第68話 不穏の足跡

 放課後、蜂須は早速紛失物について蝶野会長に相談する事にしたらしく、足早に教室を出て行った。

 一方の僕は、今回の件に関与しない事になったため、そのまま真っ直ぐ帰宅しようと思っていたのだが……。


「凄い雨だな。全く、帰るのが億劫になりそうだ。」


 午前中は晴れていたのに、昼過ぎ頃から急激に雲行きが怪しくなり、今や雨どころか稲光が灰色の空を駆け巡っている有様だ。

 まあ、天気予報で「午後からは雷雨の可能性あり」と言っていたから、こうなるのは予想の範囲内ではあったが、ここまで土砂降りになるとは思っていなかった。

 どうせ大した雨じゃないだろうと自転車で登校してきたのは失敗だったな。

 この土砂降りの最中、傘を差した状態で自転車を漕ぐのはさすがに骨が折れそうだ。


 ただ、徒歩のみで自宅まで帰るとなると、1時間程度は要する事を覚悟せねばならない。

 さすがに雷雨の中を徒歩で1時間は精神的にも時間的にも辛いので、学校近くのバス停からバスを利用して帰るとしよう。

 こういう日の交通費は、後で申請すれば母が出してくれるからな。


「今日も、傘は盗られずに済んだか。」


 靴を履き替えてから傘立てを見やると、朝に登校してきた時のまま、僕の傘がそこにあった。

 傘の紛失は、1ヶ月くらい前のあの一度きりで、以降は特に盗難は発生していない。

 蝶野会長にも確認してみたが、僕以外の生徒が傘を紛失したという話も特になかったらしいし、これは結局どういう事なんだろうな。


 紛失と言えば、今日は蜂須が更衣室で私物を失くしたばかりだ。

 彼女の一件は、僕の傘の紛失と何か関係があるのか。

 今はとにかく分からない事だらけだな。

 そのうち手掛かりが得られるのを気長に待つ他なさそうだ。


 バス停までの道のりを歩きながら、僕は思考を巡らせる。

 その道中、人通りの少ない交差点の赤信号に引っ掛かった僕は、横断歩道の前で足を止めた。


 ――ピチャッ、ピチャッ。

 ――バシャッ!


「ん……?」


 僕の少し後ろの方から、水溜まりを踏む音が大きく響いた。

 そこでふと、僕はある事に気付く。


 ――学校を出た直後から、この足音、ずっと後ろをついてきていないか?


 いや、さすがにこれは言い掛かりに近いか。

 僕が今いるのは人通りの少ない交差点だが、高校の最寄りのバス停へ向かうルートとしてはこれが最短のはずだ。

 同じようにバスを利用して帰宅しようと考えた生徒が、たまたま僕の後ろをついてくる形になるのは決して不自然な話じゃない。


 ただ、基本的にバスを利用する生徒は少数派だ。

 学生にとって、バスの交通費は決して軽視できる出費じゃない。

 今のような梅雨の時期に、雨が降っているからといって毎日のようにバスを利用していれば、それなりに手痛い出費を負うのは火を見るよりも明らかだろう。


 そのため、僕も毎日バスを利用している訳ではないのだ。

 母に申請すれば交通費を出してもらえるとはいえ、毎日お金を申請するのはさすがに忍びない。

 今日は普段よりも雨風がひどく、雷も鳴っているからこそ、バスで帰宅する事にしただけだ。

 まあ、僕と同じような考えで今日たまたまバスに乗ろうとしている生徒が後ろにいるだけかもしれないが……え?


