第6章 病める少女
第55話 搦め捕られた獲物
金曜日になるとテンションが何となく昂る感覚を、皆は経験した事がないだろうか。
これは学生に限った話じゃないと思うが、明日から土日の休みだと想像するだけで、必然的に放課後を迎えるのが楽しみになる。
友達が多い奴はもちろん、僕のような友達が少ない人間にとっても、週末の休みは待ち遠しいものだ。
無論、僕もその例に漏れず、6時限目の授業中の今、ぼんやりとこの後の予定について思いを馳せていた。
昨日、蝶野会長から返してもらった漫画を読むのは確定として、あとは何をしようか。
昨日と違って今日の空は晴れ渡っているが、小遣いはあまりないので、買い物には行けそうにないしなぁ。
おっと、そうだ。
帰る前に、昨日蟻塚に借りた折り畳み傘を返さないとな。
本当は休み時間に返しに行こうと思っていたんだが、蟻塚から「放課後に返して欲しい」とメッセージが飛んで来たので、止む無しだ。
しかし、ここのところ毎日のように蟻塚と顔を合わせている気がするな。
昨日も、帰り際に蟻塚と出くわしたし……そういえば、結局あいつが昨日残っていた理由は今も分からないままだ。
僕が知る限り、放課後に学校に居残るような用事は、あいつにはなかったはずなんだがな。
「ちょっと、蜜井。あんた、当てられてるわよ。」
「えっ?」
隣の席の蜂須に言われて、僕は慌てて前方へ振り返る。
声を潜めて耳元で囁かれたから少し耳がこそばゆい感触があるが、今はそれどころじゃない。
教壇に立つ先生が、眉間に皺を寄せた険しい顔でこちらを眺めているからだ。
「余所見をしているとは、随分余裕があるようだな、蜜井。」
「す、すみません……。」
ああ、やってしまった。
事なかれ主義の陰キャな僕にとって、このような晒上げは何としても避けなければならないのに。
僕とした事が、最近は色々な出来事が立て続けにあったから、注意が疎かになる程に疲れが溜まっていたのかもな。
「今回はもういい。次からは気を付けろ。蜂須、代わりに答えてくれ。」
「はい。」
蜂須は呆れたように嘆息し、僕の代わりに椅子から立ち上がって先生の質問に答える。
その横で、僕は小さく手を合わせて「すまん」と蜂須に詫びる事しか出来なかった。
不甲斐ない醜態を晒したのも束の間、程なくして授業は終わり、待ち望んでいた放課後がやって来る。
終業のホームルームが終わるや否や、僕は鞄を掴み、目も暮れずに教室を出る。
その瞬間、廊下に佇んでいたらしい黒髪の少女が僕の前に現れた。
「先輩。お迎えに来ましたよ。」
「お、おう……。」
蟻塚の奴、まさか教室の前で待ち伏せしていたとは。
放課後に会う約束をしていたから、別に構わないと言えば構わないのだが、何か怖い。
「押し掛けてくるつもりなら事前に連絡しておいてくれないか。びっくりしただろ。」
「ふふっ。先輩の驚く顔が見たかったんですよ。」
微笑みながら、蟻塚は指で僕の頬をツンツンと突いてくる。
仄かに上気したその顔は、思わずドキッとさせられる程に可愛らしく、僕は気まずくて目を逸らしてしまった。
「先輩、もしかして照れているんですか?」
「照れてる訳ないだろ。それよりも――」
「あんた達、そこでイチャイチャされてたら邪魔なんだけど?」
教室から出てきた蜂須が、出入り口付近に陣取っている僕達を一睨みしてくる。
最近は慣れてきたとはいえ、金髪で目つきの悪いギャルの彼女に睨まれると、やっぱり背筋が冷たくなってくるな。
というか、蜂須以外の生徒からもチラホラと注目されているし、いつまでもここに居座っている訳にはいかない。
「ごめん。」
僕がスッと後ろに退いて道を開けると、蜂須はそのまま何も言わずに帰っていった。
さて、この流れに乗って僕も……と思ったが、蟻塚がそれを許してくれるはずもない。
「他の人の邪魔になりますし、帰りながら話をしましょうか。さあ、行きましょう。」
「え? 傘を返すだけなんだし、そんなに長話をする事もないだろ?」
「何を言っているんですか? 全く、これだから先輩は……いえ、いいです。とにかく、今は早く行きましょう。」
「あ、ああ。」
蟻塚に促されるまま、僕は彼女と廊下を歩き、下駄箱で靴を履き替えて、校舎の外に出る。
それから僕が駐輪場へ向かうと、蟻塚は無言のままぴったり隣について来た。
こいつ、一体何処までついて来るつもりなんだろうか。
さっきから急に無言になったのも、やけに違和感がある。
表情はずっとニコニコしているし、目的も読めないから、妙な怖さを感じるな……。
「これ、返すよ。ありがとう。」
少しサビが目立つ、シルバーの自転車の前カゴに鞄を置くと、僕は鞄を開け、中から折り畳み傘を取り出して蟻塚に手渡す。
蟻塚はすんなりと僕から傘を受け取ったが、一向に立ち去る気配を見せない。
「あのー、蟻塚さん?」
「先輩、この後時間空いていますよね?」
「えーと……いや、予定があるぞ。」
嫌な予感がして、僕は咄嗟に嘘をついた。
一応、家で漫画を読むのも立派な予定と言えなくもない、よな?
