第34話
「そりゃどーも」
低く唸り、キリアスは攻撃を再開した。
切っ先が届かないのは剣のせいではない。むしろ手にしたばかりなのにしっくりとなじむ。まるで長年使い込んだ愛用の品みたいだ。
ずっとこの剣を使っていたかのような錯覚を覚えた。出会ったばかりなのに『
この剣に〈力〉があることはわかっているのだ。それを発揮できないのはひとえに自分の未熟さゆえ。女神に翻弄されて、ひしひしとそれを感じる。
(どうすればいい……!?)
焦りが生まれた。素晴らしい武器を手にしながら使いこなせないもどかしさ。それを意識すればするほど、攻撃の精度が落ちてゆく。墜落の螺旋に嵌まりかけている。
女神の表情は次第に退屈そうになり、やがてうんざりしたように溜息をついた。
「つまらぬなぁ。繋がりが途切れて〈目覚め〉が嘆いておるぞ。それもわからぬか? ならば強制的に叩き起こしてやろう。逃げ回るのも飽いたゆえ」
いきなり目の前に圧倒的な美貌が迫る。瞬きする間もなく懐に飛び込まれていた。腹に重い衝撃が走る。腹腔に膝蹴りが食い込んでいた。
「ぐ……っ!!」
前屈みになってよろけるところに回し蹴りを叩き込まれる。女神は水晶の鈴を転がすように笑った。
「地上でそなたたちが憐れな死餓鬼を葬る遣り方を真似てみようか。――まずは腕」
ボグッと鈍い音がして左の上腕骨が折れた。次いで右の撓骨。指から滑り落ちそうになる剣を必死に握りしめる。だがもう振るうことはできない。ただ下げているのがやっとだ。
女神はしっかりと腕組みをしたまま軽業師のように舞った。涼やかな笑い声が耳鳴りの中に響く。
「次は脚」
大腿骨を両脚ともに折られて床に転がる。女神はご丁寧にも腓骨と足骨まで砕いてくれた。激痛で声も出せない。
曇りかけた視界に鮮やかな麗姿が浮かんだ。
最後の、衝撃。女神が優しく囁いた。
「最後に首だ」
唇を突いて血が噴き出した。女神が眉を垂れる。
「おお、済まぬ。つい肋骨まで折ってしまった。肺に刺さったな」
詫びながら女神は笑っていた。金色の目が生き生きと輝いている。美しいとキリアスは思った。自分を殺した仮借無き存在に、ただ圧倒されていた。
「オキロ! ニンゲン!」
ばしんと額を叩かれてキリアスは飛び上がった。いつのまにか広々とした寝台に横たわっていた。円柱の建ち並んだ部屋は寝台の他に何もなく、柱の間に渡された
すぐ側に、例の一つ目女がぺたりと座り込んでいた。
「メ、サメタカ? ネボケテイルカ? マタミズヲカケヨウカ?」
立ち上がろうとする一つ目の腕を慌てて掴む。
「待て! もう水はいい」
怒鳴って我に返った。折られたはずの腕が、何ともない。首や胸に触れてみても、何の異常も痛みもなかった。脚を確認しようとして全裸であることに気付いた。
「……何で裸なんだ、俺」
「フク、ヌレテタカラカワカシテヤッタ。キタイナラモッテキテヤル」
「おまえが水をぶっかけたんだろうが……。返してくれ、裸で歩く趣味はない」
一つ目は寝台から滑り降りると列柱の間に姿を消した。ほどなくキリアスの服を手に戻ってくる。
「ツイデニセンタクシテヤッタ。アリガタクオモエ」
「どーもありがとよ。──ところで俺、死んだと思ったんだが」
「シンダ! シンダ! ニンゲン、シンダゾ! キャハハハ」
急にテンションを上げて一つ目は叫んだ。
「オモシロカッタ。リュウニモドッタメガミサマ、オマエノシタイケッテアソンダ。イッパイホネオレタ」
「ひ、人の死体を蹴って遊んだだと……!?」
「カゾエタラ、ハチジュッカショ、オレテタ。キャハハ!」
「八十箇所!? そんなに俺の骨を折ったのかっ」
「ダイジョーブ。ニンゲンノホネ、ニヒャッポンクライアル。オレタノハンブンイカ」
「そういう問題じゃねぇっ」
キリアスは頭を抱えた。こいつら絶対おかしい。神様とその眷属なんて、人間が関わってはいけないのだ。
服を着て立ち上がり、全身を点検する。どこも具合は悪くない。ただ、胸の真ん中に真珠色の鱗のようなものがかさぶたのように貼りついていた。
「何だ? これ……」
「ハガストシヌゾ」
キリアスは慌てて爪をたてるのをやめた。前に立った一つ目の鏡の如き瞳に鱗が映る。
