第2話 花園

 遠く都市を離れて、一日一往復しか通わぬ廃線まぢかの一両電車で山の奥へ。たどり着いた駅は屋根もないコンクリートの足場が茂みに浮いているだけの有様。そこから少しは草がのぞかれた道とも呼べない切込みに分け入って、その先にぽつんと佇むのは倉庫を兼ねた四畳ほどの休憩小屋。聖地を拝むべくリュック一つで遠路やって来た男はその中で一晩をあかした。


 ブルーシートにくるまった男は寒さを感じることもなく睡眠は十分。明るくなってきたあたりで予定の方向へと藪漕ぎを開始した。


 固まった水の壁のように密度高く茂った草を越えるのは困難を極めた。ふちの鋭い葉は薄い紙のように服に切り付けている。遇に獣道のような通りに出れば、獣との遭遇が脳裏をよぎる。このような場所では、マダニやヒルも怖い。


 身に着けている眼鏡型端末は地図を表示しているが、平地とは比べ物にならないほどに現在地の移動はゆっくりとしたものになっている。日が昇り頂点に差し掛かるほどの時間をかけて、男は岐路へとたどり着く。


 首に巻いたタオルで顔を拭い、じっくりと地形を把握する。変わり映えのない草木に突如として現れたように、前方には直立する木々が鳥居のように並び立ち、緻密な葉群れがその奥を一層暗くしている。また、左の方向には局所的にか濃い霧が立ち込めている。不可解なことに白い霧は巨大な布をかけたかのように、動きもなくある一方だけを覆っている。


 男は前方の木々のトンネルへと進路を定めた。


 数十分歩き続けて、男はうんざりと来た道を振り返った。等間隔で木が立ち並ぶ先二十メートルほどで不自然に暗く闇が落ちて、その先はうかがえない。また進行方向に顔を向ければ、こちらは二十メートルほど先が不自然に明るく、その光の先も見ることはできない。男は、ため息をついて、荷物の中から取り出したペットボトルの水を口に含む。


 男はまた歩き出す。


 そろそろ日に陰りが出てもいいころ、男は周りの明るさが全く変わっていないことに違和感を持った。……それでも男は突き進むほかない。


 体感では数キロメートルは歩いてその果てに、男は開けた広場のような場所にたどり着いた。直径百メートルほどの芝生の広場が木々に囲まれている。木々は不自然に密集し幹枝が絡み合って、もはや分厚い壁のような威容。


 男は広場に足を踏み入れて、違和感に気が付いてしまう。先ほどまで吹いていた風がおさまっている。この場を円形に囲む木々が防風の役目を果たしているのだろうか?この現象に感謝しつつ立ち止まった男は上着の内からメモ帳を取り出す。しばらくそれを眺めて、不意に流れた風がメモ帳のページを揺らす。男はその時気が付いてしまった。風が吹かなくなったのではなく、風の音がしなくなったのだと。


 男は大きく息を吐いて、それも音を響かせなかったことに肝を冷やした。指を震わせながらも丁寧にメモ帳を懐に戻す。


 男は地面にうつぶせになると匍匐前進で広場の中心へと慎重に進んでいく。緊張から震える手も噛みしめた歯の接触でも何も音を感じない。耳がおかしくなったのだろうか?


 男が広場のちょうど中心のあたりまで進んでいくと、そこには一輪の花が咲いている。薄く儚げな紫の少しゆがんだ花弁、それを見て男は軽くめまいを覚えて目をつむった。


 少しして目を開いてどうだろう。一帯の芝生はあずき色に変わっている。視線をあげれば空は浅葱色で鮮やかに、まだ日中だというのに幾多の星が白く輝いて見える。浮かぶ雲は、いやなぜ男は雲だと一瞬でも思い至りかけたのか、空には様々な大きさで土色の真円が浮いているようだ。目をこすり、瞼を強く閉じてみても男の目にうつる景色は変わらない。ほんの少し前はただ輝いていた日光も色が抜けてだんだんと青くなっている。


 男は空腹にもかかわらず湧いてくる吐き気に耐えながら立ち上がる。見慣れない色に囲まれて、それによるものか男の気分は加速度的に悪くなる。しまいには自分の体が揺れているかのように感じた。……それは気のせいだろうか?ついに男はまっすぐ立つこともかなわなくなり尻もちをついた。


 しばらく放心していた男は、木材がきしむような音で我に返った。耳の不調が治ったのだろうか?一度音を意識すると、男の耳には吹きすさぶ風の音が蘇ってくる。そして断続的な破壊音。その音は次第に大きくなり、……つまりは近づいてきている。


 男は荒れ狂いそうな呼吸を懸命に落ち着け、目の前に咲く紫の小さな花に平伏した。


 破壊音が近づく。それにつれ音が何を破壊しての物なのか次第にわかってくる。音する方に視線を向ければ、木々の梢よりも高く葉の群れを突き破り、鋭く突き出た断面をさらしながら幹の途中で荒くねじ切られた木々が放り上げられ、そして落ちている光景を見ることができただろう。


 音と破壊はなおも近づき、破壊された木々の一部が広場の方にまで降り注いでくる。それでも男は柴に額を押し付けて動かない。


 ついに広場を縁取る分厚い木々の編み物も力づくで振りほどかれるという段階になって、男は自分の体を支える地面が轟音とともに動き出すのを感じた。地面は一点をつまんで引き上げられたかのように持ち上がる。まるで新たな山が土中から現れるような地殻変動。そんなものに巻き込まれて男が無事でいられるはずもない。無力な男は何かに捕まることにも失敗し、斜面を転がり落ちる。流れ落ちる男の体は木々と混ざりながらさらに転がり落ち、幾分とたたないままに周りの土砂や木々に押しつぶされて原型を失った。


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