第39話
失った記憶よりも、今気がかりなのはダリオンのことだ。このところひどく顔色が悪い。昼間、人前では平然としているが、夜になって周りに誰もいなくなると苦しそうになる。眠りに就けばよくうなされていた。
病気ではないかと危ぶみ、医者に診せるよう何度も言ったのだが、ダリオンは聞かなかった。医者には治せんと言うばかりだ。
かすかな呻き声が聞こえ、リコリスは急いで室内に戻った。寝台に横たわった男の手を握りしめる。
「苦しいの? ダリオン。やっぱり医者を──」
「よせ。どうせ無駄だ」
「だってこのままじゃ……」
恐ろしくて言葉を呑み込む。顔をゆがめるとダリオンは微笑んで頬を撫でた。
「朝になれば楽になる。……夜は影が身体に入ってくるから……」
「どういう意味? ねぇ、わたしにしてあげられることはないの」
「こうしてここにいてくれればいい。すまないな、おまえの眠りを邪魔して」
リコリスは首を振り、男の手を頬に押しつけた。
「いいのよ。わたしが悪夢にうなされていた時、あなたはいつも優しかった。今度はわたしの番」
「俺を抱いていてくれ、リコリス。おまえに触れていたい」
リコリスは寝台に身を横たえ、しっかりと男の身体を抱く。筋肉質のしなやかで頑健な体つきは衰えていないのに、何故だかひどく心許なかった。
静かな寝息が聞こえ、リコリスはホッとして男の顔を覗き込んだ。寝付きは変わらずよいようだ。冷たいほどに整った容貌が眠っているとひどく無防備で、愛しくてならない。
すっかりなじんだ体温に包まれてうとうとしていたリコリスは、息苦しさを感じて薄目を開けた。影が自分に覆い被さっている。喉元を絞め上げられる感覚に混乱しながら、反射的に男の手首を掴んだ。
喉を絞める手に力が籠もる。苦痛と絶望に惑乱しながらリコリスはかぼそい声を上げた。
「ダ……リオ……っ」
唐突に喉元を解放され、空気がどっと入ってくる。激しく咳き込むリコリスを抱き起こし、ダリオンが慌てて背中をさする。
「すまない、リコリス。すまない……」
「ど……してっ……!?」
かすれた声でリコリスは叫んだ。苦しさで浮かんだ涙が睫毛ににじむ。ひどく冷やかな声が耳元で聞こえた。
「おまえを殺せば楽になれる」
ぎょっとして身を起こそうとすると後頭部を掴んで胸に押しつけられた。
「耳を貸すな」
強くダリオンが命じる。その同じ声が、口調を変えてまた囁いた。
「どうした? 簡単なことではないか。その女を殺せばいい。そうすれば元に戻れる」
「ダリオ……」
「黙れ!」
激昂した声に身をすくめる。だが、それが自分に向けられたものでないことはすぐにわかった。リコリスの身体をきつく抱きしめ、ダリオンは押し殺した声で繰り返した。
「黙れ、黙れ、黙れ、黙れ、黙れ……っ!!」
彼は目に見えぬ何者かに対して叫び続けた。最初は自分たちを取り巻く夜闇にひそむものに向かって言っているのだと思ったが、やがて悟った。彼は己に対して罵りの声を上げているだ。
リコリスはそっと彼の背に手を伸ばした。ダリオンは震えていた。どんな時も揺るぐことのなかった背中が、打ちひしがれたように震えている。リコリスはたまらなくなってぎゅっと彼を抱きしめた。
「誰に言ってるの、ダリオン……?」
「影だ。俺を今まで生かしてきた影――。その影がおまえを殺せと言う。ずっとそう言い続けていたんだ。どうにか抑え込んでいたが、今はあんまり苦しくて……。すまない。すまない、リコリス……」
「元に戻れるって、どういうこと。わたしを殺せば、あなたの苦しみはなくなるの?」
「おまえを殺しはしない。絶対に!」
「話して、ダリオン。どういうことなの。全部、話して聞かせて」
ようやく身を離し、ダリオンは力なくリコリスを覗き込んだ。わずかな間に彼の顔はげっそりとやつれて見えた。青ざめて血の気を失い、死人のように生気がない。
「──今の俺がどう見える? リコリス。亡者のようだとは思わないか」
息を呑むとダリオンはうっそりと微笑んだ。
「そのとおり、一度は死んだ身だ。俺が冒涜した死者たちとさして変わらぬ存在だ」
「そんなっ……!?」
