第54話 宣戦布告

 ――今日の私は、何か変だ。


 それを自覚したのは、今日、蜜井くんと顔を合わせた直後だったかな。

 生徒会室から蜜井くんが出て行った後、私は「ふぅ」とため息をついた。

 蜜井くんと顔を合わせている間、心臓がずっとドクンドクンとやけに激しく脈打っていて、顔が熱かったの。

 だから、彼と会話している時も、キャラを作って平静を装っているのがやっとの状態だったんだよね。


「んっ……! も、もしかして、私漏らしちゃった? もう高校3年生なのに、恥ずかしい……。」


 私が軽く身じろぎした拍子に、股間に冷たい感触が走った。

 どうやら、下着がいつの間にか濡れてしまっていたらしい。

 それに気付いた瞬間に、お腹の奥で何かがキュンと疼き、体の芯から熱が全身に広がっていく感覚を覚える。


「はあ、はぁっ、はぁ……! わ、私、どうしちゃったんだろ?」


 こんな感覚を覚えたのは、生まれて初めてだ。

 だけど、何故か不快な感じがしない。

 決して体調が悪い訳ではなさそうだ。


 なら、私も速やかに帰り支度を済ませてしまおう。

 今日は特に生徒会の仕事もないし、雨風が激しいので、早めに帰らないと大変だからね。

 帰ってからやらなければならない事も色々とあるし。


 でも、帰る前にまずは室内の確認をしようか。

 私がふと顔を上げると、ついさっきまで蜜井くんが座っていた椅子が私の視界に入った。


「蜜井くん……っ!」


 ついさっきまでここに座っていた、真剣な表情の彼を思い出すだけで、お腹の奥で疼いていた熱が一際温度を上げたような感覚が走った。

 その熱のせいなのか、濡れた下着が一層冷たく股間を擦り、私は思わず「ひっ!」と声を漏らしてしまう。


 うん、これ、どう考えてもアレだよね。

 実のところ、既に察しはついていたんだけど、まさか私がこうなっちゃうなんてなぁ。

 もしかして、私ってが人より強いのかな?

 って、そんな分析をしている場合じゃないよね。

 早く部屋の戸締りを済ませて、帰宅しなきゃ。


 と言っても、今日は蜜井くんとの会話のためにこの部屋を借りただけで、大した事は何もしていない。

 窓はちゃんと閉まっているし、忘れ物も見当たらないから、大丈夫そうかな。

 じゃあ、そろそろ――。


 ――コン、コン。


 私が鞄を肩に引っ掛けたその時。

 雨風が窓ガラスを叩く音とは明らかに違う、リズム感のあるノックの音が私の鼓膜を震わせた。

 ノック音の発生源は、生徒会室の出入り口の扉の方からかな?


 もしかして、蜜井くんが戻ってきた?

 それとも、他の誰かが用事で生徒会室を訪ねてきたのか。

 いずれにせよ、生徒会長として来訪者を無視する訳にはいかない。


「どうぞ。」

「失礼します。」


 透き通るような綺麗な声の応答と共に、生徒会室の扉を開けて入ってきたのは、長い黒髪の女子生徒。

 蜜井くんと同じく図書委員会に所属している、蟻塚美波さんだった。


 今まで、蟻塚さんが1人で私の元を訪ねてきた事はない。

 意外な人物の登場に私が驚きを隠せないでいると、彼女は礼儀正しく頭を軽く下げた。


「突然すみません。会長に、どうしてもお話しておきたい事があったものですから。」

「ほう? 私に一体何の用かな?」


 いつものキャラを咄嗟に作って、私が蟻塚さんに用件を問うと、彼女はスッと頭を上げた。

 蟻塚さんは私よりも頭半分ほど背が高いため、彼女が背筋を伸ばすと、上級生である私の方が彼女を見上げる構図になってしまう。

 私を見下ろす蟻塚さんの目は、心なしかいつもよりも鋭く細められていて、表情も固い。


 えっと……私、何か怒らせるような事をしたかな?

 相手が女子であるとはいえ、彼女は自分よりも大柄なので、そんな相手に凄まれるとちょっと怖いよ……。


 でも、さすがに昨日対峙したお母さん達に比べれば、そこまで威圧感が強い訳じゃない。

 あのプレッシャーを乗り越えた今の私なら、剣呑な空気を纏う蟻塚さんにも怯まず立ち向かえるはず。

 頑張れ、私!


