第3話 茜色の音

 雑居ビルの階段を上がった二階に、母さんが申し込んだという塾があった。

 塾の入口のドアノブに手をかけようとした時、心臓が早く脈打つのを感じた。

 今思えば…退院してから、こんなにドキドキするような出来事は初めてだったかもしれない。

 少し冷えたドアノブを握り、扉を開けようとした時、後ろから声がして僕は身体をビクつかせた。

 

「あれ?テツ君??」

 

 その声と呼び方…思ったとおり、そこにはキョトンとした顔をする梢がいた。

 部活帰りなのだろうか、白い半袖のYシャツに紺色のネクタイ姿の梢は、左手をパタパタと仰いで自分に向かって風を送っていた。

 

「もしかして…テツ君、この塾の生徒?」

 先程まで階段下に見えていた、小さな梢の姿がどんどん鮮明で大きくなってくる。

「い、いや…、母さんに夏期講習の体験授業を受けろって言われただけ……」

 僕は久しぶりの梢との会話に緊張して、無意識に早口になっていた。

 段差一つ分を残して立ち止まった梢は、鞄からピンク色のハンカチを取り出して首元を流れる汗を拭く。

「あっ、そうなん?なら、私と一緒やね!とりあえず、暑いから中入って涼しくなろ」

 驚く僕をよそに、梢はドアノブを捻り中へ入った。

 

 扉を開けると事務員の人が挨拶をしてくれたので、僕らは体験授業に来たことを説明した。

 事務員の人から近くにある椅子にかけて待つように言われた僕らは、二人で後ろにある椅子に腰を下ろした。

 

 塾内には「有名国立大合格!」と書かれた紙が、大衆食堂のお品書きのように壁を埋め尽くしていた。

 緩めたネクタイの先を団扇うちわ代わりにパタパタと仰ぎながら、梢もキョロキョロと周りを見渡していた。

 

 梢の仰ぐ風がこちらに吹くたびに、ほんのり甘い香りがして、僕は少し緊張した。

「なんか、すごいね…」

 梢は目の前にいる事務員が忙しなくしている様子を見ながら、艶やかな髪を左耳にかけた。

 その婉美えんびな髪を掻き上げて見える白い肌の横顔から、チラリと泣きボクロが見える。

 椅子が小さいのもあり、隣にいる梢が暇を持て余して足をばたつかせるたびに、白いYシャツの袖が僕の肌に触れる。

 

 ―こんなに梢の近くにいるのは小学生以来だろうか。

 

 知っているはずなのに、知らない子が隣にいる感覚に僕の心は騒ぎ出す。


「そうやね…」

 僕は、遅れてその言葉を返すのが精一杯だった。

 

 しばらくして、僕らは少し大きな部屋へ案内された。

 室内には思ったよりたくさんの人が座っており、部屋の中の空気は冷房が効いているのもあり、少し張り詰めている感じがした。

「好きな席に座っていいですから」と事務の人に言われたので、辺りを見回したが二人分の席が無かったので、僕は一番後ろにあった壁際の席に座った。

 梢は、同じ列の前から三番目の席に座り、紺のギンガムチェックのスカートに巻いていたベージュのカーディガンに袖を通した。

 席に座って数分後にガラガラガラと扉をスライドさせる音が静寂を破ると同時に、溌剌はつらつとした男性の声が部屋に響き渡った。

 

 英語の体験授業だったが、いつもの学校の授業と違う緊張感を味わった。

 講師のという熱量の高さを肌で感じ、こんな授業を受けている人達と一年後に同じ受験生となるのかと思うと、さすがに焦りを感じて真剣に授業に聞き入った。

 

 ー…授業が終わり、アンケート用紙を記入して部屋を出る支度をしていると、先に支度を終えた梢が声をかけてきた。

「テ、テツ君…良かったら、一緒に帰らない?」

「えっ⁉︎」

 突然の彼女の誘いに驚いて変な声が出てしまったが、僕はあの時の謝罪をするチャンスだと思い、一緒に帰ることにした。

 

