第18話 潮騒好きのガスコーニュ
朝ご飯を食べて、陽射しの掃き溜めとなっている部屋に入る。
髪を切ったせいなのか、いつもの暑苦しいはずの部屋が若干和らいでいる気がした。
エアコンをつけて、温かなベッドに身体を放り投げた。
涼しい風が顔に当たり、人類の叡智を享受する。
ゆっくりと、タオル地の敷パッドを手でなぞる。
最初はいつもどおりの心地よい感触を楽しんでいたが、途中からアオイがここに寝ている事を思い出して、慌てて体を起こした。
壁に背中を預けて、棚とヒヨコの座布団を視界に入れた。
僕は紛らわすように、散髪の途中から大人しいアオイに声をかけた。
「アオイ。何か、元気ないけど…朝食、口に合わなかったか?」
少し慌てた様子でアオイが反応した。
「んっ⁉︎い、いやぁ…美味しかったよ!塩サバ。ちょっとね、考え事してただけだから、気にしないで!…それよりさ、テツヤのお父さん凄かった!良い意味でだよ、良い意味で!」
いつにもなく早口で喋るその様子が、気にならない方が無理だった。
しかし、そこに突っ込む事は、僕らにはまだ早い気がしていた。
ーアオイのお父さんはどんな人なんだ?
その言葉が喉まで出かけていたが、力強く
サエキアオイとして会えない彼女に、彼女の家族の話題はあまりにも酷な事だと考えていた。
もちろん、死因に関しても…。
「いつもより真面目な事ばっか言ってたから、俺もビックリしたけど…まぁ、体調悪かったら言ってくれよ」
意気消沈しているアオイの肩に、そっと言葉をかけた。
「何なに〜?テツヤ、もしかして…私の事、気にしてくれてんのぉ?」
少し朗らかな声をあげたアオイが、楽しそうに頭の中ではしゃぎ立てる。
「はぁっ⁉︎そりゃ、元気なかったら気にするだろ!普通!」
いつものアオイに戻った事に、胸を撫で下ろしつつ、僕は語尾を強く言い放つ。
しかし、アオイのニヤつく声は収まらなかった。
「へへへぇ、そっか、そっかぁ〜」
少し機嫌が良くなったアオイに、僕は釘を刺した。
「ちゃ、茶化すなよ」
普段どおりの調子に戻ったアオイが、別の話題をふってきた。
「は〜い。それよりさ、お父さんから何貰ったの?」
僕はベッドの上に置いた黒い袋を手に取り、中身を取り出した。
その中身を見たアオイが、すぐさま僕に尋ねた。
「何、これ?」
袋の中から出てきた物は、ピアノスコアとバンドスコアだった。
僕は表紙のアーティスト名を見て、今日一番の声を上げた。
「マジか⁉︎」
「えっ⁉︎ねぇ、何なのこれ!」
答えを聞けないアオイが、頭の中で騒ぐ。
「これ、ピアノスコアとバンドスコアってやつだよ。音楽を演奏するための楽譜って感じ」
なるべく分かりやすいように、噛み砕いてアオイに説明した。
すると、アオイから思いがけない反応が返ってきた。
「へぇ、楽譜ってこんな感じなんだ。ねぇ、これ…表紙に書いてあるライクラって、あのライクラのこと?」
耳を疑うような返しに、僕は思わずベッドから身を乗り出した。
「ま、マジか⁉︎アオイ、ライクラ知ってんの?」
あまりの僕の迫力に、若干引き気味のアオイが
「う、うん。と、友達から教えてもらった」
棚の前に立ち上がり、無意識に右手を彩音さんの写真に向けて差し出していた。
「マジか!素晴らしい!!俺、その子と友達になれるわ。しかも、これ…インディーズ時のアルバムのヤツだし!うわぁ、父さんにマジ感謝やわ」
「好きなんだね、ライクラ。あっ、ちなみにちゃんとテツヤの手、握ってるよ」
僕は同志を見つけた喜びを込めて、右手を上下に振った。
「そりゃね、入院中にずっと聞いてたから。ちなみに、アオイはどの曲が好きなんだ?」
「え〜とねぇ、たしか、<夏初月>ってやつ」
先程よりも強い熱気が胸の奥から沸き立って、さらに身を乗り出した。