「オマエノイノチ、ソレデフウジテル。ハガセバシヌ。カンオケニ、カタアシツッコンダヨウナモノダナ! ハンシニン! ハンシニン! キャハハハハハッ」
「半死人だと!? 笑い事かよッ」
「ダイジョーブ、ソウカンタンニハハガレナイ」
「……俺、やっぱり一回死んだんだな」
「メガミサマノオカゲダ。アリガタクオモエ!」
「へーへー。で、その女神様はいずこにいらっしゃるので?」
「目が覚めたか、少年」
清冽な声に目を上げると、柱の側に女神が立っていた。抜き身の剣を手にしたその姿は、恐ろしくも神々しくて、キリアスはしばらく声も出せなかった。
女神は軽い足取りで歩み寄ると、刀身の真ん中を握って剣を差し出した。
「俺、負けたのに?」
「最初からおまえのものだ。剣が選んだのだからな」
両手で受け取った剣をじっと見つめた。
「……でも俺、使いこなせてない」
「そうでもなかったぞ。妾にのされたことは気にせずともよい。そなたは所詮人間だ。神とは勝負にならぬ」
「でも、あんたに勝たなきゃ地上に戻してくれないんだろ」
にっこりと女神は笑った。
「帰らずともよい。いずれ地上は収まる。それまで妾と楽しく遊んでいようぞ」
「いずれってどれくらい」
「さて。地上の時間で言えば二百年か三百年、いや、五百年くらいかのぅ」
「その前に世界が滅亡しちまうよ! ナヴァドは絶対ろくでもないことを企んでる」
「ああ、〈さかしま〉に憑かれた奴だな」
「あの黒い剣もあんたが造ったのか?」
「必然的に生まれたのだ。〈さかしま〉は〈目覚め〉の影だからな。影はすべてを滅ぼし、存在する前の状態に戻ろうとする。是非もない衝動だ」
にんまりと紅唇を吊り上げる女神をキリアスは睨み付けた。
「あんたはこの世界の神なんだろ? せっかく造った世界が滅んでもいいのか」
「そうしたらまた創り出せばよい。そなたたち人間にとってこの世は唯一無二であろうが、神にとっては世界はひとつの作品にすぎぬ。出来の善し悪しはあるにしても。我々にとってはすべてが美しく、正しく、善なのだ。それを人間は正と不正に分ける。その時々の考えに従って。ゆえに人間は永遠に『絶対』を持つことができぬ」
「あの有り様が美しいと? 死者が蘇って生者を襲ってるんだぞ。生者は生者で互いに殺し合ってる。それが正しいというのか。世界が影に呑み込まれても、それが善なのか」
「理解しろとは言わぬ。できるとも思っていない。人間は色々な考えを持つ。結びつくものもあれば相容れないものもある。そういう相違が人間の特質なのだ。それを我々はとても面白いと思う。違いが鮮烈であればあるほど、そこから美しい調和が生まれてくるのだ。その過程に争いが生じるのはやむを得ないことだ」
「……やむを得ないじゃ済まねぇんだよ。放っとけるか」
「自分にならできると?」
「できるかできないかなんて関係ねぇんだよ! 俺はやるって決めたんだ。だからやる。それだけだ」
女神は黙ってキリアスを見つめた。唇に浮かんだ微笑が次第に大きくなり、女神は愉快そうに笑いだした。
「おまえは面白いな! 気に入った。ますます帰したくない。だが、約束は約束だ。妾に勝てば地上に戻そう。ただし、前と同じでは面白くない。妾に一滴でも血を流させてみよ」
「……掠り傷ひとつつけられずに惨敗したってのに?」
「それくらい出来ねば地上に戻る意味などないよ。ここで妾の玩具になっているがよい」
「あいにくいつまでもあんたと遊んでる暇などない。俺は寿命の限られた人間なんでね」
「では早速始めようか」
ニッ、と笑った女神の姿が変形する。あっというまに竜体になった女神を唖然とキリアスは見上げた。
「そっちかよ!? 狡いぞ、がっちり鱗で身を固めやがって」
「今度は骨は折らないでやる。さっき散々折ったからな。その代わり――」
鋭い爪が一閃した。シャツが裂け、胸を斜めに朱線が走った。竜が含み笑った。
「そなたの血を流すことにしよう。妾の血を見る前に尽きねばよいが」
「……まったく残酷な女神様だな!」
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