第88話 ある少女の独白 ―孤独な蜂― 中編
あれは、父の死から1年ほど経過した頃だったわ。
当時、わたしは中学2年生に進級し、功太は幼稚園を卒業して小学生になったばかりだった。
母は、相変わらずパートに勤しみ、家事まで手が回る状態じゃなかったから、わたしと功太が家事を支えていたの。
家事をするために、放課後は、友達と遊ぶ暇もなく真っ直ぐ家に帰る日々。
ただ、わたしはともかく、小学生になったばかりの功太にそれを強いるのは酷だ。
そこで、わたしと功太は相談し合い、功太には特定の曜日だけ早く帰ってきて家事を手伝ってもらう、という約束を交わしたの。
入学当初の功太は、わたしとの約束を律儀に守り、指定した曜日に真っ直ぐ帰宅して家事を手伝ってくれた。
だけど、小学生の、しかも低学年とくれば、普通は遊びたい盛りの年頃よね。
だからか、小学校の入学から程なくして功太はたまに約束を破るようになり、日が暮れる直前に帰宅してくる事が次第に増えてきた。
功太の助けを借りず、わたしが1人で家事を請け負う事も、一応出来なくはない。
わたしが全ての家事を一手に引き受ければ、功太は他の子達と一緒に存分に遊び回る事が出来ただろう。
でも、わたしにはわたしの勉強がある。
将来、弁護士になって家計を支えるという夢を抱いていたわたしに、勉強を疎かにする選択肢は採れなかったの。
情けない話ではあるけど、少しでもわたしの勉強時間を確保するためには、功太の助けは絶対に必要だった。
「ただいま、お姉ちゃん……。」
「功太。今日は早く帰ってくる曜日だったわよね? また友達と遊んできたの?」
ある日、日が暮れた直後に帰ってきた功太を、わたしは玄関で問い詰めた。
さすがに罪悪感を覚えていたのか、あの時の功太は、玄関の扉を背にした状態で俯き、泣きそうな顔をしていたわ。
その姿を目の当たりにして、わたしは胸がチクリと痛んだ。
でも、家事と勉強に追われる日々に疲れていたわたしは、そこで踏み留まる事が出来ず、荒ぶる感情のままに語気を強めたの。
「ついこの前も注意したばかりよね? お母さんが毎日忙しくしているんだから、わたしと功太が家事を頑張らないでどうするの?」
「だ、だって……」
「だって、何?」
「ぼくも、みんなと遊びたいよ……! 何で、ぼくはみんなと遊んじゃ駄目なの!?」
涙ぐんで、声を上げて反論する功太。
いつも素直な弟がこうして反抗するのは、とても珍しい事だった。
功太にも色々と我慢を強いてきたのだから、こうなるのは仕方のない展開だと思う。
だけど、この時のわたしに、功太を慮るだけの余裕はなかったのよ。
「駄目とは言ってないでしょ? お手伝いをするって約束した曜日に真っ直ぐ帰ってきて、ちゃんとお手伝いをしてくれるのなら、他の日は遊んでも構わないわ。」
「みんなは、毎日遊んでるんだよ!? それに、他のみんなは家のお手伝いをしたらおとーさんやおかーさんに褒めてもらえるのに、ぼくはおねーちゃんに殆ど褒めてもらった事ないよ!」
周囲の子達と自分の境遇が異なる事を、功太は幼いながらに理解している。
不公平感を募らせ、溜まりに溜まった不満をわたしにぶちまけてきている。
功太に無理を強いているのは紛れもない事実である以上、どれだけ正論を尽くしても、幼い功太を完全に納得させる事は困難だろう。
このような場合は、粘り強く懸命に説得するのが、姉であるわたしの役目。
でも、功太ほどではないけど、わたしにだって、友人と遊びに行ったりしたいという欲求は確かにある。
ただ、家事によって勉強時間を削られているし、遊ぶにしても家計にあまり余裕がないから、わたしは我儘を言えなかった。
お父さんの遺してくれたお金があるとはいえ、母の老後やわたし達の教育資金、万が一の病気や事故への備え等も考慮すれば、将来安泰とは言い難いのが実情だ。