「会長に、1つ確認させてもらいたい事があるんです。」

「私に答えられる事なら、答えさせてもらおう。何が聞きたいのだ?」

「会長は、蜜井先輩の事、どう思っていますか?」

「え……?」


 全く予想だにしていなかった、あまりにも唐突な質問。

 その質問が耳に入った瞬間、私の心臓は再びドクンドクンと早鐘を打ち始め、背中を汗が伝う感触が走った。


「み、蜜井くんは、だな……」


 蜜井義弘くんは、私の1つ年下の後輩で、2年C組に所属している男子生徒。

 部活動には入っていないが、図書委員会に入っていて、図書委員の活動中に彼が私の元を訪ねてきた事が切っ掛けで、私と彼は知り合った。

 蜜井くんは、こんな私の事を面倒臭がりながらも、何だかんだで邪険にはせず、友人になってくれた人。

 いいや、それだけじゃない。


 家族に追い詰められ、自分の未来を諦めていた私に、蜜井くんは1冊の物語を渡してくれた。

 彼から託された物語は、一筋の光明となって私を導き、私の夢を阻んでいた壁を乗り越える原動力を生み出した。

 そのお陰で、前途多難ながらも夢を掴めるかもしれない道を、私は歩く事が出来るようになったのだ。


 これからも、私は彼と一緒にいたい。

 そして、叶うのなら――ハッ!?

 ちょ、ちょっと待って!?

 今、私は何を考えてたの!?


「どうしたんですか、会長。答えられませんか?」

「あ、あぅ……」


 自分でもはっきり分かるくらいに、顔が熱くて、胸のドキドキが止まらない。

 彼の顔が脳裏に浮かんで、今すぐに触れたくて、心臓の辺りがキュッと締め付けられるような切ない感覚が襲ってくる。

 これも今までに一度も感じた事のない感覚だが、この反応が何を意味しているのか、その答えが分からない程、私は鈍くはないつもりだ。


「そうですか。やはり、会長は私の敵のようですね?」

「て、敵? な、何を言っているんだ!?」


 窓の外でゴロゴロと鳴り響く雷光に、蟻塚さんの横顔が一瞬だけ照らされる。

 その顔つきは、穏やかで優し気な顔立ちの彼女に似つかわしくない、能面のような表情に変貌していた。


「いえ、何でもありません。こっちの話です。」

「そ、そうか……。」


 まさか、蟻塚さんも彼の事を?

 ここまでの流れや彼女の発言を繋ぎ合わせていくと、そうとしか考えられない。


 私は、ふと想像してみる。

 蟻塚さんと蜜井くんがになった未来を。

 彼らが仲睦まじく手を繋いで並び立つ様を、指を咥えて見ている事しか出来ない自分の惨めな姿を。


「――ッ!」


 いやだ。

 いやだ、いやだ、いやだ!

 いやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだ!


 せっかく、私は自分の夢を諦めない事の大切さを思い出せたのに。

 彼のお陰で、再び立ち上がれたのに。


 ――私はまた、心から手に入れたいモノを諦めなくてはいけないの?


 そんな物語の結末を、私は認めない。

 認める訳にはいかない。

 だって、私には彼しかいないから。

 私も、彼の事を――


 愛しているんだと、たった今気付いたから。


「蟻塚さんと私は、これからは敵同士、という訳だね……ふふふっ。」

「あら……? 意外ですね。会長は、てっきり怖気づいて自ら身を引いてくれるものだとばかり思っていたのですが。逆に焚き付けてしまう結果になってしまったのは誤算でした。」

「何もかもが、自分の思い通りに動くとは思わない方が良いんじゃないかな? 私だって、いつまでも昔の弱い自分のままでいるつもりはないからね。」


 おっと、いけない、いけない。

 私ったら、いつの間にか素の口調で喋ってしまっているなぁ。

 学校の皆の前ではこっちの私は殆ど見せないように隠していた、いや、見せるのが怖くて隠していたのに。

 だって、臆病で内気で弱い自分が、私は嫌いだったから。


 でも、ここで素の自分を晒す分には別に良いかな。

 彼女に対して今更自分を取り繕ったところで、大した意味はない。

 私がお姉ちゃんにやり込められている場面も一度見られているしね。

 それに、いつものようにキャラを作って宣戦布告するより、素のキャラで相対する方がより本気度合いが伝わるんじゃないかな。


「先輩に近付くな、と忠告するつもりだったんですが、今の会長にそれを言っても通用しなさそうですね。」

「それはこっちの台詞だよ。蟻塚さんみたいに口が悪い子は、彼にふさわしくないんじゃないかな?」

「会長こそ、結構な変人だと思いますけどね。」

「そうかもね。でも、私は私なりに、今までの自分を改めて成長していく覚悟がある。そして、必ず彼を振り向かせてみせるつもりだよ。蟻塚さんはどうかな?」

「私だって、簡単に負ける気はありませんよ。必ず勝つつもりでいかせてもらいます。例えどんな手を使う事になるとしても、ね。」


 人と目を合わせるのが苦手な私だけど、この時だけは、蟻塚さんの鋭い眼光を真っ直ぐに受け止めて睨み返した。


 言うなれば、これは戦争だ。

 お互いの全力を尽くして想いをぶつけ合い、生き残った者が勝つ。

 孤独な私達の、蟲毒な戦いが今、幕を開けようとしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る