第17話 背油増し増しタイフーン
風呂場の鏡に、穴の空いたゴミ袋を被ってバスチェアに座る自分がいた。
床には、水で滲んだ新聞紙が敷かれている。
着せ替え人形のように、自分の髪に色々な物が付いていく。
腰にコームやハサミを付けた父さんが、鏡越しに僕に向けて白い歯をみせた。
「今日はどういたしますか?お客様」
僕の頭に霧吹きで水を吹きかけながら、父さんが要望を聞いてきた。
「父さんに任せるよ」
僕の髪の様子をみるために、父さんが濡れた毛束を蝶のように羽ばたかせる。
「そしたら…イケメン、ビューティーカットしていきますねぇ」
イメージが固まったのか、父さんは毛束を手に取りハサミを入れ始めた。
ハサミの奏でる凛とした音が、
「あれ?前はただのイケメンカットだったよね?」
すると、父さんが人差し指を立てて左右に振りながら、知識の乏しい僕に講義を行う。
「チッチッチ!哲也君、甘いな〜。今は男子も美容に気を使わなきゃいけない時代なのだよ!女子にモテるには清潔感、大事ですから!はい、ここポイントね〜」
そんなことを言いながら、父さんはコームを濡れた髪に当てて、
まるでタンゴを踊るようなステップでハサミを動かし、切髪と重力のワルツが風呂場で始まった。
(分かる〜!!清潔感、めっちゃ大事!!)
頭の中の女子が、父さんの講義に激しく共感する。
(そうなの?)
未だピンときていない僕は、見えない女子に再度確認した。
(そうだよ!清潔感、大事です!)
父さんが左右の毛束を持ち上げて、髪の長さを確認しながら唐突に質問してきた。
「テツヤ、彼女できたか?」
「はあっ⁉︎何、いきなり⁉︎」
鏡越しにニヤつく父さんと目線が重ねる。
丸眼鏡の奥からは期待の眼差しが向けられていた。
(ワクワク…)
どこかで盗み聞きしている女子も恋愛話に興味深々のようだ。
「そんな慌てんなよ〜。こりゃ、もしかするとかぁ?いや、高二の夏やろ…青春ですわ。髪を切って、イケメンになって…花火大会にお祭りとイベントが盛り沢山やんか。これで彼女でもおったら、今年の夏休み…ステキやん?」
夏のイベントを指折り数える父さんと落ち着かないアオイに、僕は残酷な真実を伝える。
「残念ながら、そんなステキな夏休みになる予定はないよ」
期待に応えられない僕は、目線を下げて無残に散った髪の毛を見つめた。
二人の女子からため息が漏れる。
(え~、つまんない)
「はぁ…つまらんなぁ」
すると、父さんが何か思い出したように動かす手を止めた。
「……あっ、そうやった!梢ちゃんと同じクラスなんやって?…こないだ、うちの店に来てくれた時に、たまたまその店におってな、五年ぶりくらいに会ったんやけど、めっちゃ可愛いなっとってビックリしたわ」
父さんは、時折コームを使って語尾を強調しながら、その時の興奮を伝えてきた。
聞いた事がない名前にアオイが反応する。
(梢ちゃん?)
