第82話 入り乱れる思惑

 青褪めた顔で、テーブルに視線を落としたまま無言になってしまった蜂須。

 彼女は、蟻塚にどんな秘密を握られたと言うのだろうか。

 それが気にならないと言えば、当然嘘になる。

 だが、僕は――。


「蟻塚さんが今この場で何を言おうと、僕は綾音を見放したりはしない。自分の彼女を信じるのは、彼氏として当然の役目だからな。」


 蜂須の秘密の正体を追及する必要はない。

 人間、誰しも恥ずかしい弱みの1つや2つはあるものだ。

 少なくとも、真面目な彼女が悪事を働いたとは考え辛いしな。

 だったら、秘密は秘密のままにしておくのが一番良い。

 無理に穿り返して禍根を残すのは、事なかれ主義の信条にも反する。


 僕の中では、既にそう結論が出ていた。

 しかし、僕のその答えは、蟻塚にとっては当然歓迎できないモノだったはずで。

 それを証明するように、蟻塚の表情はみるみるうちに変化していく。


「なるほど、先輩はそういう考えなんですね。事なかれ主義らしい答えですけれど、私、以前にも先輩に言いましたよね? 事なかれ主義に従って問題を放置した結果、却って大きな問題を引き寄せてしまう事だってある、って。」

「そう言う蟻塚さんが、現在進行形で大きな問題を作ってるんだけどな。マッチポンプもいいところだ。」

「ふふっ、そうかもしれませんね。先輩と遠慮のない会話を交わすのは、やっぱり楽しいです。ちょっと昂ってきてしまいますね。」


 怒りが滲み出ていた蟻塚の表情に喜色が混ざり、彼女の瞳が爛々と輝き始める。

 この珍妙なやり取りを、こいつは本当に心の底から楽しんでいるらしい。

 全くもって理解不能な感性の持ち主だな……。


「先輩のお気持ちはよく分かりました。ですが、今日は1学期の終業式の日。今ここで先輩をあっさりと帰らせる訳にはいかないんですよ。」

「だろうな。」


 蟻塚が僕と夏休み中に会おうと思ったら、電話やメッセージを飛ばして約束を取り付ける他ない。

 僕の自宅の場所を知っているのなら強引に押し掛ける手も取れただろうが、そうした手段に言及しないという事は、さすがに自宅までは突き止めていないとみて良さそうだ。

 もしそんな事をしていたら、本格的にストーカー染みて……ん?


 蟻塚が、本当に僕の自宅を知らないのならば。

 先日僕の自宅近くの電柱の影に引っ込んだあの人影は、蟻塚でない事が確定的になるんじゃないのか?

 正直、今のこいつならストーカー行為くらいはやりかねない、とは少々思っていた。

 だから、蜂須には今回その推測についても話すつもりだったのだが、完全にアテが外れたな。


 しかし、あの謎の人影の正体が蟻塚でないのなら、僕には他に思い当たる人物なんていないぞ。

 それでも無理やり候補を捻り出すとしたら……またあのギャル連中が動き始めた?

 いや、あいつらがこんな忍耐力のいる嫌がらせをわざわざ仕掛けてくるとは考え辛い。

 もっと少ない労力で実現できる嫌がらせなんて、幾らでもある訳だし。


「先輩? 私がさっきから喋っているのに、急に無反応になるのは失礼ですよ?」

「え? 何か言っていたのか?」

「言いましたよ。考え事をしていたのかは知りませんけど、完全に聞いていなかったみたいですね?」

「わ、悪い。」


 蟻塚がどういう奴であれ、話を適当に聞き流しても良い理由にはならない。

 僕が頭を下げると、彼女は呆れたように肩を竦め、フッと息を吐いた。


「いえ、別に怒っていませんし、構いません。それよりも、先輩は忘れていませんよね? 夏休み中にも、図書委員の仕事はあるという事を。」

「あー……。そ、そういえば、あったな、ははっ。」


 やっべ、完全に忘れてた。

 そうだ、こいつとは夏休み中も普通に何度か顔を合わせる事になるんだ。

 今月の上旬頃に、月1の委員会の集まりで普通に夏休み中の当番決めがあったばかりなのに、頭からすっぽりと抜け落ちていた。


 冷や汗をダラダラと流しながら乾いた笑いを零す僕に、蟻塚と、ついでにいつの間にか硬直状態から復帰していた蜂須が白い眼を向けている。

 蜂須が正気に戻るほど、今の僕ってひどかったのか?