そう思ったが、蟻塚は稚拙な手が通用する程甘い相手ではなかった。
「どうせ、家で漫画でも読むとか、そういうくだらない理由ですよね? なら、予定はないも同然です。」
「何で分かるんだよ……。」
「私の先輩の事ですから。私、先輩をちゃんと見ていますからね。」
外見の可愛い後輩に笑顔でそんな事を言われているのに、ドキドキするどころか、背筋が薄っすらと寒くなってくるのはどうしてだろうな。
戸惑う僕に、蟻塚は一歩近付き、僕の腕を両手で掴んだ。
一体何を、と僕が思うや否や、彼女はそのまま僕の腕を引き、自分の胸の方へ――って、はぁっっ!?
「どうですか? 自分で言うのも何ですが、私、そこそこある方なんですよ。」
いやいやいや!
蟻塚の胸は確かに柔らかいし、思いの外ボリュームがあって、鷲掴みしている掌に確かな感触が伝わってくる。
もっとも、蟻塚は背が高いから、カップ数はそこまで大きくはないかも……って、だから僕は何を考えているんだ!?
「ねぇ、先輩。私と一緒に、遊びに行ってくれますよね?」
「で、でもな……。」
蟻塚の甘い囁きと、掌に伝わる柔らかな感触は、僕の脳髄を痺れさせて正常な判断力を奪おうとしてくる。
このまま男子高校生らしい欲望に身を任せてしまいたくなる衝動が着実に勢いを増していると、自分でもはっきりと分かった。
もう好きにすれば良いんじゃないか、と半ば諦めかけた矢先、蟻塚の一声が僕の意識を現実に呼び戻す。
「もし首を縦に振らないなら、ここで叫び声を上げましょうか?」
「なっ……! ちょっと待ってくれ! その脅しは反則だろ!?」
こんなところで叫び声を上げられようものなら、僕は一瞬にして性犯罪者に堕ちる事になる。
蟻塚がこれ程の脅しを掛けてくるとは、さすがに想定外だった。
これでは、逃げようにも逃げられない。
むしろ、逃げれば状況は余計に悪化してしまうだろう。
「お前、一体何のつもりなんだ?」
皮肉にも、脅しを掛けられたお陰で正気に戻れた僕は、怒りを抑え切れずに厳しい口調で蟻塚を問い詰める。
しかし、蟻塚は笑みを崩さない。
「私はただ、先輩と一緒にお出掛けしたいだけです。安心してください。先輩が逃げようとしないなら、先輩を貶めるような事は一切しないと約束しますよ。」
「そんな無理やりに連れ出されても、全然嬉しくないんだが。」
「私がせっかくこうして胸を触らせてあげているのに、ですか? やっぱり会長くらい大きくないと、先輩は満足できないんでしょうか?」
「何でここで会長を引き合いに出すんだよ……。」
蝶野会長にやたらと対抗心を燃やしているみたいだが、僕と会長は決して変な関係じゃない。
そんな事は、こいつも分かっているはずだ。
だが、それでも会長を引き合いに出したのは、恐らく――いや、これ以上考えるのは止めておこう。
蟻塚の真意がどうであれ、この場で僕が採れる選択肢は1つしかない。
「分かった。但し、条件がある。今後、こういう脅しは止めてくれ。もし約束を破った場合は、君とは一切の関わりを絶たせてもらう。」
「先輩にしては、随分と大きく出ましたね。ですが、良いでしょう。その条件、呑みますよ。」
やけにあっさりと、蟻塚は僕の提案を受け入れる姿勢を見せる。
この期に及んでも彼女が微笑みを絶やさない点は多少引っ掛かったが、嫌な予感がしたためそこには突っ込まず、僕は自転車を押して歩き始めた。
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