第35話
キリアスは剣を構え直した。先ほどあれほど酷く痛めつけられたというのに、恐怖心をまるで感じない。感覚が麻痺してしまったのだろうか。反対に頭は妙にすっきりと冴え、今までになく視界がクリアだった。さっきよりも相手の動きが明確に捉えられる。
(竜の動作が鈍くなった……わけじゃないよな)
惨敗したとはいえ、さっきの一線で多少は慣れたのだろうか。相手の攻撃を躱して前肢に斬りつけることに成功する。手応えはあったが傷はつかない。避ける間もなく翼で吹き飛ばされた。
(斬ってもだめだ。鱗で滑る。どこか、隙間に突き立てられれば……)
だが、重なり合った鱗は玻璃のさざめくような妙音をたてるばかりでどこにも隙間が見当たらない。透きとおった翼が閃き、キリアスの上半身を軽く薙いだ。すっぱりと服ごと切り裂かれて血が噴き出した。
「……今度は出血多量で殺す気か」
「心配するな、また生き返らせてやる」
「言っただろうが、いつまでも遊んでる暇はねぇんだよ!」
突き立てた剣が弾き返される。竜は無造作に前肢を振るった。衝撃と激痛が頭部に走り、血飛沫が上がる。たまらず絶叫した。高々と振り上げられた竜の爪に己の眼球が引っかかっているのが見えた。左目が燃えるように熱い。押さえた指の間からどくどくと血が溢れだして顔面を染める。
竜は口を開け、キリアスの左目を呑み込んだ。優雅に、残酷に、女神は笑った。
「視界が半分になってしまったな。降参したいなら許可してやるぞ?」
「まだ見えてらぁっ」
キリアスは血まみれの手で剣を握り直し、竜に立ち向かった。反撃は容赦なかった。幾度となくキリアスは床に叩きつけられ、そのたびに傷は増えておびただしい血を流した。骨は折らないと竜は言ったが、固い床に激突した衝撃で右腕が折れ、剣を持てなくなってしまう。
ふらふらと立ち上がり、左手で剣を下げて激しく喘ぐ。竜は不思議そうに首を傾げた。
「何故そんなになってまで立ち上がろうとする? 利き手でない片手だけではろくな力も入らぬではないか」
「へ……、俺は左手も結構使えるんだよ。師匠に鍛えられたお蔭でな」
在りし日のギドウの面影が脳裏をよぎる。右手を封じられ、片腕だけで幾度となく闘わされた。それがこんなところで役にたつとは。
(師匠のためにも負けられない)
ギドウは確かに叔母の件でキリアスの父を恨んだだろう。日常に浸りきって満足していた自分に腹をたてもしただろう。心に秘めたその影を引きずり出し、肥大させ、彼自身を破滅させたナヴァド。きっと奴は多くの人に同じことをしているはずだ。人が自分の影に呑まれ、やがて世界も影に呑まれる。それを放ってはいられない。
「……帰るぞ、俺は。あんたと遊んでる場合じゃないんでね」
キリアスは左手だけで剣を構えた。〈目覚め〉は手の延長のようにぴたりと静止した。この剣は生きているのだと実感した。
(俺たちは一心同体だったんだなぁ……。悪い、もっと早く探しに行くべきだった)
一緒に地上へ戻ろう。俺たちにはやることがある。そうだよな……?
まっすぐに竜を凝視する。その長い首の付け根に、何かを感じた。凛、と刃が鳴る。無意識のうちにキリアスは踏み出していた。竜の強力な前肢をかいくぐり、打ち下ろされる翼の烈風をすり抜ける。目には見えないほどの隙間に、切っ先を突き立てた。残った力を振り絞って押し込むと、刃は固い大地を抉るように竜の体に鍔まで埋まった。
力任せに引き抜くと、熱い血飛沫が全身にかかった。真っ赤に染まった視界で女神が囁いた。
「褒美に妾の目を遣ろう」
眼窩で竜の血が沸騰する。全身が息もできないほどの激痛に襲われた。晴れ晴れと女神が笑ってキリアスの身体を突き倒した。ばしゃん、と水音が上がる。
気がつけば澄んだ水の中にいた。水を跳ね散らかし、起き上がって茫然とした。両眼が見えている。交互に瞬きしていると、すぐ目の前で女神が笑った。神々しい裸身を晒した女神は、キリアスの顔を掴んで有無を言わせず口づけた。そのまま水の中に押し倒され、深く沈んでゆく。
(溺れ……っ!? あ……、苦しくない……?)
