第26話 黒い海龍
「うおーい!そんなところで固まってないで早うこっちに来んさい」
王の如き威厳のある外見を持つ黒蛇から発せられたのは、塩気混じりの大気を震わせつつも、実に気安い歓迎の声だった。
その言葉に気が緩んだ四人は言われるまま広間に入り、控えていた女官に武器を渡した後は、すんなり蛇の前にまで近づけた。
ヤトは正面から蛇の瞳を見据える。蛇らしく瞳孔が線のように細いものの、深海を思わせる深い青の瞳には高い知性を思わせる。どこかで見た事のある目と思えば、隣の妻によく似た雰囲気を持っているからと気付いた。あれはやはり龍なのだ。
姿形は艶のある鱗に覆われた黒く細長い胴体に繋がった四本の手足、二本の角と鞭のように長い髭のついた頭部、口からはみ出した無数の鋭い牙が自然と四人を威圧する。
「そげん見つめんでも取って食いはせん。『浦風』、食い物と酒を振舞ってやれ」
側に控えていた女官達は主の言葉に従い、既に用意してあった酒や膳をヤト達の前に置く。そして主の黒龍には人より大きな瓶を置いた。
一先ず四人は膳の前に座り、黒龍は六本指の手で瓶を掴んでグビグビと中身を呷る。
城主に続くようにヤト達も振舞われた魚介に口を付ける。見慣れない海老や貝だったがどれも美味に調理されていて、地上で食べる料理と並ぶ味だった。
「こんな場所やけん客が来なくてのう。久しぶりの客にウキウキするわい。それと、我は大渡津神(おおわたつみ)と呼べ」
酒臭い息を吹いて大渡津神は上機嫌に笑う。これだけで並の者なら警戒心を解かれて信頼を得るような度量の大きさを感じさせる。
相手が名乗った以上はヤト達も名乗り、カイルがこの城に招かれる発端となった像を差し出して謝罪した。
「話は早波から聞いとるけえ。取っちまったもんは元に戻せばええが、手癖が悪いのに仕置きは必要じゃのう」
牙を見せてニカっと笑う大渡津神の追求で、カイルは言葉に詰まる。そこらに打ち捨てられた物を拾うなら言い訳も立つが、曲がりなりにも祭壇に安置してある物に手を付けてしまっては言い訳も難しい。
それとなぜ直接顔を合わせていない龍と早波が象の事を知っているか聞くと、離れていても両者や女官達は声を聞けるとの事だ。
ただ、それで話が纏まるほど、ロスタは素直で従順では無かった。
「本当に大事なら後生大事にしまっておくのが危機管理。わざと取らせるつもりで置いておいたのなら底意地が悪いと言わせていただきます」
「ほーカラクリ仕掛けが言いおるなあ。まあちょっとした言葉遊びやけん、そう心配せんでええ」
ロスタの棘のある言葉も飄々と流す。むしろ彼女の忠誠心を高く評価している節さえ感じられた。
大渡津神は愉快そうに瓶に残っていた酒を飲み干して、女官に代わりの酒を要求してから、今度は膳を全て平らげたクシナに目を留める。
さらにそこから隣のヤトに目を向けて、二人を交互に見定めてから、体をくねらせて豪快に笑い飛ばした。
「久しぶりに同族を見たのう。しかも腕を一本分けるほど『ぞっこん』はそうおらん」
「なんだ悪いか?酒の余興で殴り合いならしてやろうか」
「待て待て、嬢ちゃん。気ぃ悪くしたら頭下げるけえ。単にそこまで入れ込める相手がおるのが我は羨ましいんじゃ」
威嚇するクシナに素直に頭を下げたので、彼女はひとまず怒りを鎮めた。
そして大渡津神は明らかに陰気を飛ばし始めて、女官が新しく持って来た酒を一息で飲んで身体をゴロゴロと転がし始めた。
「我もなー、そげな番がいたらなー。城の女共は捧げものに受け取ったが、対等の番がなー」
唐突に不貞腐れてゴロゴロ転がる様に龍としての威厳は微塵も無い。ただあるのは草臥れた独り身中年の情けない面倒臭さだけだった。
捧げものというのが、ヤトがどういう事か給仕をしていた『灘』と名乗った女官に聞くと、素直に答えてくれた。
「城の者は全員が数十年おきに、供物として差し出された塩原の一族です。そして主から鱗を一枚分け与えられて、永くお傍に仕える身となりました」
「では、彼方達は全員生まれは人類種ですか」
