第75話 危険信号
週明けの月曜日、いつものように僕が登校してきた時点で、蜂須は自分の席についていた。
どうやら、昨日は本当に何もなかったようだ。
良かった、と一安心したのも束の間。
「おはよう。」
「……。」
あれ、挨拶した瞬間に蜂須に思い切り視線を逸らされたぞ。
返事もないし、明らかに無視されているよな?
気にはなるが、今この場でしつこく蜂須を追及する訳にはいかないのが歯痒いところだ。
クラスメイト達は、僕と蜂須がそれなりに親しい事は知っているが、教室以外でもよく一緒にいる程の仲だとは認識していない。
お互いに名前で呼び合う程の関係であると周囲に露見すれば、以前ギャル連中が嫌がらせ目的で囃し立てていた噂が真実になってしまう。
僕としては実際に蜂須と付き合うのも大いに有りだと考えているので、周囲から囃し立てられたとしても、然したる問題にはならない。
しかし、僕と蜂須がカップルであるという噂が広がってしまう事は、蜂須にとっては迷惑かもしれないのだ。
少なくとも、教室という場でこれ以上蜂須を追及するのは諦めるとしよう。
昼休みになれば、話し掛ける機会が訪れるはず。
そんな僕の淡い目論見は、敢え無く砕け散る事になる。
「先輩! 一緒にお昼を食べましょう!」
「げ、蟻塚さんか……。」
いつも蜂須と昼休みを過ごす際に利用している空き教室に、今日も今日とて蟻塚が笑顔で現れた。
夏用の制服に身を包んだ黒髪ロングの女子の笑顔には、絵になる美しさがある。
警戒しなければならない相手である事を一瞬だけ忘れてしまいそうになるが、油断は禁物だ。
待ち人である蜂須の姿は、一向に見える気配がない。
今朝の挨拶を無視された件といい、土曜日の出来事が未だに蜂須の中で尾を引いているのは確実だろうな。
彼女が盾になってくれない今、僕は単騎で蟻塚に抗う必要がある。
固唾を飲んで肩肘を張る僕の正面に、蟻塚は躊躇なく腰を下ろし、先制攻撃を仕掛けてきた。
「蜂須先輩はどうしたんです? もしかして、完全に見放されたんですか?」
「そんな訳ないだろ。用事があるから今日は来れないかも、と言われただけだ。」
蜂須との間に起きた出来事を馬鹿正直に蟻塚に打ち明けても、こちらが有利になるどころか、余計に追い込まれるだけだ。
ならば、ここは嘘でもこう言っておくのがベストだろう。
しかしながら、この程度の浅い考えが通用する程、蟻塚は甘い相手ではない。
「そうですか。なら、蜂須先輩本人に直接確認しても構わないですよね?」
「いや、それは……」
蜂須に口裏合わせを頼めない状況下でそんな事をされたら、呆気なく嘘が露見してしまうのは火を見るよりも明らかだ。
それ以前に、僕が難色を示そうとした時点で蟻塚にはこちらの思惑が読まれてしまったらしく、彼女が口角を僅かに吊り上げる。
「やっぱり嘘なんですね? 可愛い後輩の私に嘘をつくだなんて、先輩はいつからそんな外道になったんです?」
「僕は別に外道でも何でもない。そういうのはもう止めてくれないか?」
「私も、止めなくてはと思ってはいるんですよ? でも、先輩が困っている姿って、結構可愛い感じがして、ゾクゾクしてくるんです……!」
両手を頬に添えて、うっとりした表情を浮かべる蟻塚。
顔は笑っているのに、その瞳には虚ろな光が灯っており、危うい雰囲気を醸し出している。
――この女、本気でヤバいぞ。
生存本能が、全力でここから逃げるべきだと僕の耳元で囁いているような錯覚に囚われる。
それ程の凄絶な威圧感が、今の蟻塚には確かにあった。
これ以上エスカレートする前に、何としても歯止めを掛けなければ。
額からダラダラと流れる汗を手の甲で拭い、僕は言葉を選びながら蟻塚の説得を試みる。
「蟻塚さん。君は、結局僕をどうしたいんだ? 毒舌を吐かれた側の人間が、嫌な気持ちになるって事くらい君なら分かるだろ?」
「もちろん、そのくらい理解しています。でも、私はやっぱり――あ、そうだ、先輩。今度、私の手料理を食べに来ませんか?」
「随分と唐突に話が変わったな……。」
あまりに急展開過ぎて、目が点になったぞ。
大体、さっきの物騒な雰囲気からの流れで誘われて、僕が素直に応じるとでも思っているのか?
