第2話 山の主

 走る


 走る


 走る


 人気のない深い森の中、彼女は必死に走り続ける。


 こんなにも走ったのは久方ぶりで、息は切れ、脇腹は刺すように痛み出す。しかし止まることは許されない。背後から迫り来る追っ手の足音が、少しずつ近づいているのを、彼女は感じ取っていたのだ。


 敵は精鋭揃い。戦士ですらない彼女が未だに追いつかれていないのは、狩人たちが敢えてゆっくりと追いかける事で、この狩りを楽しんでいるからに過ぎない。


「あっ!?」


 全速力で走っていた女性は、飛び出た木の根に足を取られて転倒する。無様に地を転げ、ぐったりと顔を上げた。


 彼女をぐるりと取り囲むようにした刺客の数は五人。皆一様にニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべ、こちらを見下ろしている。


「もう楽しい追いかけっこはおしまいですかな? マリア姫」


 姫と呼ばれた女性・・・王国の第三王女である、マリア・ペンズハート。その燃えるような赤毛は泥に塗れ、体は細かな擦り傷で血だらけだ。しかしその瞳はまだ死んでおらず、強気な眼でキッと刺客達を睨み付ける。


「恥を知りなさい! この売国奴!」


 彼女の罵声に、刺客達は声を出して笑った。


「恥を知れ、ねえ・・・そうだな、アナタ様の言うとおり、売国奴である我々は恥ずかしい・・・恥ずかしくて恥ずかしくてたまらないから、今すぐにでもアナタ様の息の根を止めてしまいそうですよ」


 どこからか取り出された小さな刃。それは武器とも呼べない、果実の皮でもむくときに使うような日用品のナイフ。


 だがその矮小な刃は、刺客達の熟練の技術によって確実にマリアの命を刈り取るだろう。


 恐ろしくは無い・・・ただ悔しかった。


 愛すべき故郷が・・・家族が、たった数時間で壊された。王国の三大貴族による謀反・・・力を失った王家に抗う術は無く、彼女の世界は驚くほど呆気なく崩壊した。


 もはや彼女に抗う術はなく・・・しかし王家の女として、こんな者達に無様な姿を見せることは出来ない。唇をキツく結び、最後の瞬間を静かに待つ・・・。




 ドン! と夜の静寂を太い太鼓の音が蹂躙した。


 突然の轟音に、刺客達はキョロキョロと周囲を見回す。そして、彼らはあることに気がついた。


「馬鹿な、囲まれているだと!? この私たちが気がつかなかったというのか!?」


 マリアを囲んでいた刺客達を、さらにぐるりと囲んでいる無骨な男達。その手元には、それぞれ太鼓が握られており、男達は示し合わせたかのように、一斉にアップテンポなリズムを刻み出す。


 闇夜を切り裂く太鼓の轟音と、無言で演奏をする無骨な男達の奇妙さ。あまりにも意味の分からない光景に、刺客たちは底知れぬ恐怖を感じていた。


「ライトアーップ!!」


 その言葉と供に、一斉にたいまつが灯される。


 夜の闇を切り裂く焔の明かり。照らし出されるは闇のシルエットを纏った一人の大柄な人物。


 その人物を見た瞬間、刺客達もマリアも一斉に息を呑んだ。


 ヒラヒラと風になびく派手な原色の衣装を身に纏い、元の顔がわからなくなるほどの濃い化粧を施した大男。


 そのシルエットは、周囲の無骨な男達よりもさらに一回りほど大きく、隆々とした筋骨がを艶めかしくくねらせながら、ゆっくりとこちらに歩いてくるのだ。


 異端。


 マリアはそのような人物を、これまでの人生で見たことが無かった。


 男はマリア達のすぐ側まで歩み寄ると、その紅が塗りたくられた唇をそっと開く。


「アタシの庭で勝手なマネは許さないわよ? ボクちゃんたち」


 低く、腹に響くようなテノールボイス。


 しかし、最初のビジュアルのインパクトから立ち直れば、男は武器を持っているでも無く、ただガタイのいいだけの丸腰の相手・・・刺客のリーダー格の人物が動き出す。


 無防備に歩み寄ってきた男に向かって鋭く踏み込むと、手にした刃を男の首筋に目がけて振り下ろした。


 マリアは男の首が切り裂かれる姿を幻視し、大きく息を飲む。刺客の動きは訓練を積んだだ人間のソレで、マリアのような素人には視認する事すら困難だった。


「何ソレ? そんな粗末なイチモツでアタシのタマを取れると思ったわけ?」


 しかし男は退屈そうにそう言うと。無造作に刺客の手からナイフをはたき落とし、唖然としている刺客の顎を思い切り蹴り上げた。


 鮮やかに宙を舞う刺客の体と、蹴り上げた時に、衣服がめくれ上がり、太ももまで顕わになった男の右足。


 一部の隙も無い、筋肉の鎧に包まれたその足を、何故かマリアは美しいと感じていた。






「アタシの名はシルビア・・・この森の王よ」



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