第3話 頂の祈り

 遠く都市を離れて、一日一往復しか通わぬ廃線まぢかの一両電車で山の奥へ。たどり着いた駅は屋根もないコンクリートの足場が茂みに浮いているだけの有様。そこから少しは草がのぞかれた道とも呼べない切込みに分け入って、その先にぽつんと佇むのは物置を兼ねた四畳ほどの休憩小屋。聖地を拝むべくリュック一つで遠路やって来た男はその中で一晩をあかした。


 ブルーシートにくるまった男は寒さを感じることもなく睡眠は十分。明るくなってきたあたりで予定の方向へと藪漕ぎを開始した。


 固まった水の壁のように密度高く茂った草を越えるのは困難を極めた。ふちの鋭い葉は薄い紙のように服に切り付けている。遇に獣道のような通りに出れば、獣との遭遇が脳裏をよぎる。このような場所では、マダニやヒルも怖い。


 身に着けている眼鏡型デバイスは地図を表示しているが、平地とは比べ物にならないほどに現在地の移動はゆっくりとしたものになっている。日が昇り頂点に差し掛かるほどの時間をかけて、男は岐路へとたどり着く。


 首に巻いたタオルで顔を拭い、じっくりと地形を把握する。変わり映えのない草木に突如として現れたように、前方には直立する木々が鳥居のように並び立ち、緻密な葉群れがその奥を一層暗くしている。また、左の方向には濃い霧が立ち込めている。不可解なことに白い霧は巨大な布をかけたかのように、動きもなくある一方だけを覆っている。


 男は迷うことなく濃い霧の中へと突入した。


 男はすぐに背後も見えなくなった霧の中、足元の変化に気が付いた。それまで高く茂っていた草が完全に消失し、小石もまばらなむき出しで平坦な土肌を歩いている。それを気にも留めず歩く男は、霧に入って風が全く吹いていないことにも気が付いた。それらのことに気味の悪さを覚えながらも男の歩みは変わらない。電波の状態が悪いのか眼鏡型デバイスと外部の通信が途絶えているが、眼鏡の表面にうつる地図や位置情報を参考にひたすら直進する。


 歩き続けると、土だった足元が岩盤に変わって来た。男は転倒しないようさらに慎重に歩を進める。そんな歩みを数時間続けただろうか。あれだけ濃かった霧は何の前兆もなく終端を見せ、男は霧が晴れた景色を確認する。それは森林限界を越えた岩山の峰々のようで、雲海に浮かぶ島のようであった。男は急にきつくなった傾斜を上り、山の頂点のうちの一つから周りを見渡す。いくつも連なる岩山の他には、雲だか霧だか知れないモヤしか目に入らない。そんなことをしている男に、不意に届いた声があった。


「そこの新入り!待ちなさいストップだよ!ストップ!」


 幼げな声の方向を向くと、それは霧の中。しばらく待つと霧から人影が走り出てきた。年のころは十五ほどの子供である。薄黄色の着物をだらしなく乱し、しかしその下には黒いインナーの上下しか着ていないように見える。あまりに寒そうな服装に、いやあまりに常識はずれな服装に男もあれは化粧の類だろうと冷や汗をかく。男が霧の中に走って入り身を隠している時間的猶予などといったものは当然のようになく。子供は岩の斜面をものともせずに目を見張る速度で走り寄って、男のもとへとたどり着く。


「何者だ!名を名乗れ!ここを僕の収める地と知って立ち入ったのではないだろうな?」


「いやいや、まさかそんなこと……」


 男は子供と視線を合わせ、手を振って否定する。子供は男の顔をじっくり確認して何かに思い至たったのか、


「んん?ちょっと待ってよ……待ってよ……キミ、あれか!犬と草の!あー、そうか。なるほどなるほど。……よくもやってくれたよね」

などと言ってくる。しかし、当然男には何かを言われる心当たりはない。


「少し待ってください。何が何やら」


「犬は暴れまわって大変だし……草も暴れまわって大変だし……、キミをそのままにもしておけない。つまり今から一緒に行くから。よし行くぞ!」


 子供は男の声になど耳を傾けることなく、男の手をひっつかんで岩山を下り始める。その躊躇のない全力疾走に、男は転ばないようにするのが精いっぱいといった風でついて行く。


「いや待てよ……ここまで来たことは間違いないから、僕が勝手したら……もしかしてがもしかしなくても怒られる?……かも?」


 子供がよくわからない独り言を言いながら立ち止まる。全力疾走中に予期せぬタイミングでの急停止なんて器用なことができなかった男は、派手に転倒し強く膝を打ち付ける。膝を抱えて漏れ出そうな声を押し殺している男に、子供が頭上から声をかける。


「う~ん……ここで一人にするとまた会えるか不安なんだけど……キミはどう?一人でお留守番できるかな?……無理そう?」


 膝が痛む男は返答できない。子供は息を吐いて男から視線を外した。


「しゃーないね。一緒に行こっか」


 子供は再び走り出す。引きずられるように移動することになった結果、膝に激しい振動が伝わり男はうめき声を漏らした。


 男のかける言葉やあからさまな舌打ちに気が付いていない子供は、霧に突入しても全力疾走。斜面を駆け下って、そして岩の端すら飛び越えた。今まで霧ではなく雲の中に浮かぶ空の小島を進んでいたのだろうか。中空に躍り出た二人、支えるものは何もない。子供と男は自由落下を始める。落下するごとに速度が増す。地面に激しく激突した男の体は粉々に砕け散った。


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