「嘘だろ……!?」


 何となく後ろが気になった僕は、信号機の近くに設置されているカーブミラーに何気なく視線を向けた。

 すると、僕から少し離れた位置に立っている、傘を差した生徒の姿が確認できる。

 傘で上半身は殆ど隠れてしまっており、その正体は判然としないものの、スカートを履いている事が分かるため、僕の背後にいるのが女子であるのは確実だろう。


 しかし、問題はそこではない。

 僕が驚いたのは、この女子生徒が差している傘のデザインだ。

 黒いストライプの入ったそのデザインは、僕が以前紛失した傘と酷似している。

 全く同じ物であるかどうかは近くで直接視認しない限り断言できないが、ほぼ間違いないと言って良いだろう。


 もちろん、これは単なる偶然かもしれない。

 だが、もしも、もしも――。


「っ……」


 ゴクリと生唾を呑み込み、暫し逡巡している間にも、目の前の交差点を行き交う車が徐々に動きを止めていく。

 車側の信号が点滅し、歩行者側の信号が青に変わろうとしているのだ。

 歩行者側の信号が青になる前であれば、立ち止まっている相手を至近距離で観察できる。

 信号が切り替わる前に、僕は決断しなければならない。


 後ろを振り返るべきか、無視するべきか。

 明滅する思考をフル回転させ、僕が導き出した結論。

 それは、一瞬だけ後ろを軽く振り返る事だった。


「……!」


 信号が青に切り替わる瞬間、僕は後ろを見る。

 僕の背後に立っていた女子生徒は、意外と背が高く、僕とあまり身長差はなさそうだ。

 こちらの視線に気付いたのか、その女子生徒は傘を僅かに上げ、傘に隠れていた顔が露に――って、え。


「誰かと思ったら、前を歩いていたのは先輩だったんですね。こんにちは。」

「あ、蟻塚さん?」


 ニッコリと微笑む蟻塚を前に、僕は思わずたじろぐ。

 こいつって、帰る方向はこっちだったっけ?

 そもそも、何故僕が失くした傘によく似たデザインの傘を差している?

 幾つもの疑問が頭の中で膨れ上がるが、それを口に出す前に、蟻塚が前方を指した。


「先輩、早く歩かないと、また信号が赤に変わってしまいますよ?」


 次にバスが来る時間を考えると、この交差点でまた赤信号に引っ掛かるのはなるべく避けたいところだ。

 ひとまず質問は後回しにして、僕は横断歩道を渡る。

 すると、蟻塚も僕の隣に並び、一緒に歩き始めた。


「蟻塚さん、どうしてここにいたんだ?」

「私バスで帰ろうと思いまして。この雨の中歩いて帰るのは厳しいですからね。」

「そうだな……ん?」


 僕、蟻塚さんに「バスで帰る」なんて一言も言ってないよな?

 いや、前回傘をこいつに借りた時に言ったんだっけ?

 それをたまたま蟻塚さんが覚えていたとするなら、然して不自然な会話でもないか。

 とりあえず、今はそんな事よりも先に尋ねなければならない話題がある。


「蟻塚さんが持っているその傘、僕が前に失くした傘にそっくりなんだ。もしかして、僕の傘じゃないよな?」


 回りくどい言い方は苦手なので、僕は直球で質問をぶつけた。

 すると蟻塚は薄い笑みを浮かべ、まるで子供の用に傘をクルリと回し、視線を明後日の方向に逸らす。

 彼女の視線の先には、僕達の目的地である屋根付きのバス停があった。

 幸いと言うべきか、バスはまだ来ていない様子だ。

 バス停の屋根の下に2人で並んで入ったところで、蟻塚は逸らしていた視線を再びこちらに向けた。


「この傘は、先輩の物じゃありませんよ。でも、先輩の傘と同じ物を、と思って真似たのは事実です。」

「真似た? そもそも、僕の傘のデザインを知っていたのか?」

「はい。先輩が傘を盗まれる以前に、傘を差して歩いているところを見掛けた事がありましたから。その日のうちにネットで検索して、すぐに購入しましたよ?」


 ええ……。

 それはそれでドン引きレベルの話なんだけど?

 最近の激しいアプローチには辟易していたが、改めて僕は蟻塚への認識を改めさせられた。


 僕の傘と同じ物を購入した、という話が嘘か本当かはさておき、少なくとも今の蟻塚は常軌を逸している。

 正直言って、かなり怖い。

 このまま彼女を放っておいたら、一体どうなるんだ?

 そんな不安が頭の中を過る。


「あ、先輩。バスが来ましたよ。」

「……そうみたいだな。じゃあ、乗るか。」


 大雨が降っているものの、まだ帰宅ラッシュの時間帯ではないため、バスには幾つもの空席がある。

 適当な席の窓際に腰を下ろすと、さも当然のように蟻塚も僕の隣に並んで座り、甲斐甲斐しく話し掛けてくる。


 どうやら、これ以上エスカレートする前に、蜂須からもう一度釘を刺してもらう以外ないらしいな。

 放置しておけば、取り返しのつかない事態に発展しかねない。

 隣で微笑む蟻塚を見て、僕は心の中でそう結論付けた。

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