 体験授業のアンケート用紙を事務員に渡すと入塾関係の資料一式を手渡された。

 僕らはそれらを受け取り、雑居ビルを出て駅へ向かった。

 陽が落ちてきて、昼間の酷暑が少し和らいで歩くのが楽になっていた。

 空に滲む青と赤が人々を見下ろすなか、眉山の山肌の緑は夏の暑さを楽しんでいるかのように、生き生きとその葉を茂らせていた。

 

 僕らは近くを流れる川の爽涼そうりょうな音を聞きながら、しばらく無言で歩いた。

 久しぶりに歩く梢の隣から見る景色は、あの頃より鮮やかで、張り替えたばかりの弦のような空気をまとっていた。

「今日は、部活やったん?」

 僕は、目に前に映る紅色の木々から梢の方へゆっくり目線を送る。

 梢は夕焼けが残した空気をフワリと揺らすと、目尻を下げてこちらを向いた。

 

「そやお。あんま筆が乗らんかったけど…」

 へへへ…と苦笑いをする彼女は前を向き直して、俯きながら歩みを進める。

 

 少し出遅れたヒグラシが、暗い舞台でスポットライト浴びて、その美声で僕らの間をうめる。

 

「ねぇ、テツ君…あのね…お母さんから聞いたんやけど…手術できて、病気、ちゃんと治ったんやってね。良かった…本当に…」

 言葉を選ぶようにゆっくりと柔らかく話すその言葉に、物悲しさを誘う声が重なる。

 僕は、梢の思いがけない言葉に戸惑いながら隣にいる彼女を見る。

 梢は俯いたまま、じっとくうを見ているようだった。

 

「お、おう…。でも、俺は運が良かったんよ。たまたまドナーが見つかって…まぁ、前みたいに、激しい運動とかはできんけど…」

 動揺した僕は、何と答えていいか分からず、頭はフル回転させつつ、浮かんだ言葉を声に乗せた。

 少し間があった後、俯きながらもチラチラと見ながら梢がゆっくりと口を開いた。

 

「そっか…。…それでも、私は…テツ君がこうやって隣におって…嬉しいよ」

 

 梢の温かな言葉が胸に突き刺さる。

 何と答えていいか分からない僕を冷やかすように、夏虫達の黄色い声が聞こえてくる。

 

 僕が答えあぐねていると、梢が再度話しかけてきた。

「ねぇ…テツ君。テツ君は、あの塾の夏期講習、受けるん?」

「多分、母さんが無理矢理にでも受けさせるから…行くと思う」

 脈絡のない話に少し困惑したが、僕は今までよりもはっきりとした声で答えた。

 

「そっか……。じゃあ…私、買いたい参考書あるから、こっち行くね…」

 梢はこちらを向いて、駅とは反対方向を指さした。

「お、おぅ、じゃあ…」

 僕は、河渡橋へ向かう彼女の背中に声をかけた。

 

(あの時こと、謝らないと…呼び止めて…言わないと…!)

 僕はそんなことを思いながら、動かないスニーカーをジッと見つめる。

 

「ねぇ!!テツ君!」

 

 いきなり上がった声に驚き、僕は顔を上げた。

 

 目の前には河渡橋を少し渡り、こちらに向き直る彼女の姿があった。

 少し後ろに手をやり、何か言いたげな様子で身体をくねらせたかと思うと、声を反響させるために口の両端に両手を置いて喋り出した。

 

「あんね!今日、久しぶりに二人で話せて嬉しかった!」 

 

 僕にはその言葉を素直に喜ぶ資格はない。

 

 ーお、俺も…!!

 

 その言葉は声に乗らない。

 僕は何も返事をすることが出来ず、手を上げることが精一杯だった。

 それを見てあどけない笑顔を見せる彼女は、僕の知る梢の顔だった。

  

 ふわりと揺れる薄オレンジ色の上着が、濃藍色の彼方へ溶けていく。

 

 緋色の下にできた小さな影は、スカートが描く流麗な弧を只々、名残惜しそうに見つめていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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