2、

 久米沢は白いバンに心当たりがあった。

 これまた会社近くのアパートで一人暮らしの久米沢は、いったん帰宅すると炊飯器のスイッチを入れ、近所のスーパーに出来合のおかずと晩酌の発泡酒を買いに行くのが日課になっている。

 スーパーには広い駐車場がある。

 最近の不景気のせいか、ドアやトランクを、どこかにぶつけてへこませたまま修理もしないで走っている車が多く目に付く。久米沢は自家用車を持っていなかったが、お互い辛い身の上だよなあと、苦笑して同情していた。

 久米沢がスーパーに買い物に来る時間、駐車場のいつも決まった隅に止まっている車があった。

 白いワンボックスバンだ。

 白いワンボックスバンというだけで何故いつも同じ場所に止まっていると記憶しているかというと、このバンも昨今の不景気の例に漏れず、右側、運転席のドアが電柱にでもぶつけたようにへこみ、ミラーのアームがガムテープでぐるぐる巻きになっているのだ。

 昼間見たバンは右側面は反対で見えなかった。

 ナンバープレートを見る。

「やっぱり」

 ナンバーは4××9だった。

 いつもの特等席だからか、事故の傷をそのままにしている乱暴さからか、となりのスペースは空いて一台だけぽつんと止まっている。

 後ろを向いて止まっている車に、久米沢はおっかなびっくり近づいていった。

 やはりする、死臭が。

 しかし昼間横を通り過ぎたときほど強烈ではない。

 まさか、昼間のあの時、死体を乗せて走っていたんだろうか?

 まさかな、人間の死体ではあるまい、お巡りさんが言っていたように犬の死骸でもひいて、腐った血を底部に浴びていたのかも知れない。

 どっちにしろ、おえ〜〜、と思い、わざわざしゃがみ込んで底を調べるようなことはしなかった。


 店に入って、おかずを買い、アルコール飲料の冷蔵コーナーに行き、さあて今日はどの発泡酒にしようかなといそいそ眺めていると、横からむっと嫌な臭いがした。

 あまりあからさまにならないように横目で見ると、汚れた土建の作業服を着た、色の黒い、小柄なおやじだった。小柄だが、鼻ひげを生やした怖い顔が、体もがっちり鍛えられた筋肉をしているのを想像させた。

 久米沢はびびりながら目を前に向け、この人があの車の主だと思った。

 おやじは同じく作業服を着た若い衆二人と連れ立ち、2本3本まとめてガラガラ買い物かごにビールを入れていった。

 久米沢はさっさといつものチューハイを1本入れ、逃げるようにレジに向かった。

 胸がドキドキ鳴り、気持ち悪かった。びびりの緊張ばかりでなく、おやじの汗と油の臭いに混じって、車で嗅いだあの臭いがしたのだ。


 店から出た久米沢は、外からガラスを通して三人がレジに向かったところなのを確認し、止めてあるバンに向かった。

 そんなはずないのは分かっている、ドアがへこんでミラーがガムテープで止めてあるのは、いつもここに駐車していると気づいた2、3ヶ月前からそうだった。

 今日の昼間嗅いだ死臭がその事故と関係あるとは思えない。しかし、さっき車の当人から直接臭った死臭、あれに、どうもこの車の内部に、死臭の秘密が隠されているような、そんな直感を与えられてしまったのだ。

 久米沢は今度は明らかに危険な緊張に胸の鼓動を激しくさせながら、バンに近づいた。

 後ろの窓から内部を覗く。梯子や電線の束、工具類が詰め込まれ、座席が左側に2つ、縦に並んでいる。長い梯子の収納スペースを確保するための配置だろう。

 何かないかと思いながら、照明灯の陰になった内部に目を凝らした。

「おい。てめえなんだ?」

 後ろからドスの利いた声で言われて久米沢は喉から心臓が飛び出すほど驚いた。

 黒い小さなおやじが睨み付けていた。会計を若い衆に任せ、自分は先に出てきたのだ。

「ああ、いや……」

 久米沢はカラカラに渇いた喉で震えながら言い訳を考えた。

「うちも内装の仕事をしてるんで、どんな工具を使ってるのかなあと……」

 背中にびっしょり汗をかきながら、へらへら情けなく愛想笑いを浮かべた。久米沢の勤める会社は印刷用の版下を制作する印刷工場の下請け会社で、全然工具とは縁がない。

 おやじはフンと面白くもなさそうに頬にしわを寄せ、邪険に久米沢を追い払った。

「こちとらそんなお上品な仕事じゃねえや。失せろ!」

 久米沢は後ろにひっくり返りそうになりながら後ずさり、とにかく逃げて、余計な詮索はよそうと思った。

 慌てて回れ右をしようとした途端、また、あの炎天下の死臭が生々しく、強烈に、鼻腔に甦った。

 思わずうげっと吐きそうになって、反射的に振り返ると、バンの後部の窓に中から、人が張り付いていた。

 それを見て久米沢は一気に顔が冷たくなり、頭がくらっとした。

 その男はものすごい顔をしていた。

 ガラスにべったりくっついた顔の、肌が、ずりっと剥けそうに、しわが重なって寄り、青白いその肌は、内部の肉がどろどろに溶けて、今にも皮膚を破って飛び出してきそうだった。開いた口は、中がタールのように真っ黒で、歯は灰色に汚れていた。ギョロリと剥き出して久米沢を見ている目玉は、白目にひびが入って、ピンク色の汁が泡になってしみ出していた。

 腐っている。

「あわわわ、わわわわわ………」

 久米沢は下半身から力が抜けて、尻を落として、アヒルみたいなかっこうになった。おやじはそんな久米沢と、見ている後部の窓を見比べ、チッと思い切り不機嫌に舌打ちした。

「なんなんだてめえ? なんか人様の商売に文句でもあるのかこらあっ!?」

 久米沢は必死にブルブル首を振り、あれ、あれ、あれ、と声も出せずに口をパクパクさせた。どうやらおやじには中の男は見えていないらしく、訳の分からない反応をする久米沢に怒りを爆発させた。

「てめえ、本当にしばかれてえか!?」

 そこへ買い物袋をぶら下げた若い衆がやってきた。

「なんすかこいつ? なんかあったんすか?」

 こいつらもがらが悪く、久米沢はパクパク、二人にも窓の男のことを訴えたのだが、険悪な表情にびびり、ひいこら逃げ出した。

「なんだああいつ?」

「頭おかしいんじゃねえか?」

 馬鹿にした笑いが浴びせられたが、久米沢はそれどころではない、あれは、あの車は、ゾンビ、腐った死体に呪われているんだと思った。

 関わるな、金輪際あんな物と関わっては駄目だ、と思った。

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