Bitter Moon V

第36話

 奇妙な胸騒ぎで目覚めた。


 手を伸ばしても、そこにあるべきぬくもりに触れない。リコリスはハッと起き上がり、手探りでランプを点けた。


 昨夜一緒に眠りに就いたナヴァドの姿がない。シーツは冷えきっており、大分前に床を離れたことを示していた。


 喉元に迫り上がる不安を押し殺して寝台から降りる。


 窓辺に歩み寄り、目を瞠った。遠くで灯がきらめいている。慌ててバルコニーに出ると、フォリーシュの王族が住む居館の辺りで、大量の松明が蠢いていた。


 不穏な夜風が髪を揺らす。リコリスは闇の中に茫然と立ち尽くした。




 眠れない夜が明けてもナヴァドは戻って来なかった。


 気がつけば、警護の兵が増えていた。彼らに尋ねても、『将軍から直にお話があるはずです』と言うだけだ。少なくともナヴァドの身に何かあったわけではないようだとリコリスは安堵した。


 不安そうにしていた使用人たちは、やがて事態を把握すると片言の公用語に身振り手振りを交えて教えてくれた。


 雇われ将軍であったナヴァドが国軍を従えて決起したのだと言う。


 彼はフォリーシュの国王と王太后を殺し、自ら王座に就いた。彼は先王の遺児であり、正当な王位継承者だと宣言した。フェネアンと王太后リュゼはこともあろうに先王を弑逆した、悪辣なる王位簒奪者だったのである。


 わずかな親兵を除いて軍部はすべてナヴァドに従った。今やフォリーシュは名実ともにナヴァドの国だ。


 彼は国政の実権を握っていた王太后の佞臣たちを根こそぎ粛清した。そうして空いた要職に、諫言・苦言を呈したために疎んじられ、遠ざけられていた者たちを呼び戻した。


 政変に伴う混乱はほとんどなかった。ナヴァドは用心深く周到に準備を進めていた。ずっと以前からの計画だったのだ。


 ナヴァドがリコリスの元へ戻ってきたのは、政変から五日も過ぎた夜半のことだった。開け放した窓から射し込む月明かりの中でまどろんでいると、温かな気配が頬に触れた。リコリスは飛び起きてナヴァドに抱きついた。


「捨てられたのかと思った……!」

「すまん。色々と忙しくてな」


 大きな掌で背を撫でられ、ようやく安堵する。


「……謀叛を起こしたって本当なの」

「謀叛ではない。俺は先代フォリーシュ王の嫡男だ。不当に奪われていた権利をようやく取り戻した」


「どういうことなの。話して」


 ナヴァドは座り直し、どう話そうか考え込むようにしばらく黙っていた。


「俺の本来の名はダリオンという。父は先代フォリーシュ王ロトゥス。母はその第二妃だった。第二妃といっても、最初に輿入れしたのは母だ。そこへ政商のバガダ家が娘を妃にしろとねじ込んだ」


「その人が、リュゼ王太后……?」


「そうだ。父はバガダ家から莫大な借金をしていて断れなかった。しかもバガダ家はリュゼを強引に正妃の座に就けた。だが母も正妻であることに違いはない。父は俺が正嫡であることを示すために俺を正式に王太子として冊立しようとした」


 だが、立太子式を数日後に控えたある日、母子が住む宮殿が炎上したのである。ちょうど国王も来あわせており、親子四人が焼死した。原因は厨房からの失火とされた。宮廷深く食い込んでいた政商バガダ家が手を回し、調査はおざなりに行われただけですぐに打ち切られた。


「父と母は焼死じゃない。毒殺されたんだ。無論バガダ家の差し金だ。それを隠すために放火した」


「でも、ナヴァドは……、ダリオン……は助かったのね」


 おずおずと言い直すと、彼は凄味のある微笑を浮かべた。


「助かったとも言えないな。俺と妹は攫われたんだから。本当は俺たちも殺せと命じられていたようだが、売り飛ばした方が金になると踏んだんだろう。それから後のことは前に話したな」


 リコリスは冷えた指先を握りしめた。幼い兄妹が売られた先は、旅芸人を装った暗殺団。生き延びるためには芸だけでなく、人を殺す技をも身につけなければならなかった。


「……ずっと復讐だけを念じていた。両親を殺し、俺と妹をこんな境遇に落とした奴らを全員殺してやるんだ。そして奪われたものを取り戻す。そのためにはどんなことをしても生き延びると誓った。どんなことをしても──」