「蟻塚さんの家には行かないからな。」
「そう答えるだろうと予想はしていましたけど、やっぱり残念です。でも、私が料理の練習をしているのは本当ですよ? 先輩に、料理の1つや2つは作れる方が良い、って以前言われましたから。」
え、そんな事、言ったっけ……。
全然覚えていないんだが、確かに言ったような気もする。
しかし、僕の言葉を真に受けて本当に料理の練習に励んでいたというのなら、蟻塚をここで邪険にするのは可哀想か。
でも、情に流されると碌な事にならないと、僕も最近学習してきたところだからなぁ。
うん、やっぱり駄目だ。
「悪いとは思うけど、やっぱり家に行くのは無しだな。」
「では、これから毎日私が先輩の分のお弁当を作ってくる、というのは如何です? これなら、先輩がわざわざ私の家を訪ねなくても、私の手料理を味わえますよね。」
「えーと、料理の練習を始めたのって、最近なんだよな?」
簡単な料理ならまだしも、毎日弁当を作ってくるとなると、相応のバリエーションが求められるのは必然だ。
短期間の練習であれこれ作れるくらいに料理が上達するのなら、世の中の主婦や料理人達は苦労しないだろう。
そんな疑念を込めた僕の質問の意図に、さすがと言うべきか、蟻塚は目敏く気付いたようだ。
「もしや、私の手料理がまだ人に出せる段階に達していない、とでも言いたいんですか?」
「そこまで言うつもりはない。ただ、誰かに食べてもらって味の感想を聞いた事はあるか?」
「ある訳ないじゃないですか。私に友人はいませんし、両親も私の成長には無関心ですし。」
「だよな……。」
蟻塚が置かれている環境が決して恵まれたものでない事を、僕は既に知っている。
彼女の歪みの全ては、その環境に端を発しているのは間違いない。
なら――。
――その歪みの根本を少しでも緩和してやる事こそが、蟻塚の性格や言動を矯正するための第一歩に繋がるのではなかろうか。
このまま蟻塚を放置していれば、エスカレートして取り返しのつかない事態になるかもしれない。
そうなる前に、蟻塚の抱えている寂しさや不満を可能な範囲で受け止め、消化を促す。
ある程度の段階まで消化が進めば、蟻塚の歪みを改善できる可能性も出てくるはずだ。
もちろん、事なかれ主義の僕としては、こんな面倒な事をせずに済ませたいというのが本音ではある。
だが、ここで蟻塚を放置する事は、僕の身に危険が迫る事と同義だ。
蜂須に頼れない今、僕にとって唯一の光明となり得る道は、恐らくこれだけだろう。
やりたくなくても、やるしかない。
蝶野会長の会話の練習に付き合うというミッションもあるので、同時に並行して進行させる事になってしまうのが大変だけどな。
「分かった。じゃあ、明日の弁当を作ってきてもらってもいいか? 明後日以降は、明日の弁当の出来次第で検討するって事でどうだ?」
「ええ、それで構いません。先輩の胃袋を必ず掴んであげますから、楽しみにしていてください。」
明日からは、一段とまた忙しくなりそうだ。
蜂須の件も気にかかるが、今は彼女抜きでも何とか踏ん張れるよう、こちらも手を尽くすとしよう。
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