「マジ??マジで言っとる?うわぁ、めっちゃヤバイ!あれ、俺もライクラの中で一番好きなヤツやから!あの曲は、インディーズの頃のやけ、多分このスコアに載っとるはず…」
興奮が冷め止まずに、左手に持ったピアノスコアのページを
その様子を見て、アオイがクスクスと笑っている声が聞こえたが、今の僕にはそれに構っている余裕はなかった。
「あっ、あったあった」
目の前に並ぶ譜面に、規則正しく音が並んでいる。
「あっ、ホントだぁ!ねぇねぇ、テツヤ!弾いてみてよ。テツヤのピアノ、聴きたい!」
アオイのリクエストに応えて、僕はエレクトーンの方へ足を向けた。
「ちょ、ちょっと待って…」
エレクトーンの電源を入れて、椅子に座ってスコアを立てかける。
マスターボリュームを少しあげて、エクスペンションペダルを数回踏む。
ピアノのボタンを点滅させて、鍵盤に手を置いてボリュームを確認する。
ミ、レ、シ、ソ、ソ…♪
「あっ、<猫ふんじゃった>だ!テツヤ、本当に弾けるんだね、ピアノ」
アオイの感嘆の声が、頭の隅で聞こえた気がした。
「いや、飾りじゃないから…もう少し、ボリューム上げた方が良いな」
音の調子を見ながら、<猫ふんじゃった>を弾き終わり、ようやくお気に入りの曲のスコアと向き合った。
「とりあえず、Aメロからサビのトコまで試し弾きな。ふぅ~」
緊張でいつもより指が固い感じがして、深呼吸をして気持ちを落ち着かせた。
「わぁ〜ワクワクする!」
頭の中では、目を輝かせて期待に満ちた声が響き渡る。
沈む鍵盤に、次々と指を滑らせて音を奏でる。
聴いていた曲が弾ける喜びが、曲とともに身体中を駆け巡る。
さいわい、サビまでは難しい箇所が無かったため、問題なく辿り着くことができた。
サビを弾き終わると、アオイの黄色い声が頭の中を染めていく。
「わぁ〜!スゴイ!スゴイよ!テツヤ、カッコいい!」
言われ慣れない言葉をかけられて、胸の奥がむず痒くなった。
「ま、まぁ…それなりに弾いてるから…」
すると、謙遜する僕を褒め称えるアオイが、予想外の提案をしてきた。
「いや、本当スゴイよ。私、楽器なんて無理だから。カスタネットが限界です!でもさ、せっかく歌詞があるんだから歌おうよ!やっぱ、歌がないと何か寂しいじゃん!」
聞き間違えだと思い込みたい僕は、アオイに確認をとる。
「えっ⁉︎それ、俺に歌えって言ってんの?」
「えっ?駄目なの?」
何が問題なのか分からない様子のアオイに、僕は全力で拒否をする。
「いやいや、人前で歌うなんて…いや、マジで無理…」
「えぇ〜……じゃあ、しょうがないなぁ。テツヤが曲弾いてくれるなら…せっかくだし、私が歌う!」
思いの外、あっさり引いてくれたかと思ったが、アオイ自身が歌うと言うとは思わず目を丸くした。
「えっ⁉︎マジ⁉︎」
僕の反応に対して、アオイは笑いながら答えた。
「マジ、マジ!これでもね、歌うのは好きなんだぁ。友達とも学校帰りによくカラオケ行ってたし…」
声を張るアオイに僕は、期待の声をかける。
「だったら尚更お願いします。アオイの歌、聴くの楽しみだな」
「ふっふ〜ん。聴き惚れて曲、止めないでよね」
アオイが自信ありげに鼻を鳴らして答える。
「それはないから安心しろ」
舞台に上がる前のような、緊張感と高揚が胸の中で混じり始めた。
「フフッ、何か楽しくなってきたぁ!初めての二人の共同作業だね!」
アオイも同じ気持ちなのか、茶々を入れるその声からは若干の緊張が感じられた。
「変な言い方するなよ。じゃあ…準備はいいか?アオイ?」
「おう、いつでも来い!」
観客のセミ達が熱い声援を僕らに送っている。
僕らは舞台に立ち、その声援に包まれながら大きく息を吸った。
朝凪の空の下、初めて僕とアオイの音が重なる。
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