第6章 光と影のジンテーゼ

第38話

 帝都ラァル郊外。


 湖を望む山の中腹に、キリアスの軍勢は陣を敷いた。夜、黒々とわだかまる水面に反射する宮城の灯を、キリアスは黙然と眺めていた。


 すでにナヴァド将軍改めダリオン王の率いるフォリーシュ軍は島に渡り、宮城を実効支配している。湖畔に置かれていた警備の軍はキリアス軍の出現を知って終結し、距離を置いて睨み合っている状況だ。


 数だけなら、今ではキリアス軍の方が多い。キリアスが〈始祖の剣〉を手に入れたという噂は瞬く間に広がり、彼を新たな皇帝として支持する地方領主たちがそれぞれ手勢を引き連れて集まってきた。


 主を失って食い詰めた騎士も多く、寄り合い所帯ゆえに指揮系統はバラバラ。話す言葉も違うので、公用語の話せる貴族はともかく徴用されてきた下級兵士たちは友軍との意思疎通も困難である。各人の士気がいかに高かろうと、これでは複雑な作戦など立てられない。


 一方、フォリーシュ軍は数こそ劣るものの非常に統制が取れている。正体を隠し、傭兵隊長として雇われたナヴァドは弱小だったフォリーシュ軍を精鋭揃いに鍛え上げた。


 むろん、軍を味方につけて王位奪還を計るという計画の一環ではあったろう。しかし、死餓鬼による損害を受けずに済んだ唯一の国王軍として、結果的に八葉州で最も統制の取れた軍隊となったのである。


「数を頼れば自滅か」


 呟いたキリアスに、並んで湖面を眺めていたナイトハルトが苦笑した。


「頼る気なんて最初からないでしょう。この戦いは、煎じ詰めればあなたとダリオン王との個人的な喧嘩みたいなものです。〈始祖の剣〉を手に入れ、竜に認められたあなたの登極を阻む唯一の存在、ダリオンを倒せばそれでいい。無駄な人死には出さないでいただきたいものです」


「わかってるよ」


 キリアスは左目を覆っている眼帯をずらし、湖上の宮殿をじっと見つめた。


 ラァル湖は大小合わせて五つの湖から成っている。その中で最大の湖の最大の島に、宮城は鎮座していた。島は中央よりもやや岸に寄った位置にあって、湖岸とは三本の堤道で繋がっている。


 宮殿島の周囲には三つの小さな島があり、それぞれ離宮や神殿として使われている。これらの島には舟でしか行かれない。


 宮殿島と湖岸を結ぶ堤道はフォリーシュ軍に押さえられ、厳重に警備されている。


「……夜になっても警備はたいして減らないな。用心深いことだ」


「見えるんですか? こんなに暗くて遠いのに」

「見ようと思えば何とか。片目だけなんで、あんまり凝視すると眩暈がしてくる」


 キリアスは眼帯を戻した。ナイトハルトが用意してくれた黒い眼帯は細かい網目状になっていて内側からは普通に見ることができる。


 本当は鬱陶しいから着けたくないのだが、女神がくれた竜眼は見る人に畏怖を与えると同時に魅惑もしてしまうようで、晒していると何かと面倒なのだ。


「できるだけ衝突は避けたいんだよな……。こんな状態で戦っても損害を出すばかりだ」

「烏合の衆にも使い道はありますよ。いい囮になる」


 ナイトハルトはニヤリとした。


「要はあなたがダリオンを倒せばいいんですから。フォリーシュ軍の士気は彼の存在に依存している。彼が斃れればたやすくパニック状態に陥るでしょう。カリスマ的支配は存外に脆いものです」


