も珍しくなくなった。
「真面目に生きるなんて、馬鹿らしい……!」
真面目に生きていたって、何も良い事なんてないじゃない。
むしろ、好き勝手に生きる方が幸せに生きられるんじゃないかしら?
実際、もしわたしが最初からそういうスタンスを取っていたら、功太も死なずに済んだかもしれない訳だし。
真面目、って言葉を耳にするだけで、怖気が走る。
忌々しいその単語を聞かされるだけで、底知れない程の吐き気と怒りが込み上げてくる。
「真面目に生きるなんて、もうたくさんよ。これからは好きにさせてもらうわ。」
そう決意を新たにしたわたしだったけど、当時まだ中学生だった自分にはお金を稼ぐ力がないので、何でも好き勝手という訳にはいかない。
わたしが中学校を卒業するまでの間、表面上は今まで通りを装ってのらりくらりと過ごす必要がある。
例えば、教師に目を付けられて母を呼び出されたりしたら厄介な事になるしね。
だから、中学校の卒業式を迎えるまで、ありとあらゆる嫌がらせや陰口を受けてもわたしはひたすら耐え続けた。
また、中学校を卒業した後の進学先として、同級生達がまず選ばないであろう少し遠い場所の公立高校を選んだ。
そして、待ち望んでいた中学校の卒業式の日。
わたしは帰宅するなり私服に着替え、これまでに貯めていたお小遣いやお年玉の残りを持って街へ繰り出した。
それからギャルが着るような服や小物、外出用のコンタクトレンズを何点か購入したの。
更に予め予約していた美容院に行き、髪を金色に染めてもらってから、髪型を頭の左側で結ったサイドポニーに変更した。
「うん。意外とサマになってるじゃない。」
地味で真面目な優等生だった「わたし」は、中学校の卒業と同時に消滅した。
これからは、自堕落で自分勝手なギャルの「あたし」として、アルバイトでお金を稼ぎながら高校生活を満喫する。
そんな未来を思い描いて、あたしは今の高校に入学したの。
入学して間もなく、自分と同じような外見をしたギャルの子達と仲良くなって、あたしの高校生活は思い描いていた通りの順風満帆なスタートを切ったかに見えた。
だけど――。
「あれさー、マジヤバいっしょ?」
「うんうん、分かる分かる~!」
「でさー……って、綾音? さっきからずっと黙ってるけど、どうしたのよ?」
「えっと……ごめん、別に何でもないわ。」
「そう? っていうかさ、綾音っていつもノリ悪くない?」
「あー、それウチも思ってた。なんつーかさ、割と大人しいよね?」
「そ、そんな事は、ないわよ?」
友人達に疑惑の目を向けられたあたしは慌てて取り繕うが、友人達の表情から不信感が消える気配はない。
それもそうだろう、入学してから1ヶ月近くが経過しているのに、あたしは他の友人達から一歩引いた位置に立っていたからだ。
それ以上踏み込もうと思っても、あたしにはそれが出来ない。
何故なら、高校生になってからのあたしのキャラは、何もかもがハリボテの紛い物。
元々真面目な優等生として生きてきたあたしが、いきなり中身までギャルになり切れる訳がない。
今のあたしのキャラは、所詮付け焼き刃なのよ。
そんなあたしがギャルの友人達と上手くやっていくためには、どうすれば良いだろうか。
「あ、そうだ。もうすぐ中間テストがあるじゃん? 赤点取ったらどうしよー!?」
「中間も期末も赤点だったら、夏休みに補習受けなくちゃいけないんでしょ? 絶対やだ!」
「でもさぁ、ウチら勉強あんまり出来ないじゃん。ここの入試だってギリギリだったくらいだしさ。」
高校に入学してから初めての定期テストを間近に控えたある日、友人達はテストの話題で盛り上がっていた。
あたしと違って、この子達は見た目通り、あまり勉強熱心なタイプではないみたいだ。
かくいうあたしも、高校に入学してからはめっきり勉強をしなくなったけど、中学時代は真面目に過ごしていた事もあり、少し頑張れば後れを取り戻せるくらいには勉強の基礎は出来ているつもりだった。
――あ、そうか。
もしかしたら、これ、使えるかも。
今後の学生生活を快適に過ごすために、あたしの立場を守れるかもしれない唯一の方法。
それは――。
「ねぇ。あの……もし良かったらなんだけど、あたしが勉強見てあげようか?」
「え? 綾音、勉強出来るの?」
「まあ、それなりにね。赤点なんて取りたくないでしょ? だったら、カフェとかファミレスで喋りながらあたしが勉強見ようかなって思ったの。」
「マジ? ちょー助かる! 今のクラスで誰が頭良いのか、まだ全然分かんないしさ。綾音が出来るんだったら、見てもらうのもアリじゃない!?」
「んー、勉強ダルいけど、夏休み潰れて補習になるよりはマシかぁ。」
「じゃ、決まりだね! 綾音、よろしく。」
「ええ、任せて。」
いまいちソリが合わなかった友人達に勉強を教える、という名目で、あたしは自分の居場所を勝ち取る事に成功した。
この居場所を守るため、あたしはこれ以降も自主勉強に励むようになったわ。
真面目に生きる事を止めるために真面目に勉強するハメになるなんて、本末転倒も良いところだし、笑ってしまいそうになるけどね。
でも、いつまでもそんな生活は長くは続かなかった。
高校2年生に進級して間もない頃、球技大会のイベント中に、あたしの学校生活に明確な綻びが生じてしまったのだ。
しかし、その代わりに、あたしは蜜井や蟻塚さん、蝶野生徒会長と親しくなる事が出来た。
それまで仲良くしていた連中とは違って、蜜井達の前ではありのままのあたしでいられる。
あたしが欲していた、本当に心安らげる場所が、そこにはあった。
でも、あたしは気付いてしまったのだ。
再び地獄に堕ちそうになったあたしを救ってくれた蜜井が、蟻塚さんや蝶野生徒会長に奪われそうになっている事に。
そんなの、認められる訳がない。
許せるはずがない。
あたしに新しい居場所を作ってくれた彼を、あたしから奪わないで。
これ以上、あたしの幸せを壊さないで。
あいつを守るために、そして自分の幸せを掴むために、あたしが為すべき事は――。
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