 もしそうだとすると、本気で凹むんだが……。


 うん、ここは綺麗さっぱり今のやり取りを忘れてしまおう。

 それが一番良いはずだ!

 嫌なことは全部ゴミ箱に捨てちゃえ、なんて歌いたくなる気持ちを堪えながら、僕は1人、心の中で何度も頷いた。


「一応言っておきますけど、先輩と私の当番、夏休み中に何度かありますからね? 最初の当番の日が、早速来週に控えている事を忘れないでください。」

「わ、分かってる。」


 この流れは危険だ。

 夏休み中は、部活動や委員会の活動以外で生徒が登校してくる事は基本的にない。

 図書室に本を借りに来る生徒もいない訳じゃないが、わざわざ学校まで来て借りずとも、市内の図書館で借りるという選択肢もあるしな。


 ただ、夏休み中に図書室に本の貸し借りに来る数少ない生徒のために、当番が割り当てられた図書委員は、平日の朝から夕方までの間、図書室を開けておく必要がある。

 しかしながら、1組の当番が朝から夕方までずっと拘束される訳ではなく、午前中と午後で担当が入れ替わる形式だ。

 夏休みに丸一日拘束はさすがにキツいから、当番が午前中か午後だけで済むのは正直助かる……とは安易に言えないのが辛いところだな。


 午前中と午後で担当が入れ替わるという事は、1日につき、図書委員のペアは2組が出勤してくる訳だ。

 つまり、学校の授業がある期間の2倍のスピードで委員会の当番が回ってくる。

 夏休み中に何度も登校を強いられるくらいなら、いっそ丸1日拘束される代わりに登校日を少なくしてもらう方がありがたい気がしなくもない。


 とはいえ、部活動に所属している奴に比べればまだマシなのは確かだ。

 せっかくの夏休みにも拘わらず、部活動のために平日は殆ど登校するとか、最早何処が休みなのか分からないからな。


 まあ、夏休み中の当番についての愚痴はこのくらいにして。

 本題は、ここからだ。


「あんたが夏休みの当番で出てくる日って、当然もう決まっているのよね?」

「ああ、夏休み前の委員会の集まりで、全部決まっているけど。」

「なら、話は早いわね。あんたの当番の日に合わせて、あたしも図書室に行くわ。」

「待ってください! 蜂須先輩、本気ですか!?」


 珍しく、蟻塚が狼狽した様子を見せる。

 それもそうだろう、夏休みの図書委員の当番中に、こいつは間違いなく何かを仕掛けてくるつもりだったはずだ。

 しかし、蜂須が図書室に張り付けば、その計画は瓦解する。


 いいぞ、蜂須!

 いけいけ蜂須っ!

 と僕は心の中でガッツポーズを取る。

 僕の思っている事など当然知る由もない蜂須だが、彼女の怒涛の攻勢はまだ続いた。


「冗談で言ったつもりはないわよ。アルバイトの日以外は、基本的に暇だしね。図書室で色々と本を読む事も出来るし、冷房も効いてるから、あたしにとっても割と好都合なのよ。」

「くっ……!」


 蟻塚からは、余裕たっぷりな笑顔も既に消え失せている。

 彼女が押されているのは、火を見るよりも明らかな状況だ。

 この場における趨勢は、最早決したものだと僕は確信していた。

 しかし――。


「そちらの考えはよく分かりました。ならば、こちらも迎え撃つだけです。また会う時を楽しみにしていますね。」


 程なくして落ち着きを取り戻したらしい蟻塚が、淡々とした口調でそう答える。

 やっぱり簡単には退いてくれなかったか。

 まあ、最初からそう上手くいくとは思っていなかったので、別に問題はない。

 それに、こうして話し合いを持ったお陰で、一定の収穫も得られたしな。


 最近、僕に付き纏う謎の人影の正体は、蟻塚ではない可能性が高い。

 それが分かっただけでも、今回は良しとしておこう。

 店員がこちらに料理を持ってくるのを視界に捉えながら、僕は心の中でそう結論付けた。

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