第57話 ある少女の現実

 あたしが通っている高校から程なく離れた場所に建っている、大型のショッピングモール。

 様々な専門店や飲食店が入っているこのモールは、平日の夕方や休日に多くの人々で賑わう、市民の憩いの場だ。

 それらの飲食店の1つ、「ハニー・スイート」という名前のレストランで、学校帰りのあたしは今日もいつも通りアルバイトに勤しんでいた。


 あたしの家は母親と2人暮らしの母子家庭で、安アパートの1室を借りて住んでいるのよね。

 ただ、母があまり満足に働けるような状態ではないため、あたしはこうしてアルバイトで少しでもお金を稼ぎ、生活費の足しにしているのだ。

 あたしのギャル系ファッションは、一般的に評判が良いとは言い難いけれど、幸い、ここの店長さんはそんなあたしを快く雇ってくれた。

 だからあたしもその恩義に応えるため、一生懸命働いていて、その仕事ぶりを店長さんや他の従業員達からも評価してもらっている。


「蜂須さん、今日も宜しく頼むよ。」

「はい。こちらこそ、宜しくお願いします。」


 ウェイトレスの制服に着替えたあたしは、店長に挨拶した後、早速接客のためホールに出た。

 そうしてあたしが今日最初に出迎えた客は――


「いらっしゃま……って、あ、あんた達、何でここに!?」


 単なる偶然だとは思うけど、蜜井と蟻塚さんが、よりにもよってあたしのバイト先に来るなんて。

 ううん、今までにも店に同じ学校の奴が来た事は何度もあったし、今更だわ。

 それに、こいつらは今のあたしにとって数少ない友人と呼べる人達だから、偶然ここで鉢合わせたからって悪い事が起きたりはしない。

 過去の悪夢を恐れる必要はないのよ。

 落ち着け、あたし。


 軽く深呼吸して、あたしは注文を受けた飲み物をグラスに注ぐと、それを蜜井達のいるテーブルに持って行こうとした。

 あいつらがいるテーブルに近付くと、2人が喋っている会話の内容が嫌でもあたしの耳に入ってくる。


「先輩って、やっぱり蜂須先輩みたいな方が好みなんですか?」


 は!?

 ちょっ、あいつら、人のバイト先に押し掛けてきて、いきなり何言ってるのよ!?


「な、なんだよ急に。どうしてそう思うんだ?」

「ついさっき、ウェイトレス姿の蜂須先輩に見惚れていましたよね?」

「いや、別にそんな事は……」

「満更でもない、って顔ですね?」


 今のあたしから見て、蜜井はこちらに背中を向けて座っているため、表情を窺い知る事は出来ない。

 だけど、それが余計に想像力を掻き立てて、トレイを持つ両手がカタカタと震える。


「ば、バカ……!」


 鏡を見なくても分かる、あたしの顔、今絶対熱くなってる。

 蜜井が、あ、あたしの事、気になってるかもしれないって……?

 どどど、どういう事なのよ!?