 そこへ、ひとりの騎士が走ってくる。


「キリアス殿下、カドルーどのが戻ってこられました!」


 その後ろから懐かしい姿が飄然と現れる。


「カドルー! 無事だったんだな」

「お蔭様で──、あれっ、どうしたんですか、その目!?」


「大丈夫だ、後で話す。それよりアーシファは? 見つかったのか」

「姫様はご無事です。えー、その~。と、ともかく命に別状はありませんっ」


 何となく奥歯にものが挟まったような言い方に眉をひそめる。ナイトハルトに促されて本陣のテントに戻り、報告を聞いてキリアスは激怒した。


「あの野郎、よくもアーシファに不埒な真似を! 絶対許さん……!」


「無理に手籠めにしたわけじゃないみたいですけどね~」

「アーシファは記憶をなくしてるんだろ。弱みにつけ込みやがって、卑怯な奴め!」


「まぁまぁ。無事でおられたんだからいいじゃないですか。姫君だって年端もいかない幼子じゃない。事実、脱走したとはいえシャルの王子と結婚式を上げたでしょ」


 息巻くキリアスをナイトハルトがなだめる。


「あいつはまだ十七だ! 結婚だってまだ早い!」

「そうかなぁ。王族の姫様がたは早々と結婚するもんでしょ?」


 首をひねるカドルーをキリアスは睨み付けた。


「おまえあの野郎の肩を持つのか!?」


「そういうわけじゃありませんけど。ダリオン王は姫様が気に入って、大事にしてるみたいですよ? 周囲の者はすっかり姫様を奥方扱いだ。それもあって、宮城の廷臣たちもあの人を侵入者扱いできないでいるわけですが」


 ナイトハルトは顎を撫で、考え深げに呟いた。


「皇家最後の姫を愛妾にしていてはね。そう無下には扱えない。近衛軍も戸惑うでしょう」


「くそっ、アーシファを利用しやがって。あいつ、まだ記憶喪失のままなのか?」

「わかりません。警護が厳重で、一度しか接触できなかったもんですから」


「生まれ育った宮城に戻ればおいおい思い出されますよ。──それよりカドルー、おまえ身元はバレてないんだろうな」


「ああ。フォリーシュ軍は徴用兵がメインだが、傭兵部隊も若干いる。そこに潜り込んだ。今は偵察任務を仰せつかっていてね、適当に報告しとくよ」


「怪しまれないよう正直に報告しろ。こっちが寄せ集めなのは向こうも承知のはず」


 キリアスに向かって真面目な顔でカドルーは頷いた。


「そうですね。過小評価させときましょう。──ところで若君、その目はどうなされたんです? 〈始祖の剣〉は手に入れたんですか」


 今度はキリアスが別れてからの出来事を話している間、ナイトハルトは何やら考え込んでいた。剣を見せてもらったカドルーは満足そうに頷いた。


「あんたなら絶対やり遂げるって思ってましたよ。見込んだとおりだ。なぁ、ハル」


「ああ、まぁな……。それよりキリアス様、そっちの目、真っ暗闇でも見えますか」

「だいたいな」


「いい作戦でも浮かんだか?」


「損害を最小に抑えて最大の成果を得るというのが、商売に限らず物事の基本です。こんな大所帯を長々維持しては費用も嵩む。あの美しい宮城を無粋な戦いで損壊するのも忍びない。先ほども言いましたが、要はあなたがダリオンに勝てばいいんですよ、キリアス様」


 不吉なほど爽やかに、ナイトハルトは笑った。




 リコリスは湖を望むバルコニーに佇み、ぼんやりと夜風に吹かれていた。皇家の住まいである帝都ラァルの宮城。ここが自分の生まれ育った場所なのだと教えられても、全然ピンと来ない。


 フォリーシュを出たダリオンはつつがなく進軍し、予定どおりの日程で帝都ラァルに入った。すでに帝都は先遣隊によって押さえられていたので、混乱も衝突もなかった。湖面に設けられた広々とした堤道を、リコリスはダリオンのすぐ側に馬を連ねて通過した。


 不思議な感慨があった。自分は確かにこの風景を見知っている。だがそれと具体的な記憶が結びつかない。まるで切り取られた絵を眺めているようにも思えてしまう。


 皇族の住居である後宮に連れて来られると、さらに戸惑うことが待ち構えていた。使用人が自分をアーシファ姫と呼び、無事を喜んで涙にくれているのだ。


 カドルーという男の言ったことは本当だった。未だに思い出せないが、自分は皇家の姫君だったのだ。


 記憶を失っていることを知ると、召使たちはますますリコリスを不憫がって色々なことを教えてくれた。父のこと、母のこと。シャルの王子パジーズと結婚させられそうになったこと。不思議な動物を身代わりにして出奔したこと。


 だが、召使たちにはっきりわかるのはそこまでだ。姿を消したアーシファ姫は縁のあるヴァストに逃げ込んだらしい。


 そのヴァストは『恐ろしき新月』に死餓鬼の大群に襲われ、他国同様滅亡した。宮城では、てっきりアーシファも巻き込まれて死んだものと思っていたという。


 記憶が戻らないのでリコリスにも説明はできなかった。ジャリードからフォリーシュへ向かう行軍中のテントで目覚めてからのことしか覚えていないのだ。


 それでいいと、もう思っている。譬え自分がアーシファ姫でも、リコリスとして生きると決めた。少なくとも、どこの誰だかわからないという不安はなくなった。皇家の姫であれば、ダリオンの側にいても誰からも文句は出ないはず。

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