第59話 魅惑の鱗粉

 蝶野会長の引っ越し荷物の手伝いを始めてから、早1時間。

 リビングに積まれていた段ボール箱の数は、当初の半分ほどにまで減少していた。

 2人で手分けして片付けているお陰か、予想以上のペースで作業は進んでいる。

 このペースなら、夕方になる前に何とか終わりそうだ。


 しかしながら、肝心の作業こそ順調であるものの、別のところで大きな問題が発生していた。

 例えば――。


「蜜井くん、其方の後ろに纏めてある小物類をこちらに寄越してくれないか?」

「あ、はい。ちょっと待ってくだ……っ!?」


 僕が蝶野会長に荷物を渡そうと振り返ると、彼女が四つん這いの体勢でこちらに手を伸ばしていた。

 その危うい体勢のせいで、白いタンクトップの胸元が無防備に覗いてしまっている。

 豊か過ぎる双丘が重力に引っ張られ僅かに揺れるその様は、目に毒としか言いようがない。

 しかも、ピンク色のブラジャーも思い切り見えてるし……っと、いかんいかん。

 これ以上凝視していたら、間違いなく理性が破壊されてしまう。


「ど、どうぞ! 早く受け取ってください!」

「ありがとう。」


 僕は咄嗟に視線を逸らし、荷物を蝶野会長に手渡した。

 掌が軽くなる感覚の後、溜息をついて作業を再開……って、だからあんた何で四つん這いのまま移動してるんだよ!?


 今の会長は僕にお尻を向けているので、先程のように胸の谷間が見えてしまう事はないが、その代わりに黒いショートパンツに包まれた大きなお尻が僕の目と鼻の先で蠱惑的に揺れている。

 彼女のお尻は、パンツの布地が今にも裂けそうなくらいむっちり膨らんでいて、腰や足の付け根の部分からは、ほんの少しだけお尻の肉がはみ出している。


 まず間違いなく僕の勘違いだろうとは思うけど、この人、もしかして僕を挑発していないか?

 これを無意識にやっているのだとしたら、早めに矯正しないと面倒な問題を起こしかねないぞ。


 しかしながら、今は荷解きの作業中だ。

 日が暮れる前に全て終わらせるには、余計な雑談で手を止めて作業を滞らせてしまうのはなるべく避けたいところだな。

 僕が知る限り、会長には僕以外に親しい男はいないはずなので、今すぐ会長の挑発的な動きについて注意をしなければ不味い、という事はないだろう。

 気持ちを切り替え、僕は改めて作業の続きに取り掛かる。


「蜜井くん、部屋の隅に積まれている段ボール箱の中身をこちらに寄越してくれないか?」

「分かりました。」


 蝶野会長は今、押し入れに自分の服などを詰め込んでいる。

 重い物は基本的に僕が片付けるのだが、さすがに女子の服に触れる訳にはいかないので、今は彼女1人に片付けを任せている状態だ。

 指示を受けた僕は会長から離れ、彼女が指定した段ボール箱を床に降ろす。

 箱の中身に何が入っているかは箱の外側に記載されているものの、会長から指示を受けた僕はそれをよく見ないままに箱を開封してしまったのだが、これが間違いだった。


「この箱の中身は……ええええっ!?」


 おいおい、ちょっと待て。

 さすがにこれは不味いだろ!?


 いや、今回に関しては、箱を開ける前に中身をよく確認しなかった僕が悪いのか?

 幾ら何でも、どの段ボール箱に何が入っているか蝶野会長が全て暗記しているはずもないだろうしな。


「急に声を上げて、どうしたのだ?」

「いや、どうしたも何も。えーと、これ、会長の下着ですよね……?」


 僕がうっかり開けてしまった段ボール箱の中には、色とりどりの下着が所狭しと詰め込まれていた。

 よりにもよって、女子の下着をこんな形で見る事になるとは思いもしなかったなぁ。

 事故に近いとはいえ、これは不味い展開じゃなかろうか。


「む、もしかして見てしまったか?」

「あー、少しだけ見てしまいました……。すみません。」


 すぐに目を逸らしたとはいえ、段ボール箱に詰まっていた大量の下着類は僕の網膜に鮮明に焼き付いてしまっている。

 中二病患者の蝶野会長だが、下着の趣味は意外にも普通であるらしく、さっき少しだけ見えた限りでは特に派手な意匠の物はなかった。

 とはいえ、女子が実際に使っている下着を間近で見せられた衝撃は、筆舌に尽くしがたいものがある。


「そうか、見てしまったか。」

「はい。あのー、怒らないんですか?」

「む? 何故私が怒ると思うのだ?」

「いや、こういう時って、普通は『勝手に見ないでよ!』って怒るものだというイメージがあったんで。」

「その段ボール箱を開けるように指示したのは紛れもない私なのだから、ここで其方を責めるのはお門違いというものだろう?」

「まあ、そうかもしれませんが……。」


 うーん、どうにも釈然としないな。

 蝶野会長が全く怒りを露にしない事もそうだが、それ以上に――彼女の態度に大して照れが見られないのは、あまりにも不自然ではなかろうか。

 ほんのりと頬を赤くしてはいるものの、会長の表情には然程動揺の色が出ておらず、言動も普段と然して変わらない。


 会長は中二病に罹患しているが故の尊大な言動が目立つ人物であるが、その一方で、内面は繊細で臆病な少女だ。

 弱点を突かれればあっという間に虚勢を崩してしまう程に、彼女は脆い。

 僕と会長の初対面のやり取りにおいても、彼女のこうした特性は如実に表れていた。


 だからこそ、今の会長の反応には明らかな違和感がある。

 いつもの会長ならば、顔を真っ赤にして慌てて下着を僕から奪い取り、「これ以上見ないでくれ」と言いそうなものだが……。

 彼女のやけに落ち着いた態度を見ていると、「もしやわざと下着の入っている段ボール箱を僕に開けさせたのでは」という荒唐無稽な妄想すら浮かんでくる。

 そんな事をして何の意味があるのかはさっぱりだけどな。


「ふぅ、終わりましたね。」

「うむ。本当に助かったぞ。感謝する。」


 僕がうっかり下着を見てしまうというアクシデントこそあったものの、その後はつつがなく作業は完了し、リビングに積まれていた段ボール箱の中身を全て片付ける事が出来た。

 作業が終わった時点で、窓の外に映る空は既に赤らんでいて、既に日が落ちようとしている事を知らせている。


「もうあまり長居する時間はなさそうですね……。」

「すまないな。私との会話に付き合ってくれとお願いしていたが、今からそれをやるのは難しいだろう。日を改めてお願いしても良いか?」

「いいですよ。その際にさっき相談した傘の件の進捗も聞かせてもらえますか?」

「もちろんだとも。日時は追って連絡するので、よろしく頼む。」

「ええ、分かりました。じゃあ、僕はこれで失礼します。」


 蝶野会長に別れを告げ、僕はそろそろお暇させてもらう事にした。

 3時間以上も荷物の片付けを手伝っていたせいか、全身の至るところに微弱な筋肉痛が出てきているしな。

 普段から体育系の部活動に取り組んでいる連中なら、この程度で音を上げる事はないんだろうが、帰宅部の僕にとっては充分に重労働と呼べるくらいには動き回ったつもりだ。

 家に帰ったら、ゆっくり休ませてもらうとしよう……。


 ……。


「ふぅっ。攻めたつもりだったけど、蜜井くん、思ったほど乗って来なかったなぁ。だったら今度は――」

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