「はい。人魚の姿は主の血肉の影響でしょう。海で過ごすにはそちらの方が便利ですから、主には感謝しています」
実は古来よりこの翁海に住んでいたのは大渡津神だったらしい。そこに後から塩原の一族の祖先が定住した。
塩原一族は大渡津神に契約を持ち掛け、数十年に一度生贄を差し出す代わりに、領海内のサメのような人喰い魚を追い払う庇護の契約を結んだ。
おかげで翁海は安全に漁が出来る、葦原有数の豊富な漁場として富をもたらし続けている。
いわば城の女達は全員が親族で、生涯を海龍と共に生き続ける家族の関係にあった。
ヤトと女官が話しているのに乗る形で、大渡津神は不貞腐れた態度のまま酒瓶を片手にベラベラと身の上話を始める。
要約すると、本当は鮫を追い払う見返りには話し相手が欲しかっただけなのに、人間が勝手に生贄を用意したので仕方なく受け取ったのが事の始まりだった。
海の生活は不便だから生贄の女には自分の鱗を一枚与えて、海でも生きられるようにした。すると甲斐甲斐しく世話をしてくれるから、自堕落な生活が気に入って、そのまま千年近く生贄を貰い続けて今に至る。
生まれてからずっと食っちゃ寝生活を満喫していたクシナといい勝負である。竜とはなまじ長すぎる寿命と最強の力を持つと、目的意識も無くダラダラと生き続けてしまうらしい。
そこでヤトは一つ疑問が生じた。自分はクシナから腕一本貰い、肉体強化こそあったが外見の変化は無い。対して大渡津神から鱗一枚与えられた女達は著しく姿が変わった。この違いは一体どのような理由なのか。
あるいは互いに命を賭した繋がりを結ばなかったからだろうか。捧げものとして主従関係を結ぶのと、互いを対等に思い殺し合った末に愛を育む。そうした特異な関係ゆえに差が生じた。あくまで主観にもとづく仮説でしかないが。
嫁のクシナに聞いても答えは返ってこない。なら酔っ払い龍に聞いても知らないとしか口にしない。そこで大渡津神は「ただ――」と続く。
「我と嬢ちゃんの一番の違いは神降ろしをしたかどうかだのう。お嬢ちゃんはまだ神に身体を貸しとらんじゃろ」
「神降ろしというと神に仕える神官が行う儀式のことですか?」
「似たようなもんじゃの。我等古龍は神が一時的に地上で遊ぶための器でもある。そして身体を貸す代わりに神の力を一部貰うんよ」
古竜の異名の中には『神の憑代』という呼称があり、時には竜と神は同列に扱われる事もある。大渡津神の言うように神の憑代として使われるのなら、色々と納得のいく異名である。
一部とはいえ対価に貰った神の力は絶大で、憑依の前後では倍以上の差があるらしい。ヤトと人魚達の差はこの部分にあるかもしれない。
と言ってもクシナはそんな力など求めていないし、実際に竜に神が降りて来るかは単純な確率らしいので、無駄にならない程度の知識の域を出ない。宴会の酒の肴程度に聞いておく程度だ。
それから宴会はそこそこ盛り上がった。基本引き籠りの大渡津神はヤト達の冒険譚を大層気に入り、一昼夜を超えて三日もの間、話を聞き続けた。その間は据え膳上げ膳、禁裏や塩原の屋敷にも劣らぬ待遇を受けたので悪くは無かったが、変化の無い海の底では些か飽きも来ていた。
退屈が首をもたげた四日目の朝。ヤトが地上に帰る旨を伝えると、大渡津神は大層寂しがった。
「そうかぁ、寂しくなるのう。ほんならこれまで楽しませてくれたから、像に手を付けた落とし前は少し負けてやるわい」
「げっ、まだ覚えてたんだ」
「当然じゃ。それはそれ、これはこれ」
度量が無いのか厳格なのかは判断しづらいが、ともかく大渡津神はまだカイルが自分の像を持ち出したのを許していない。
「たまにいる盗人のように捕まえてムシャムシャはせんから安心せい。ちょっと海の掃除をしてくれればええ」
つまり何かしらの仕事を代行すれば許すと言う事か。ただ、掃除というのが本当に額面通りの行為なのか怪しい。
「我の代わりに、おんしらは鮫を狩ってきてくれ」
予想通りというか、やはり面倒事の臭いがしていた。
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