だから、買いたい服や本もなるべく我慢していたし、わたしもフラストレーションが溜まっていたのよ。
要するに、功太だけが不幸な境遇にいる訳ではない。
それでも何とか胸の内に押し込めていた不満が、功太に触発された事で、一気に火を噴いてしまった。
「家がこんな状況なんだから、仕方ないでしょ! わたしは毎日学校から真っ直ぐ帰って、家事をしているのよ!? 平日だけじゃなく、土日も殆どわたしが家事を引き受けているの。でも、功太はそうじゃないでしょ!?」
「でも、他のみんなは殆ど毎日遊んでるもん! ぼくだって、みんなみたいに毎日遊びに行きたいよ!」
「あー、もう! 我儘言うのはそのくらいにしなさい! わたしもお母さんも、毎日頑張ってるんだから! それ以上我儘を言うなら、本気で怒るわよ!」
わたしはもう、怒りを堪える事が出来なかった。
溜まりに溜まった鬱憤を晴らすように、腹の底から怒鳴り声を上げ、目の前の弟にぶつけてしまったのよ。
ハッとして気付いた時には、もう遅かったわ。
「う……うっ、ぐすっ、ひぅっ!」
「こ、功太? えっと……」
「ぼく、もうやだ! お姉ちゃんなんか、大嫌い!」
涙を溢れさせた功太が、勢い良く玄関の扉を開け、わたしから逃げるようにして外へ出て行ってしまった。
怒りをぶちまけ、弟を泣かせてしまった罪悪感に駆られたわたしは、暫くその場から動けないでいたけど、すぐに我に返り、慌てて靴を履いたの。
「功太、待ちなさい!」
もう既に日が落ちて、外は暗くなってきている。
小学1年生の功太を1人で出歩かせるのは不安な時間帯だ。
一刻も早く連れ戻さなければ、事故に遭うかもしれないわ。
功太が出て行ってからわたしが追い掛け始めるまで、少し時間差があったため、家を出た時点で功太の姿は見えなくなってしまっていた。
だから、功太が行きそうな場所を目指して、ひたすら走り回って探すしかなかったのよ。
「功太! 何処に行ったの!?」
息を切らしながら叫んでみるものの、功太からの返事はない。
わたしの声が聞こえる範囲にいないのか、はたまた、単に無視されているだけなのか。
その答えは、最悪の形で判明する事になったわ。
「あの人だかりは……」
自宅の周辺などを走り回った末、とある交差点に人だかりが出来ているのを、わたしは見つけた。
また、人だかりの傍には、バンパーが凹んだ車が停車している。
もしや、交通事故でもあったのだろうか。
交差点を通り抜ける際、わたしはチラリと横目で人だかりの中心に目を向けた。
「駄目だ! 意識がない! 早く、救急車を!」
「こんな小さな子が、可哀そうにねぇ。」
「赤信号なのに横断歩道に飛び出すなんて、よっぽど急いでいたのかしら?」
人だかりを形成している野次馬から、断片的に聞こえてくる事故の情報。
そして、サラリーマンらしきスーツ姿の男性に抱き抱えられている、事故の被害者と思しき血塗れの子供は――
「え……こ、功太?」
学校帰りで、ランドセルを背負ったまま家を飛び出した弟。
たった1人しかいない自分の弟の顔を、わたしが見間違えるはずがない。
功太が着ていた服もランドセルも、おびただしい量の鮮血に濡れて、真紅に染まっている。
「功太! 功太っ!」
嘘だ。
嘘だ、嘘だ、嘘だ。
こんな事、ある訳ない。
きっと、家事や勉強で疲れが溜まっているせいで変な夢を見ているだけなのよ。
わたしは、何度も自分にそう言い聞かせる。
だけど、いつまで経っても夢が醒める気配はなかった。
目の前で広がる悪夢は、紛れもなくわたしが生きている現実の出来事なのだと、否応なしにわたしは思い知らされたのだ。
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