ψ(四叉路とその過程)

@CascadePulse

第1話 猟師と野犬

 遠く都市を離れて、一日一往復しか通わぬ廃線まぢかの一両電車で山の奥へ。たどり着いた駅は屋根もないコンクリートの足場が茂みに浮いているだけの有様。そこから少しは草がのぞかれた道とも呼べない切込みに分け入って、その先にぽつんと佇むのは物置を兼ねた四畳ほどの休憩小屋。聖地を拝むべくリュック一つで遠路やって来た男はその中で一晩をあかした。


 ブルーシートにくるまった男は寒さを感じることもなく睡眠は十分。明るくなってきたあたりで予定の方向へと藪漕ぎを開始した。


 固まった水の壁のように密度高く茂った草を越えるのは困難を極めた。ふちの鋭い葉は薄い紙のように服に切り付けている。遇に獣道のような通りに出れば、獣との遭遇が脳裏をよぎる。このような場所では、マダニやヒルも怖い。


 身に着けている眼鏡型デバイスは地図を表示しているが、平地とは比べ物にならないほどに現在地の移動はゆっくりとしたものになっている。日が昇り頂点に差し掛かるほどの時間をかけて、男は岐路へとたどり着く。


 首に巻いたタオルで顔を拭い、じっくりと地形を把握する。変わり映えのない草木に突如として現れたように、前方には直立する木々が鳥居のように並び立ち、緻密な葉群れがその奥を一層暗くしている。また、左の方向には濃い霧が立ち込めている。不可解なことに白い霧は巨大な布をかけたかのように、動きもなくある一方だけを覆っている。



 男は右手へと進路を定めた。



 日が傾いて、男は自分の身にかかる異常を認めざるをえなくなってきた。少し歩いたかと思えば、その十倍は時間が経過している。眼鏡型デバイスにうつる地図では自分がほとんど移動できていないことがわかる。体感時間と経過時間は離れ、方向感覚はなくなっている。


 このままだと森の中で夜を迎えることが避けられない。男は焦って右に左、次第に自分の周りを一周に視線を巡らせる。もちろんそんなことをしても、どこも変わらず草木がよく茂っているだけなのだが、……どうにも男は幸運であった。


 草木の上で黄色の布が揺れている。男はすぐに人が手に布を持って振っていることに気が付いた。男は急いで草木をかき分け、そちらに進むと開けた場所に初老の男性と青年の二人が立っている。


 二人から不審げな視線を向けられて男は、なるだけ明るい声で話しかけた。


「こんにちは!お二人さん。ここら辺に住んでいる人ですか?ちょっと迷いかけていて……山を越えて湖の方を目指しているのですが……」


 少し安堵したような表情になり口を開きかけた青年を制して、老人がきつい視線で男を射抜く。


「あんたぁ、こんなところに来ちゃいけないよ。もう猟期になってるって、町のもんは言わんかったかい?わたしら猟師は位置がわかるけども、……兄ちゃんあんた撃たれなかったのは運が良かったねぇ」


 老人言葉に男は帽子をかいた。


「いやーその、私も位置情報見ながらルートを辿ったはずなんですけど、どうにもうまく進めないと言えばいいのか……実際の地形と地図がうまく合わなくて……」


「そうですよね!そうですよ、お父さん。俺言ったっじゃ

 わが意を得たりと話しだした青年を老人が視線で黙らせる。そして、厚い手袋はめた指で鼻をかくと、幾分表情を和らげて男の方に顔を向けた。


「あー兄ちゃん。わたしらも少し困っていてね、どうにも位置情報とやらがうまく使えんらしい……そうだよな」


「そうです……」


 老人の言葉に青年が肯定する。


「そんでまあ、わたしはここらの地形にちっとは心当たりがある。今日はもう遅い、土の上で夜を越したくないならついてきな。屋根がある場所に案内しよう」


 男は老人の親切な言葉に、案内してくれるよう頼みこんだ。


 老人の案内でいくばくか、森の中に小さい一軒家が現れた。二人の先導で中に入ると、六畳ほどの板張りの上に簡素な長椅子だけがある部屋だ。照明が生きていることに男は安心した。部屋の奥には大きな扉があり倉庫になっているらしい。


