第11話 鏡の中のイデア

 階段を降りる度に、密度の高い空気が顔を撫でる。

 聞こえてくるはずだと思っていた野太く、大きな声が聞こえてこなかった。

 

「うわぁ、美味しそうな匂い!この匂いは…ウィンナーじゃない⁉︎」

 アオイが嬉しそうな声を上げる。

「えっ⁉︎…アオイ、ウィンナーの匂いするのか?」

 昨日確認した時は、僕と触覚や視覚は共有していなかったはずだ。

 一つでもアオイと共有できる感覚があることを知り、少し安心する。

「あっ、そういえば…そうだね!うん、ちゃんと匂いを感じるから、匂いに関しては分かるみたいだね!それより、この美味しそうな匂い嗅いでたら、なんか…お腹空いてきちゃったぁ」

 アオイが子供のように、食欲を満たせと要求してくる。

 

 幽霊の食欲を満たす方法を知らない僕は、素朴な疑問をアオイに投げかけてみる。

「いや、幽霊ってお腹とか空くのか?ってかさ、空いてたとしても食べれなくないか?」

「そんな事言われてもなぁ…お腹空いたものは空いたんだもん…」

 口を尖らせているように言う彼女から、幽霊のお腹を満たすための解答は得られなかった。

 言われてみれば…アオイにつられたのか、自分もお腹が空いてきたような気がする。

 

 洗濯機の回る音が漏れる洗面所の扉を開く。

「わぁ、ワクワクする~!。ねぇ、テツヤ!私、映るかな?」

 アオイが、スタッカートのように言葉は弾ませる。

「頼むから、貞子みたいな姿だけは勘弁して…マジで」

 ホラー映画の主人公になった気分の僕は、洗面台の隣までゆっくりと足を運ぶ。

 そんな僕をよそにアオイが抗議の声をあげる。

「酷いなぁ。もしかしたら、隣にめっちゃ美少女が映ってるかもよ?」

「…もしそうだったら、恋でもしちゃうかもな」

 気を紛らわせるために冗談を言ってみたが、アオイから意外な反応が返ってきた。

 

「やだぁ。幽霊と人間の恋とか、なんかロマンチックじゃない?」

 夢見る少女となった彼女の声は、期待に満ちている。

「いやいや、ロマンチックじゃないだろ?ってか、冗談だから真に受けるなって」

 これ以上変な方向に行かないように、黄色い声を漏らすアオイをこちらの世界に呼び戻す。

「ちぇ~、テツヤ、つまんない」

 現実に戻されて、ふてくされる彼女をよそに、僕は洗面台の手前で大きく深呼吸をして、目を瞑りながら重い足を一歩踏み出す。

「よし、行くぞ…」

「うん、うん!」

 その声だけで、子供のように胸を躍らせている彼女の様子が想像できた。

 

 洗面台前に立ちゆっくり目を開こうとした時、頭の中にアオイの大きな声が響き渡った。

「えぇ~!私、テツヤの隣にいるのに映ってないじゃん!何でよ~」

 落胆する声を耳に置いて、目を開けると鏡には寝癖頭の見慣れた顔しか映っていなかった。

 

「ふぅ…」

 僕は無意識に安心した声を漏らす。

「ふぅ…じゃないよ!なんで映ってないの?ホラー映画とかだったら映ったりするじゃん!!ホラ、これでどうだ!」

 納得がいかないアオイは、なにやら鏡の前で懸命に動き回っているらしい。

 

「まぁ…現実はそんなに甘くないってことだな…」

 蛇口を捻って、朝日を浴びた生温かな水で顔を濡らしながら、うつむく彼女の肩を叩く。

「えぇ~。テツヤはさ、見たくなかったの?私の姿…」

 項垂うなだれた声が、滴となって洗面台に落ちる。

 僕は掌に洗顔料を出し、両手で擦り合わせて出来たキメ細やかな泡を顔につけて、正直な気持ちを彼女に伝える。

「いや、見たくないか?って言われたら見たいけど、半分…怖いって気持ちもある」

 

 白粉おしろいを塗ったようになった顔を冷水で流し、タオルで水気を吸い取った後に化粧水で肌を馴染ませた。

「そっかぁ…うわっ、何?…テツヤ、それ、ミントみたい匂いがする」

 頭の中で、アオイが訝しげに声かけてきた。

「あぁ、メンソールが入ってるからな。スウスウして涼しいんだよ」

 濡れた手をタオルで拭いて、脱衣所から出て、廊下を歩く。

 

「ふぅん。何か…パパもそんなの付けてた気がするけど、確かに夏とかは涼しくて良さそうだね」

 そんなに特別な物でもなかった僕は何故、彼女からそのような言葉が出るのか分からなかった。

「女子のやつには無いのか?」

 記憶をたどるアオイが、少し間を置いて答えてくれた。

「ん~…あんまり無いんじゃないかなぁ?、多分」

 トイレの前に立ち、僕は最重要項目をアオイに言い放った。

「へぇ…そうなのか、おっと、アオイ、今からトイレに行くから覗くなよ」

「覗かないよ!!私、変態じゃないし!」

 アオイの怒った声が、初めて頭に響いた。

 

 触覚や視覚が共有されていないことに感謝しつつ、用を足して、再び洗面所へ向かった。

「鏡に映らなかったし、こうなったらお腹だけでも一杯にならなきゃ!」

 ハンドソープで手を洗う僕の耳に意気込む声が聞こえる。

 しかし、僕は彼女がどうやって食べ物を食べようとしているかを知らない。

「いやさ、どうやって食べるんだ?」

 僕の質問に、即時にアオイが快活な声で答える。

「テツヤのご飯にかぶりつく!」

「おいおい…それをやるならせめて俺が一口、食べてからにしてくれ」

 何か案があるのかと期待したいたが、考えが甘かったようだ。

「分かった。りょーかいであります!」

 敬礼でもしているかのように、無駄に切れのある返事が返ってきた。

 

「さて、と…じゃ、行きますか…」

 

 僕は不安と期待が混じる手で、お腹を空かせた幽霊をリビングへと招き入れた。

 

 

 

 

 

 

 

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