口づけながら女神が笑う。その美しい肩に手を伸ばし、すべらかな背を抱いた。女神は身を起こし、軽く頭を振った。滴った雫は水晶のかけらになって床で涼しい音をたてた。
身体の上に馬乗りになった女神が目を細めて笑った。黒と金の竜の瞳が、今は恐ろしく感じられない。気がつけば先ほど目覚めたのと同じ寝台に横たわっていた。女神は絶大な力を秘めた繊手をそっとキリアスの胸に這わせた。
そこにあった真珠色の鱗は、完全に皮膚と融合している。そしてキリアスは気付いた。
「……この鱗を剥がした跡だったのか」
わずかに見えた『隙間』。それは女神がキリアスの命をこの肉体に封じるために与えた鱗の生えていた場所だった。女神は軽く首を傾げて笑い、身を屈めて自分の与えた鱗に口づけた。
「他に隙などあるわけない。そなたには理解できまいが、妾は妾なりにこの世界を慈しんでいるのだ。人間は小さきもので、時に煩わしいが、それでも愛しいと思っている。妾はこの世界の母であるゆえにな。見捨てることは難しい」
「あんたを傷つけた……」
「傷ではない。母が子を生みだす時に流す血を、傷とは呼ばぬ」
女神は笑い、ふたたびキリアスに口づけた。
「……俺、あんたの子になったのか?」
「〈竜の申し子〉と言うであろうが」
くすくすと笑う艶やかな声が心地よい。キリアスは急にうろたえて赤面した。
「あの……、どいてもらえませんかね? 親子でこれは、ちょっとまずいでしょ」
女神は一糸まとわぬ姿で、全裸のキリアスの上に跨がっているのである。視線を下げた女神は先刻承知とばかりににんまりした。
「遠慮はいらぬ。潔く神に初物を捧げるがよいぞ」
「え、ちょっ……!」
抵抗は、もちろん無駄だった。ご満悦の女神にぎゅうと抱きつかれ、キリアスはげっそりと嘆息した。
「俺、三回くらい死んだ気がする……」
「人間にはなかなかできぬ経験ではないか」
くっくと笑い、女神は身を起こした。服を着て──ボロボロになったはずの服は何故か新品同様で──、キリアスは女神に手を取られて回廊の端に出た。片手には〈目覚め〉を抜き身のまま下げている。
「本当に帰ってしまうのか? 残念だ。もっとそなたと愛し合いたいぞ」
「いや、正直身が持たないんで。遠慮します」
大真面目にキリアスは答えた。女神は寂しそうに溜息をついた。
「人間は儚いのぅ。そこがまた愛しいのだが」
名残惜しげに濃厚な接吻を与え、女神はキリアスの胸に両手を置いた。
「では、達者に暮せ」
にっこりと笑い、女神は笑顔のまま思いっきりキリアスを突き飛ばした。虚空を落下しながらキリアスは叫んだ。
「送ってくれるんじゃないのかよーっ」
「そなたは〈竜の申し子〉であろ?」
女神の笑みを含んだ声が、すぐ耳元で囁いた。
落雷の如き大音響と震動に、眠り込んでいたナイトハルトたち一行は飛び起きた。キリアスがいないことを知り、全員が音のした場所へ駆けつける。夜明けだった。元々大地震で大きく崩れていた神殿の一角は、完全に崩壊していた。
舞い上がっていた土埃がようやく収まり、人影が現れる。反射的に剣に手を伸ばした騎士たちは、それがキリアスだとわかって緊張を解いた。
「……ったく。とんでもない女神様だ。もう二度と関わりたくないぞ」
ぶつくさ言いながら歩いてきたキリアスは、茫然と立ち尽くしている一行に気付いて足を止めた。
「やっと起きたか。──あ? いつのまに夜が明けたんだ。っていうか、俺どれくらい消えてた?」
「物凄い音がしてさっき起きたばかりで……」
ナイトハルトは言葉を切り、まじまじと主を見た。「ん?」と見返すと何故か慌てて目を逸らしてしまう。他の騎士たちも同様だ。キリアスはムッとした。
「何で皆目を逸らすんだ」
「ど、どうしたんですか、その目は!? 変ですよ!?」
キリアスは思い出して左目に手をやった。
「……そういや竜に喰われたっけ」
「竜!? 喰われた!?」
「でも元に戻してくれたぞ?」
「戻ってません! それ、人間の目じゃないですよ!?」
荷物をひっくり返して探し出した小さな鏡を差し出され、覗き込んだキリアスは愕然と叫んだ。
「何だこれはっ」
竜の女神が再生してくれた瞳には、黒い光彩と縦に長い金色の瞳孔があった。女神と同じ瞳である。
(そういえば、『妾の目をやろう』と言ってたよーな……)
「元々キリアス様の目は黒かったからまぁいいとして、その縦長の瞳孔は人間離れしすぎてますね……。何というか、ちょっと直視できません」
怖くて、とナイトハルトは首をすくめた。騎士たちも一様に頷く。ひとりの騎士がおずおず尋ねた。
「殿下……。それ、見えてるんですよね?」
「普通に見えるぞ。何の違和感もないし」
目を向けると、騎士は『ひぃ』と喉を鳴らし、視線を遮るように片手をたてて顔をそむけてしまう。キリアスは憮然とした。
「……そんなに怖いか? 猫だって昼間は瞳孔縦だろーが」
「全然違います! だってそれ竜の瞳なんでしょう!?」
「そういや俺も最初は直視できなかったな……」
「一目で〈竜の申し子〉だとわかるのはいいとして、何というか、こっちが落ち着かない。仕方ない、眼帯を用意しましょう」
「見えてんだぞ。眼帯なんぞ鬱陶しい」
「とにかくこっちから見えないようにしていただきます!」
ナイトハルトが珍しくこめかみに青筋をたてて怒鳴る。キリアスは肩をすくめ、しぶしぶながら『わかった』と頷いた。
〈始祖の剣〉を手に入れ、片目が竜になったキリアスが〈竜の申し子〉であることは誰も疑い得ない。従っていた騎士たちは改めてキリアスに忠誠を誓った。
一行は急ぎイシュカの神殿に戻った。そこで待ち受けていたのは思いも寄らない事態──フォリーシュで政変が起きたという知らせだった。
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