第37話
ダリオンの側にいられれば不安は薄らいだ。だが、帝都に登る彼についていけば、記憶を取り戻すだろうと彼は言う。
ダリオンは自分の素性をすでに把握しているようだ。昨夜は名前を教えてくれようとした。今からだって訊けば教えてくれるはず。
でも聞きたくなかった。知りたくない。思い出せばきっと彼の側にはいられなくなってしまう。そんな苦い確信がある。
思い出すのも怖いけれど、離れているのはもっと怖い。片時も側を離れたくなかった。一度別れたら、永遠に会えなくなってしまいそうで……。
「……姫様。姫様」
どこからか抑えた低声がして、リコリスはハッと顔を上げた。そんなふうに呼びかける人間は周囲にいないのに、何故だか自分のことだと直感した。
「誰……?」
「しっ、大声出さないで。──俺です、カドルーですよ」
「カドルー……?」
いぶかしげに呟くと、しばしの沈黙を挟んで溜息が聞こえた。どうやら背後の茂みに男が隠れているらしい。
「やれやれ。記憶喪失ってのは本当みたいだ。参ったな」
「わたしを知ってるの?」
「知ってるも何も。一緒に旅した仲間じゃないですか。キリアス様の代わりにあんたを探しに来たんですよ。本当に何にも覚えてないんですか」
「キリアス……」
口の中で呟く。ひどくもやもやした気分だ。誰かの面影が浮かんだような気がしたが、とりとめもなく分解してしまった。
「思い出してくださいよ。キリアス様は姫様にとって家族のようなお人じゃないですか。忘れるなんてあんまりだ」
「思い出せないわ。わたし……、自分のこともわからないの」
「あんたはアーシファ姫。皇家最後の姫君だ。しっかりしてください」
アーシファ。悪夢の中、美しい女の生首が囁いた言葉が重なり合う。アーシファ……。
リコリスは真っ青になって冷える指先を握り込んだ。気付かずカドルーと名乗る男は言葉を継いだ。
「ナヴァド将軍、いや今はダリオン王か。あいつに囲われちまって、なかなか近づけなくて難儀しましたよ。帝都へ登る準備でバタバタしてる今がチャンスです。さっさとここを出ましょう。なに、キリアス様の顔を見ればすぐに思い出しますって。気にしなくて大丈夫ですよ。記憶を失って無理強いされただけなんだから、キリアス様が怒ったりするもんか。心配しないで、ね?」
「わ、わたし何も無理強いなんてされてません! 変なこと言わないで」
慌てて言い返すと男は黙り込んだ。
「……進んで奴の愛人になったって言うんですか? まさか、あいつのことが好きだなんて言わないでしょうね」
リコリスは唇を噛み、沈黙を持って答えた。やがて茂みの中から溜息が聞こえてきた。
「本気ですか、参ったな……。奴がどういう人間か、忘れちまったんですね」
「酷いことをしてるって言うんでしょ。いっぱい人を殺して……。し、知ってるわよ、それくらい」
「人を殺すどころか、死んだ人間まで叩き起こしてこき使うような奴なんですよ? 今はあんたを可愛がってるかもしれないが、どんなことで不興を買って殺されるかわかったもんじゃない。──ね、姫様。さっさと逃げましょう。キリアス様が心配してる。新たな皇帝になるのはキリアス様だ。あんただってそれを望んでたじゃないですか」
「キリアス……は〈竜の宝珠〉を持ってるの……?」
「三つ手に入れました。数の問題じゃないですよ。新たな竜帝は絶対キリアス様です」
リコリスは茫然とした。昨夜ダリオンは言っていた。帝都で残り三つの宝珠を持つ者が現れるのを待つ、と。その人がキリアス。自分にとって『家族のような人』。それをダリオンは殺そうとしている。
さっきからしくしく痛み始めていた頭が、ガンガンと鳴り響く。リコリスはきつく眉根を寄せ、こめかみを押さえた。
「キリアス様は〈始祖の剣〉を探しに行きました。あの人は絶対手に入れますよ。〈竜の申し子〉はダリオンじゃない。キリアス様です」
「やめて……」
弱々しくリコリスは喘いだ。だがその囁きはカドゥルーには届かなかったらしい。
「アーシファ様。今のあんたは混乱してるだけだ。思い出せばすっきりする。悪い夢を見たと思って忘れられますよ。あんたのいるべき場所はここじゃない。キリアス様の側にいてあげないと──」
唐突にカドルーが言葉を切る。力一杯槌で叩かれるような激しい頭痛に襲われ、リコリスは頭を抱えて呻いた。その肩を大きな掌が包んだ。
「どうした、リコリス。顔色が悪いぞ。真っ青だ」
「ダリオン……。あ、頭が痛いの。割れそうに痛い……」
ダリオンは急いでリコリスの身体を抱き上げた。大股に歩きだしたかと思うと不意に足を止める。無言で背後を振り向いた男の首に腕を回し、弱々しく縋り付く。ダリオンは思い直したようにリコリスのこめかみに顎を寄せ、ぐったりした身体を抱え直した。
無人になった庭園で、茂みの葉が安堵したように揺れた。
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