第69話 蠱惑のチャットルーム

 バスが僕の自宅近くのバス停に到着しても、雨脚は弱まるどころかむしろ強くなっていた。

 雷も相変わらず断続的に鳴り響いているので、バスで帰宅する選択肢で正解だったみたいだ。

 僕の隣の席にいる蟻塚も、現時点では特に不審な行動を見せる気配はなく、今のところは大人しく座っている。

 もっと何か仕掛けてくるかもしれないと感じたが、それは杞憂だったのだろうか。

 僅かな不安を覚えながらも、僕は席から立ち上がった。


「じゃあ、僕はここで降りるから。またな。」

「はい、先輩。また明日。」


 蟻塚と挨拶を交わしてからバス停から降りた僕は、ふと後ろを振り返る。

 当然ながら蟻塚はついて来る事はなく、バスの窓からこちらに向かって手を振っているだけだ。

 今のこいつなら尾行すらしかねないと思っていたが、さすがにそれは杞憂だったか。

 いや、さすがに蟻塚もそこまで常識のない事はしない……しないと思いたいけどなぁ。


「ただいま。」


 バス停から暫く歩き、自宅に帰り着いた僕は、雨で濡れた制服を洗濯機に放り込みつつ私服に着替える。

 そして自分の部屋で適当に寛ろぎ始めてから、1時間以上が経過した頃だっただろうか。

 勉強机の上に放置していたスマホが、ブルブルと震え始めた。

 誰だろうと思い電話に出てみると、落ち着いた声が僕の耳にスッと入ってくる。


「蜜井くん、急にすまないな。其方と情報を共有しておきたい事があるので、暫く話をさせてもらっても構わないか?」

「蝶野会長? どうしたんですか?」

「蜂須さんの話と、他にも報告する事があってな。ついでに、会話の練習にも付き合ってもらいたい。」

「はぁ。それは構いませんが。」

「そうか。では、ビデオ通話に切り替えてもらえるか?」

「へ、ビデオ通話ですか?」


 今までにも蝶野会長と電話で話した事は何度もあるが、ビデオ通話を要求されたのはこれが初めてだ。

 急に何故、と言い掛けて、僕はすぐにその答えに思い当たる。


 会長が電話を掛けてきた目的の1つは、コミュニケーション能力を高めるための会話の練習も含んでいると、さっき彼女自身が言っていた。

 単に会話を楽しむだけならともかく、コミュニケーション能力の向上を図りたいのであれば、カメラ越しであっても相手の顔が見える形で行うのが望ましいはずだ。

 ビデオ通話を行うのであれば、通信を自宅のインターネット回線に切り替えてからにすべきだろう。

 そうしないと、データの通信料が馬鹿にならないからな。

 あと、必然的に部屋の内装もビデオに映るハメになるため、部屋を片付けて変な物が映らないようにしておきたいところだ。


「5分ほど待ってもらえますか? こちらも準備したいので。」

「もちろんだとも。私もスマホからノートパソコンに切り替えて通話したいと思っていたからな。」

「会長、パソコンを持っていたんですか?」

「ああ。引っ越しの際に、自分の貯金で購入したのだよ。」


 スマホで事足りるのでは、という気がしなくもないが、蝶野会長みたいなアニメオタクにとってはパソコンがあった方が何かと都合が良いのだろう。

 僕の偏見かもしれないけどな。

 ただ、会長って親からの仕送りは最低限の金額しか貰ってないはずなのに、パソコンを買う余裕はあるのか?