 ソファに座り込んで男は青年に話しかける。お互いの紹介が終わると、青年はそんな都会から来たんですかと驚いている。青年は山一つ越えた村に住んでおり、都市には幾分かのあこがれがあるらしい。


 いくらか会話は弾んだものだが、老人は床に直接座り込むとむっつりと黙り込んで、運んでいた荷物から猟銃を取り出してなにやら点検している。


 男が

「夜になりそうですが、これから猟に出るんですか?」

と問いかければ、老人は噴き出して


「へへっ、バカ言っちゃいけねえよ。わっしもまだ死にたくはねえ。家の中にいれば安全だとは思うけどよ、ここらには熊なんかも出てくるからな。そんな時は音で追い返す。まあ兄ちゃんは安心してくれていいからな」


 老人は青年の足を小突き、


「そら、お前も確認ぐらいしておきな。もう薄暗いから灯りをつけていいことはねえ。なるだけすぐに寝るぞ」


 青年が慌ててばたばたと荷物を開く。そして猟銃を取り出してあれこれ確かめている。男はそんな様子を静かに見つめていた。


 確認も終えて、戸締りだけを確認して三人は床につく。猟師二人は薄手の寝袋で、男はビニールシートにくるまって。


 夜は更ける。


 近くに雷が落ちたかのような大きな音で男が飛び起きる。続いて灯りがつき、部屋の状況が明らかとなる。部屋の一角の戸が消失し、部屋内には老人と男の二人しかいない。青年はどこに行ったのか?青年が満ちこんだ荷物もなくなっている。男が困惑していると老人が


「兄ちゃん!奥の倉庫に入っとれ、わっしは外見てくる!」

と怒鳴って、猟銃を手に外にかけていった。


 男は老人を呆然とした顔で見送って、重い扉に苦労しながらも荷物を抱えて倉庫への扉を開く。機械や積まれた袋の隙間に体をねじ込んでなんとか扉を閉める。何が起こったかわからないながらも、これで一安心と男が気を落ち着けようとしたところで、冷たい風が男の体を刺した。


 男は、ある可能性に思い至り暗闇の中荷物をあさってヘッドライトを点灯する。……倉庫の左右の壁に大穴が開いている。


 男が壁の穴を照らすと、しばらくして風に乗って何か……音がかすかに……それはいくつもの犬の吠え声のようだった。吠え声に追い立てられた男は慌てて、倉庫の中の物を乗り越えて、反対側の壁の穴から闇に沈んだ森の中へと突き進んだ。


 ヘッドライトを消して真っ暗闇の中、男はしばらく草木をかき分けて進んでいられたが、段差にけ躓いて斜面を滑り落ちて、大きな木の幹にぶつかって止まった。


 男は衝撃にくらくらしながら荷物の中をあさる。いくらか苦労して、息をひそめた男は取り出した金属製の棒を握りしめた。風の音の奥から、少しずつ草葉が擦れる音が大きくなる。そして犬の吠え声が一つ二つ。いつの間にか男は囲まれている。


 不意に少し先も見えない闇の中、少し薄い黒が動いた気がして、男が棒を適当に振り回す。何かにぶつかった感触はないが犬のうなるような音が正面から漏れてきた。


 男が呼吸を整える。


 背後から衝撃を受けて、男は地面に打ち倒される。そして牙が並んだ口が服の上から男の首を噛んで絞める。これは野犬だろうか?……犬には違いない。男が抵抗する間もなく、いくつもの犬が男の体に食らいつく。


 男が犬を引きはがそうとした右腕に食らいつく犬がいる。引きずるように足の健に噛みついて引く犬がいる。わき腹のあたり、服にかみついてねじり上げる犬がいる。


 しばらくもがいて、ついに犬の牙が自分の皮を裂きだして、男は耐えられずに叫び声をあげた。助けを呼ぼうとした。


 それを聞いたのはたくさんの犬だけだった。


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