(あぁ…そっか。アオイは見たことなかったな。多分、幼馴染…みたいなもんだよ)
(ふぅん)
適切な言葉なのか分からないが、友達や知り合いとは違う気がしたのは確かだ。
襟足付近を切りやすいように下を向きながら、父さんが好きそうな話題で話を返した。
「梢、父さんの店に来てたんだ。何か、うちの学校で割と男子から人気らしいんよね…」
すると、父さんが興奮気味にさらに詳しい情報を求めてきた。
「そりゃそうやろ!アレで人気ない方がおかしいわ!彼氏おるんちゃう?」
残念ながら、それ以上の梢の情報を知らない僕は両手を上げて肩をすくめた。
「さぁ?分からん」
僕の放った言葉に父さんの手が止まった。
「なんや、幼馴染なんに知らんの?」
鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしている父さんに、さらに豆鉄砲を食らわせる。
「まぁ…挨拶くらいしかせんし…」
僕の言葉を聞いた父さんが、丸眼鏡のブリッジをクイッと上げて、深くため息をこぼす。
「はぁ…お前ってヤツは…まぁ、哲也がええんやったらええけど…」
頭頂部の髪を切りながら、父さんが諭すように言葉を上から落としてきた。
「哲也…。面倒くさがったり、怖がるなよ。人を好きになること。相手が男でも女でもええんよ。たしかに、マイナスな事があるんは事実やけどな。…でも、どんな形であれ、哲也に何か残してくれるから」
「…うん」
普段からは考えられない落ち着いた口調で話す父さんに、少し緊張してしまう。
父さんが僕の横に置いていた椅子に座り、ハサミをすきバサミに持ちかえた。
「母さんとはどうだ?仲良くやっとるんか?」
「まぁ…多分…」
ハサミに絡みついた黒い藻が、綿毛のようにふわりと舞い落ちる。
「勉強しろ、勉強しろって、うるさいかもしれんけど、哲也の事思っての事やけ、目ぇつぶったってや」
羽毛のように柔らかな言葉が僕の背中に投げかけられる。
「うん、分かっちょる」
鏡越しにこちらに目線を合わせた父さんが、頬を緩めた。
「そうか、ありがとう。…そういや、まだ、音楽しとんか?」
椅子から立ち上がり、横に立つ父さんが突拍子もない質問をしてきた。
「うん?そうだね、たまに弾いとるよ」
前髪を切るために目を瞑っていると、さらに父さんは質問をする。
「そっか…哲也、音楽好きか?」
いつもと違う雰囲気にさらに緊張感が増す。
「うん。まぁ…」
暗闇の中、ハサミの無機質な音と父さんの
「じゃあ、止めるなよ。音楽。好きなもんがあるって凄いことやからな」
すると、突然、甲高い機械音が反響した。
「おっと、悪い…。はい。…おー、おはようさん。うん。どしたん?……」
父さんは商売道具を腰にしまい、席を立って脱衣所へ向かった。
緊張感を壊してくれた電話に感謝しつつ、身体を強張らせていた僕はため息をついた。
すぐに父さんが戻ってきて、作業が再開されて前髪を調整する。
「さぁて…、前髪はもう終わりやから…あとは最後に眉カットして終わりやわ」
眉毛を動かさないように、目を瞑っていると終了の合図を告げられた。
「うっし、お疲れさん。どうや?イケてるんちゃう?」
鏡を見ると顔が少し引き締まっているように見えた。
(いいじゃん!爽やかだし、前より全然良いよ!)
髪を切った姿は、年下のようなお姉さんにも好評のようだ。
(そ、そっか…)
僕は親指を立てて、父さんにお礼を言った。
「うん…イケてる。ありがとう」
満足そうに頷いた父さんは、濡れたタオルで手に付いた毛を払った。
「うっし!上等やな。ほいじゃあ、もう出んといけんくなったけ、悪いけど片付け頼んでもええか?」
「うん。もう出るの?」
仕事道具をしまいながら、脱衣所へ上がった父さんが足をバスタオルで拭いた。
「おう。もしかしたら来週、少しだけなら家に顔出すかもしれん」
「分かった」
僕は自分の毛がこれ以上まき散らないように、慎重にゴミ袋を取り外しながら返事をした。
髪の毛がまぶされた新聞紙をゴミ袋に詰めて一息ついていると、父さんの声が聞こえた。
「おーい、哲也!渡すもんあったん忘れとったわ」
「何ー?」
足に付いた水分をマットで拭き取り廊下に出ると、玄関で黒い袋を持ち上げて手招きする父さんがいた。
式台には、エプロン姿の母さんが小さな袋を持っていた。
「どうしたの?」
「ニヒヒ。ほれ、コレ!何かは開けてからのお楽しみってな」
目尻を下げて笑う父さんが、左手に持った黒い袋を僕に渡した。
「そしたらな。夏休み、思いっきり楽しみんさい」
袋を手に取った僕の身体を父さんの太い腕が包み込む。
「父さんも仕事、頑張って」
父さんに別れの言葉をかけると、横にいた母さんが口を開いた。
「テツヤ、朝ご飯もうできてるから…片付け終わったら、食べてちょうだい」
「はーい」
父さんから離れて、急ぎ足でその場を離れた。
邪魔者となった僕は、ホラー映画のような風呂場へ戻った。
壁に張り付く髪の毛たちのせせら笑う声が、いつもでも僕の中でこだましていた。
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