 足りないお金を補うため、早急にアルバイトを始める必要があると思うのだが。


「会長、そういえばアルバイトは決まったんですか? 幾つか面接受けたけど落ちたって言っていましたよね?」


 コミュニケーション能力が壊滅的な蝶野会長に、接客業は務まらない。

 その点が響き、彼女はアルバイトの面接に尽く落ちていて、金策に困っていると最近相談を受けていた。

 安物のパソコンを購入するにしても数万円は掛かるはずであり、高校生にとってこれは手痛い出費だろう。

 この人、意外と無計画なところがあるな……。


「アルバイトなら、先日決まったぞ。食品工場でのアルバイトだな。」

「工場ですか。人前に出る事なんてないでしょうし、それなら会長でも何とかなりそうですね。」

「詳しい話は後だ。まずは、さっきも言った通りビデオ通話に切り替えるための準備を進めてくれ。」

「分かりました。」


 一度通話を切り、僕は改めて部屋の片付けに取り掛かった。

 と言っても、普段から部屋を散らかすタイプじゃないので、片付ける物の量は知れている。

 余計な服や下着が映るのはよろしくないため、それらを片付けつつ、スマホをスタンドにセットして、角度を調整して……よし、こんなところか。


 それにしても、女の子とビデオ通話って、これ友達同士でやる事じゃない気がするな。

 完全に彼氏彼女の距離感っぽいんだけど、どうなんだろう。

 蜂須辺りに今度意見を聞いてみるか。


「すみません、準備終わりました。いつでも大丈夫ですよ。」

「そうか。なら、こちらもカメラをオンにさせてもらうとしよう。」


 メッセージのやり取りを交わし、互いの準備が出来たところでいよいよビデオ通話の開始だ。

 碌に友人のいなかった僕にとって初となるビデオ通話は、一体どんな展開に――は?

 いやいやいや、ちょっと待って!?

 あ、あああんた、一体何を考えてるんだよ!


「会長、幾ら何でもその恰好は駄目ですって!」

「む、そうか?」

「そうですよ! この前引っ越したばかりのお宅にお邪魔した時にも言いましたけど、何でそんなに無防備なんですか!?」


 スマホの画面に映るのは、先日僕が訪問した蝶野会長の部屋だ。

 そして、部屋の中央でパソコンを向き合う形で座っているであろう彼女は、黒いネグリジェを纏っていた。

 しかもこのネグリジェは生地が透けており、下に着けているブラジャーや、綺麗に括れたお腹周りが丸見えだ。

 幸い、カメラの角度の都合上パンツまでは見えないが、さすがに楽観視できる状態じゃない。


 以前、蜂須は「会長が僕に色仕掛けをしているのでは」と推論を述べていたが、いよいよそれが現実味を帯びてきたみたいだ。

 それにしても……やっぱり会長の身体つきは凄いな。

 下半身は画面から見えないとはいえ、既に充分な破壊力がある。

 特に、ネグリジェ越しに透けているブラジャーは、まるでメロンか何かと錯覚しそうになる程の重量感を備えた2つの膨らみを包み込んでいた。


「そ、そんなに変かな? 普通の部屋着だと思うんだけど。」


 ちょっ、こんな場面で中二病モードを解除しないでくれる!?

 蝶野会長って素の喋り方が結構可愛いから、蠱惑的な恰好と相俟って刺激が強烈になるんだよ。


 ただ、会話の練習の時にキャラを作った状態で臨まれると、練習にならないという問題がある。

 だから、会話の練習を兼ねている今、会長が素の状態に戻るのは至極当然の流れだ。

 少なくとも、その点について僕が彼女を責める事は出来ない。

 もちろん、他に言うべきところについては容赦なく突っ込ませてもらうが。


「恋人でも何でもない男の前で、そんな恰好をするのは駄目ですよ。」

「恋人、か。そういえば、蜂須さんと偽の恋人になったのは、蜜井くんの発案なのかな?」

「へ……?」


 唐突に放り込まれた爆弾に、僕は即座に反応する事が出来なかった。


 僕と蜂須がカップルになったという情報は、無暗に拡散されると問題が起きるため、現時点では蟻塚にしか伝えていない。

 更に言えば、僕と蜂須の関係が偽物だと理解しているのは、当の本人である僕達2人だけ。

 蝶野会長どころか、蟻塚にも未だ伝えていない真実なのだ。

 一体、何処から情報が漏れた!?


 衝撃の展開を前に混乱する僕を、会長は逃がしてくれなかった。

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