第4話 落日のウルフトーン

 家の鍵を開けて、油の匂いが漏れ出すリビングの扉の取手を捻った。

「おかえりなさい。どうだった?」

 台所で揚げ物をしている母さんがこちらを見て、塾の感想を聞いてきた。

「まぁ、悪くはなかったよ」

 僕は、パチパチとなる音を聞きながらソファへ仰向けになった。

 

「なら良かったわ!夏期講習の資料とか貰ったんでしょ?テーブルに出しといて!あと、汗だくのままソファに寝転がらない!さっさとお風呂入っちゃて!パジャマ、そこにあるから」

「はい…はいっと…」

 面倒な事になる前に塾から渡された資料をテーブルへ置き、ソファの横に置かれたパジャマを持って脱衣所へ向かった。

 

 少し重くなった上着とズボンを洗濯機に入れ、夏に似つかわしくない肌をさらして風呂場に入る。

 頭と身体にまとったフローラルな匂いのする泡を洗い流して、湯船に浸かった。

 帰り道での梢とのやり取りを何度も頭で思い返しては、自分の不甲斐なさに嫌悪する。

 

 静かに落ちる滴が、湯船に綺麗な水面を作った。

 僕は、理想の自分が放つ叱責から身を守るように、抱え込んだ膝に濡れた額を押しつけた。

 

 湯船の水をすくって、勢いよく顔にかける。

 濡れた両手で頬を叩く。

「よし…」

 灰汁あくの出た湯船から上がり、陽の光でフカフカになったバスタオルで身体を包んだ。

 

 パジャマに着替えてリビングに戻ると、テーブルに大きなエビフライが置かれていた。

「どうしたの?これ?」

 何か祝い事でもあったのかと怪訝けげんに思い、揚げ物の片付けをしている母さんに話しかけた。

 

「お父さんがね、こないだ送ってくれたのよ。哲也、エビフライ好きでしょ?」

「好きだけど…。そういえば…父さん、今どこいんの?」

 エアコンの風が直撃する場所へ移動して、湯上りで火照った身体を冷やしながら、父さんの居場所を聞いてみた。

 

「大阪あたりにいたみたいだけど、運が良ければ明日の朝、家に寄るって言ってたわよ」

「ふぅん」

 エアコンの前で、冷たい風が名一杯当たるように腕を上げながら返事をした。

「ほら!エビフライ、冷めちゃうから温かいうちに食べちゃって!」

 

 母さんに急かされたので、椅子に座りテレビの電源を点ける。

 どのチャンネルも先月の大雨の被害についての特別放送が流れていた。

 

「これさぁ、父さんこっちに帰って来れるの?」

 目の前に置かれたサクサクの衣をまとうエビフライを味わいながら、母さんに話しかけた。

「新幹線は動いてるみたいよ、一応。本数は少し減らしてるみたいだけど…」

 味噌汁とご飯をテーブルに置いて、母さんが向かいに座った。

 

「それより、塾はどうだったの?分かりやすかった?」

 母さんから聞かれるであろうと思っていた質問が早速投げかけられた。

「さっきも言ったけど…悪くなかったって。授業は…分かりやすかったよ。英語だったから少しは理解できたし…」

 揚げた衣のサクサク感とエビのプリプリした食感を味わいながら、僕は白米を急いで口へ入れる。

 

「本当はテツヤが苦手な数学の授業予約しようとしたんだけど、一杯だったのよ。良かったのなら、数学の夏期講習…受けなさい。アンタも来年は受験生なんだから、そろそろちゃんと勉強しないとね」

 何度も言われた言葉を耳に入れたくない一心で、ソースが付いたエビフライを味わいもせず、味噌汁を流し込んだ。

 

「そうだね」

 

 これ以上の言葉を言わないように、最後に残った一口サイズの白米でその口を塞いだ。

「申し込み期限、明日までなのね。じゃあ、お母さん…申し込んどくから、8日から12日までの5日間だから忘れないでよ!」

「はい…はい」

 淡々と大雨の被害状況を話すアナウンサーの声を聞きながら、残った味噌汁と千切りキャベツを一気に胃へと流し込んで、席を立った。

 

「ごちそうさま」

 

 食器を軽く水洗いして食洗機に入れた後、ソファに置いた鞄を持って、リビングの扉に手をかけながら、少し目線を外して母さんの方を向いた。

「おやすみなさい」

「明日は、早めに朝ご飯にするからね!」

 その言葉を最後まで聞く前に扉で母さんの声を遮って階段へ向かった。

 

 自分の部屋を開けると湿った重たい空気が肌にのしかかってきた。

 すぐに、壁に掛けてあるエアコンのリモコンを手に取り、電源を入れる。

 滞留する重い空気とエアコンからのカビ臭い空気を外へ出す為に窓を開けると、ギィーとキリギリスの鳴く声が静かな部屋を埋める。

 けたたましく鳴き叫ぶ駆動音を聞きながら、ベッドへ仰向けになった。

 ガタンっとベットが軋むと同時に、洗濯したばかりのタオル地の敷マットから柔軟剤の香りが宙を舞う。

 

「はぁ…」

 

 鞄から取り出した携帯電話を開くと、健一からメールが届いたので開いてみる。

 

 <俺、花火大会までに彼女作るわ>

 

 健一らしい、何にでも積極的な物言いだ。

 僕は、天井の照明カバーの中で生を全うした虫達をしばらく見つめて、<がんばれ~期待してるわ>と返信した。

 

(なんで、健一は梢を花火大会に誘ったんだろう?梢の事、好きなんだろうか?健一からそんな話、今まで一度もふられた事、無かったのに…)

 

 考えれば考えるほど、胸の奥がモヤモヤする。

 気持ちを落ち着かせるためにゆっくりと目を閉じた。

 

(今日は何か疲れたな…)

 

 自然と機械が奏でる音に耳を傾けながら、僕の意識は徐々に黒い世界へ落ちていった。

 

 

 

 

 

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