 独りごちるように呟いた男の手を、リコリスはそっと包み込んだ。ダリオンはその手をじっと見下ろした。


「触れぬ方がいいぞ、リコリス。俺の両手は血まみれだ。この手でフェネアンとリュゼを殺した。酷い殺し方をした。椅子に縛りつけてすべてを明かしてやると、奴らは醜く命乞いをした。金ならいくらでも出すから殺さないでくれと泣きわめいた」


 乾いた声でダリオンは笑った。


「金は出ないと言ってやったよ。バガダ家の人間は一人残らず殺したからな。奴らは金をばらまいて都市連盟の盟主になり、その地位を独占しようと画策していた。実家の助けが得られないと知ると、王位を譲るから見逃してほしいと言い出した。──譲る、だと? 奴らから譲ってもらうものなど何もない。最初から俺のものなのだからな。せめて『返す』と言えばもう少し楽に死なせてやってもよかったが……。まるでわかっていないみたいだから、両親と同じようにしてやった。無理やり毒を飲ませ、苦しんでのたうち回る奴らを火炙りにした。俺はずっと見ていた。奴らが黒焦げになるのを、ずっと見ていた」


 リコリスはたまらず彼を抱きしめた。無反応に身を委ねていたダリオンが呟く。


「俺は血の匂いがするだろう? リコリス。血と炎と、腐肉の匂いが鼻について消えない」


 激しく首を振る。すでに身を清めた彼の身体からはそんなものは匂ってこない。それでも幻のように死が香っていた。リコリスは伸び上がってダリオンに口づけた。


「……あなたの手がきれいだなんて、そんな気休めは言わない。でも、あなたの手は温かい。わたしに触れるあなたの手は、いつも優しくて温かいの。わたしはそれでいい。それだけでいいの……」


 ダリオンの目許がゆがむ。胸元に抱きしめ、彼は吐き出すように囁いた。


「リコリス……! 何故俺を突き放さない。同情など俺はいらないぞ」

「わたしはただ、あなたの側にいたいだけ。本当にそれだけでいいのよ。だからお願い、離さないで」


 強く抱きしめられて、溜息がこぼれる。この胸で感じる安堵を失いたくなかった。


「──リコリス。俺はこれから帝都へ登る」


「うん……。八葉州の新しい皇帝になるんでしょ。皆そう言ってる。ナヴァド……ダリオンが新しい皇家を興すんだって。新しい王たちに渡すために〈竜の宝珠〉という宝物を集めているのよね?」


「俺が持っている宝珠は五個だけだ。残り三つを持つ者を帝都で待つ。必ず奴は来る」


 言い方が気になって、ダリオンを見上げた。


「その人、味方じゃないの?」

「宿敵だよ。今度会えばどちらかが死ぬことになる」


 リコリスは目を見開き、縋るように男を見つめた。なだめるように頬を撫で、ダリオンは囁いた。


「おまえはここに残れ」

「!? いやっ……、どうして!? 一緒に行きたい!」


「おまえを帝都に連れていきたくない。ラァルに行けばきっと……思い出す」

「思い出す……?」


 ハッとリコリスは息を呑んだ。


「──わたしが誰だか知ってるの!?」

「ああ、知っている。名を、教えてやろうか。おまえの名は──」


「やめて!」


 耳を塞いで叫ぶ。リコリスは激しく首を振った。


「聞きたくない。知りたくないよ。わたしはリコリスだもん! リコリスでいいの。リコリスがいい……!」


 耳を塞いだ手を、そっとダリオンが取る。涙を浮かべ、リコリスは囁いた。


「お願い……。あなたのリコリスでいさせて」


 逞しい身体を抱きしめ、胸に顔を埋める。


「……忘れるわ。過去なんていらない。ずっとリコリスでいるから……、離さないで」


 眉根を寄せて見つめていたダリオンが、静かに唇を重ねた。移ろいゆく月影が、求め合うふたりを包んでいた。




 翌日、リコリスは王宮の庭園にいた。美しい花々が咲き乱れ、庭木の差し伸べる枝が涼しい陰を作り出す。平穏そのものの光景だ。


 付き添いの侍女や警護の兵は少し距離を置いて待機しており、リコリスは一人ベンチに座ってぼんやりしていた。


 事態の転回があまりに急だったせいか、何だか妙に非現実的な気分だ。


 ただ、ひとりの軍人の恋人になっただけのつもりが、気付けば一国の王の愛妾である。さらにダリオンは帝位を目指している。ただ彼の側にいたいだけなのに、日毎に不安が増していく。


 記憶がないゆえの不安は、記憶を取り戻してしまうのではないかという逆説的な不安に変わり、リコリスを苛んでいる。

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