 確かに、最近あいつには何かと助けてもらう事が多かったし、意外と便りになる奴なのかも、とは思っている。

 球技大会の時にあたしの怪我の手当を手伝ってくれたり、必死に自転車を漕いで汗だくになりながらあたしのパスケースを届けてくれたり。

 あたしの元友人達のギャル仲間が教室で騒いだ時も、あいつは普段大人しい癖に正面から立ち向かっていた。

 不覚にも、あの時のあいつは、ちょっとカッコ良かったかもと思うし……。


 だけど、あたしと蜜井が付き合う事は、多分ないでしょうね。

 あたしとこれ以上深く関われば、あいつもあたしと同じ不幸の道を歩む事になると、分かり切っている。

 良い奴だと思っているからこそ、猶更、あいつを道連れにしたくはない。

 もし、あたしの中に少しでも蜜井への気持ちがあるのならそれに蓋をすべきだと、あたしは早々に結論付け、腑抜けた思考を追い出して業務に戻った。


「お疲れ様でした。」

「ああ、お疲れ様。明日も頼むよ。」

「はい。」


 蜜井達が帰った後も、あたしのアルバイトは終わらない。

 客がある程度掃けてからも、あたしには掃除や皿洗いの手伝いといった仕事が残っている。

 それらの仕事が粗方終わったのは、いつも通り、21時を僅かに過ぎた頃だったわね。

 服を着替えてタイムカードを切ったあたしは、店長さんや他の従業員達に挨拶をして、バイト先のレストランを後にした。


 それから駅まで徒歩で向かって電車に乗り、空いている車内の適当な席にあたしは腰を下ろす。

 この時間は帰宅ラッシュを過ぎているので、車内には殆ど人がおらず、いつも座って帰れるので楽だ。

 電車を降りたら、また徒歩で移動する事になるけどね。


「はぁっ……。」


 疲れが溜まっているせいかスマホを触る気にもなれず、ぼんやりと正面を眺めていると、向かい側の車窓にあたしの冴えない顔が反射しているのが見える。

 程なくしてその顔に影が差したかと思うと、丁度乗車してきた制服姿の女の子があたしの真向かいの席に座り、参考書を広げた。

 女の子は、今のあたしと違って制服をきっちり着て、眼鏡を掛けた、如何にもな優等生の恰好をしている。

 彼女の姿を眺めていると、あたしの脳裏に刻まれた数年前の記憶がぼんやりと漏れ出してきた。


 今のあたししか知らない奴は想像もつかないでしょうけど、昔のあたしも、ああいう優等生っぽい恰好を当たり前のようにしていたのよね。

 でも、ある時を境に、あたしはそれを止めた。


「今日は、本当に疲れたわね……。」


 電車を降りたあたしは、夜風に吹かれながら自宅までの道を歩き始めた。

 駅から少し離れると、すぐに静寂が周囲を包み込み、コンクリートで舗装された道を歩くあたしの足音だけが寂しくカツンコツンと響き渡る。

 この静けさと月明かりが、あたしのささくれ立った心を優しく包み込んでくれる気がするから、1人で静かな夜道を歩くのは意外と好きだ。

 もっとも、雨の日は大変だったりするけどね。


「ただいま。」


 立ちっ放しの仕事で疲れた体に鞭打って、何とか自宅に帰り着いたのは、時刻が22時を少し回った頃だ。

 入居者の少ない寂れた安アパートの一室の扉を開けると、今日もまた、直視したくない現実があたしを出迎える。


「お母さん……は、もう寝てるのね。」


 あたし達が住んでいる部屋は非常に狭く、玄関の扉を開けると、約2メートル先のリビングの様子が丸見えの状態になる。

 築40年くらいの安アパートなだけあって、部屋の内装はあまり綺麗とは言えないが、この部屋の空気が淀んでいる原因はそれだけではない。


 季節が初夏に差し掛かっているにも拘わらず、四畳半の狭い部屋の中央に大きく陣取っている、年季の入った古いコタツ。

 あたしの母は、そのコタツに入り、上半身を天板にうつ伏せにした状態で動かなくなっていた。

 母がもたれかかっている天板には、かかりつけの精神科から貰ってきた物と思しき薬の袋が幾つも散乱している。

 あたしはその光景をこれ以上直視していられず、母の背後をこっそりと通り抜け、部屋の隅に置かれた仏壇の前に正座した。


「お父さん、功太こうた、ただいま。」


 仏壇には、2つのフォトフレームが飾られている。

 警官の制服に身を包み、眼鏡を掛けて温和な笑顔を浮かべている、あたしのお父さん。

 そして、小学校に入学し立ての頃、黒いランドセルを担いではしゃいでいた頃の弟。

 在りし日の2人の写真が入ったフォトフレームに向かって、あたしは両手を合わせた。


 いつ帰ってきても、2人は必ず笑顔であたしを出迎えてくれる。

 だけど、こんな現実は、あたしが望んだモノじゃない。


「どうして、こうなっちゃったんだろうな……。」


 あたしが疑問を声に出しても、静寂以外の答えが返ってくる事はない。

 だけど、もし母がここにいたら、きっとこう言うんだろう。


 ――真面目に生きていれば、必ず最後には報われる。

 ――お父さんだって、いつもそう言っていたでしょう?


 ってね。


「馬鹿馬鹿しい。『真面目』なんて言葉、大っ嫌い……!」


 その忌々しい単語が耳に入るだけで、思わず反吐が出る。

 激しい動悸と吐き気に見舞われて、苛々が抑え切れなくなって、過去の出来事が無理やりに穿り返されて、冷静でいられなくなるのだ。

 今の「あたし」には、その症状を堪える事なんて出来やしない。


 だから、かつては自他共に認める優等生だった「わたし」は真面目に生きる事を止め、不良系ギャルの不真面目な「あたし」になった。

 自由気ままに生きる事が唯一の幸せだと、それまでの考えを改めた。


 しかし――ううん、今更過去を振り返ったところで、何も変わらない。

 結局、あたしはこの陰鬱で残酷な現実をこれからも生きていかねばならないのだと、改めて心に深く刻み込んだ。

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