第53話 消えた傘

 蝶野会長との話し合いを中断し、校舎の玄関まで来たはいいものの、傘立てに差していた僕の傘が何処にも見当たらない。

 今も玄関の外では強風が吹き荒れ、大粒の雨が地面を濡らし、激しい雷が絶え間なく閃光と轟音を轟かせている。

 この状況で、傘も無しに帰るのはさすがに無理だ。


「先生に借りるしかないか……。」


 もしくは、バス停まで誰かに傘に入れてもらうか。

 しかし、僕を傘に入れてくれるような奴なんて、殆ど心当たりがない。

 蝶野会長に頼んで学校近くのバス停まで同じ傘に入れてもらう手もあるが、バスを降りた後に自宅まで歩く事を考えると、やはり自分で傘を持っておく方が良いだろう。

 それに、会長に傘に入れてもらった状態で学校近くを歩けば、変な噂が立つ可能性も出てくるからな。


「先輩? どうしたんですか、一体。」


 再び上履きに履き替え、校舎に上がったところで、蟻塚に声を掛けられた。

 蟻塚、まだ校舎に残っていたのか。

 彼女は部活動には入っておらず、今日は図書委員の活動もないため、こんな時間まで残っているのは不自然だ。

 妙な違和感を覚えながらも、僕はとりあえず蟻塚の質問に答える事にした。


「いや、ちょっと僕の傘が見当たらなくてな。」

「傘ですか? わざわざ先輩の傘を盗んでいく人がいるなんて、蓼食う虫も好き好きとしか言いようがないですね。」

「いや、まだ盗まれたと決まった訳じゃないだろ。誰かが間違って持って行った可能性もある。」


 傘が無くなった原因について、可能性は幾つか考えられるが、現時点で結論を出せる程の証拠は見つかっていない。

 憶測で視野を狭めてしまう事だけは、何としても避けたいところだ。


「それで、先輩はどうするつもりなんです? 傘も無しに、この雨の中を帰る事は出来ないですよね?」

「職員室に行って、先生に借りようと思っていたんだ。」

「なるほど。もし良ければ、私が傘をお貸ししましょうか?」

「え? 僕が傘を借りたら、蟻塚さんが傘を使えなくなるだろ?」

「心配は無用です。私、普通の傘の他にも、いざという時のために鞄の中に常に携帯している折り畳み傘がありますので、平気ですよ。」

「傘を2つ持ってきている、って訳か。」


 折り畳み傘があるなら、普通の傘を持ってくる必要はなかったのでは?

 まあ、今日は大雨が降ると天気予報で言っていたから、大き目の傘を別に持ってくる方が良いと判断したのかもしれないが。

 折り畳み傘って小さいから、大雨が降っている時だと体や鞄が割と濡れてしまうしな。


 ともあれ、蟻塚が傘を2つ持っているのなら、話は早い。

 傘を借りる事さえ出来れば、相手が蟻塚でも先生でも問題はないからな。


「じゃあ、大人しく傘を借りるよ。」

「ええ。では、こちらの折り畳み傘を使ってください。」

「ありがとう。」


 蟻塚が鞄から取り出した紺色の折り畳み傘を受け取ると、僕はもう一度靴を履き替えて玄関の扉の内側まで移動した。

 しかし、蟻塚は下駄箱のところで立ち止まったまま、靴を履き替えようとする気配がない。

 鞄を持っているし、蟻塚はてっきり今から帰るものだと思っていたんだが。


「蟻塚さんは、まだ帰らないのか?」

「すみません。少し用事が残っていた事を思い出しまして。先輩は、先に帰っててもらえますか?」

「そうか。じゃあ、僕はこれで帰らせてもらうよ。傘、ありがとうな。」

「いえ、どういたしまして。」


 蟻塚から借りた折り畳み傘を開き、僕は校舎の外に出る。

 女子の傘、しかも折り畳み式の物であるため、大雨と強風が吹き荒れる中、やはり完全に自分の体を防御し切る事は出来ず、ズボンや鞄が次第に濡れていく。


「さすがにキツいな……。」


 先生から折り畳み式でない傘を借りるべきだったのでは、という後悔が徐々に押し寄せてくるが、今更もう遅い。

 嘆息しながらも、程なくしてバス停まで辿り着けた僕は、バス停の屋根の下でようやく一息つく事が出来た。


 とはいえ、屋根以外に雨や風を遮る物はなく、横殴りに降る雨から完全に逃れるのは無理だ。

 バスが来るまでの辛抱だと自分に言い聞かせ、先程の蟻塚とのやり取りを何となく思い返していた。


 蟻塚は、結局何のために学校に残っていたんだろうな。

 成績優秀な彼女が、教師に居残りを命じられたとは考え辛い。

 部活や委員会の活動で残っていた線も考えられないし、友人のいない彼女が誰かのために居残っていたとも思えないしな。

 考えれば考える程、不自然な点が噴出してくる。


 それに、僕が持ってきた傘は、一体何処へ行ったのか。

 手掛かりが一切ない以上、恐らくあの傘が僕の手元に戻ってくる事はないだろうが、傘の行方については考察しておくべきだ。

 もし、傘が無くなった原因が何者かの悪意によるものであるのなら、今後も同じような事が続く可能性が浮上してくる。


「お、やっとバスが来たか。」


 大雨のせいか、10分ほど遅れてバスが到着した。

 僕はバスに乗り込むと、適当な空いている座席を確保し、蝶野会長に傘の事を相談すべくスマホを取り出す。

 メッセージアプリを立ち上げてメッセージを飛ばすと、会長からすぐに返信が来た。


「相談か。今度の日曜日で良ければ空いているが、どうだ?」

「ありがたいですけど、引っ越しがあるんじゃなかったでしたっけ? そんな時間を取れるんですか?」

「心配はいらない。引っ越しは土曜日のうちに済ませる予定だからな。荷解きはさすがに終わっていないだろうが、少し話をする余裕くらいはあるつもりだ。それに、新たな我が居城を其方にも見てもらいたいからな。」

「分かりました。では、行かせてもらいますよ。」


 そう返信してから気付いたが、女子が1人暮らししている家に行くのは、あまり宜しくないんじゃなかろうか。

 もっとも、蟻塚の家に上がった事もあるから今更と言えば今更だが。


 あ、そうだ。

 傘が無くなった話を、念のため蜂須にも報告しておくか。

 以前揉めたギャル連中が僕の傘の外観を把握して盗んだ可能性は低いが、万が一奴らが関わっていた場合、彼女にも火の粉が降りかかる事は充分に考えられる。

 今後に備えて、大きな問題が起きる前にこちらからアクションを起こしていくとしよう。

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