「三年前……、俺は死んだ。仲間だったナヴァド・ラガルという男に殺されて。そこに影が現れ、俺に影の剣──〈さかしま〉を与えて蘇らせた。俺はナヴァドを殺し、その名を騙ってずっと胸に秘めていた復讐計画を実行に移した」
両親を殺され、地位も身分も、そうあるべき人生のすべてを奪われて、奈落へ突き落とされた王子──。ダリオンはかすれた低い声で笑う。
「順調だったよ。心にかかるものがなくなっていたから。かつてあれほど大切に思っていた妹への愛も消えていた」
「妹……。妹さんはどうなったの」
「俺が殺した。覚えているだろう? リコリス。いや、アーシファ姫。おまえはその目で見ていたのだから」
鮮やかに斬り落とされて転がる女の美しい生首。囁いた、声ならぬ声──。
「……ギー、ゼラ……!」
「そうだ。ギーゼラ、俺の哀れな妹。この手で首を刎ねるその瞬間まで、妹への想いは消えていた。蘇生と引き換えに、俺は
「でも、あなたはわたしを愛してるんでしょう……?」
「ギーゼラが取り戻してくれた。自分の命で俺の心を贖ってくれた。妹を殺した瞬間、俺に心が蘇った。妹への想いが。それなのに、妹は死んでいた。俺が殺したんだ……!」
何という皮肉だろう。心を取り戻した時、それを向けるべき相手はもういなかった。自分の手で、壊してしまった。
「……だが、二度とは間違わない。アーシファ姫、俺は決しておまえを殺したりはしない。だから安心しろ」
ダリオンは微笑み、そっとリコリスの頬を撫でた。
「そうは言ってもさっきみたいに意思が弱る場合もあるからな。これからは離れていよう」
寝台を降りようとする男の背に、無我夢中でしがみつく。
「アーシファじゃない! わたしはリコリスだよ!」
「……本当はもう思い出しているんだろう? 無理に蓋をすることはない」
「あなたが好きなの! 嫌いになんか、どうしたってなれない……!」
「俺はキリアス王子を殺すぞ? さもなければ、奴が俺を殺す」
「どっちもさせない! どうしてふたりが殺し合わなきゃならないの!?」
「そういう運命だ。俺たちは宿敵として出会ってしまった。ならば殺し合うしかない」
すがるリコリスを振り払い、ダリオンは立ち上がる。折しも寝室の扉を控えめに、しかし断固として叩く音がした。
「陛下、キリアス王子軍が夜襲を。堤道の入り口で戦闘が始まっております」
その言葉にリコリスは青ざめた。本当に、殺し合いが始まってしまう……!?
「今行く」
ダリオンはまったく動じることなく泰然と応じた。ふと肩ごしに振り向き、彼はうっすらと微笑んだ。
「別の出会い方だったら、彼とは友になれたような気がする。残念だ」
「今からだってなれるよ! なってよ、ダリオン!」
「手遅れだ。──俺を憎め、リコリス。それでも俺はおまえに対する愛は捨てない」
「ダリオン……っ」
悲愴な叫びに振り向くことなく、ダリオンは部屋を出ていった。
「……うまく行ったみたいだな」
宮殿島の岸で立ち泳ぎしながらキリアスは呟いた。彼に従っている三人の騎士は頭上に張り出した梢越しに宮殿を見上げた。
「城壁の上に歩哨がいたみたいですが、見つからずにすみましたね」
「もともとこっち側の警備は手薄なんだ。攻めてくるとしたら堤道を通るのが普通だからな。離宮島の陰に入れば城壁からも見えない」
キリアスは堤道が設けられた岸とは反対側から小さなボートを漕ぎだした。夜空は雲に覆われ、月も星も隠されている。真の闇夜といっていい。
宮殿の灯が目印にはなるが、手前の島影に入るとそれも見えなくなる。闇でも見えるキリアスの左目のおかげで迷うことなく宮殿に一番近い離宮島にたどり着き、そこにボートを置いて泳いできたのである。
この位置からは見えないが、堤道で戦闘が行われている物音が夜風に乗って響いてきた。三つある堤道のそれぞれで、キリアス軍がフォリーシュ軍と戦っている。むろん陽動で、実際に突破する必要はない。
要はフォリーシュ軍を引きつけられればいいので、疲労すればすぐに退却して控えの軍と交替する。
「ダリオンが自ら出撃することは……」
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