Bitter Moon IV

第31話

 手にした弓を見つめ、ナヴァドはかすかに眉根を寄せた。小振りで軽いが、よい造りだ。通常の弓兵が使うものと異なり、筈の部分が装飾的に反り返っている。控えめながら美しい花蔓模様が刻まれている。その模様に紛れるように、装飾文字が埋め込まれている。


 アーシファ・ローシャ・ファイ。持ち主の、名だ。意味は『ファイ家の娘アーシファ』──ファイは皇家の姓である。


 ナヴァドは憂鬱げにその名を眺めていたが、短剣を抜いて名前に刃を当てた。目立たないよう慎重に薄く名前を削ぎ落とすと、彼は弓と、空っぽの矢筒を手に立ち上がった。




 バルコニーから下の庭を見下ろしていたリコリスは名を呼ばれて振り向いた。ちょうど今熱心にその姿を探していた男がそこに立っていた。


「ナヴァド! 下にいるんだと思ってた」


 リコリスが暮らしている部屋は上級士官に割り当てられている四階建ての建物の三階にある。この館に住んでいるのはナヴァドと六名の副官だ。すぐ前の庭は教練場として使用されており、手持ち無沙汰のリコリスはバルコニーから兵たちの訓練を眺めて日中を過ごすのが常だった。


 歩み寄ったナヴァドが弓と矢筒を持っているのを見てリコリスは首を傾げた。無造作にそれを差し出されて戸惑う。


「おまえのものだ。取り上げたままになっていた。返す」

「返すって言われても……」


 受け取りはしたものの、当惑して弓と男を交互に見る。


「本当にわたしの……?」

「使ってみれば思い出すかもしれん」


 腕を取って部屋から連れ出された。前庭に降りると居合わせた兵が一斉に好奇のまなざしを向けてくる。副官たちのうち何人かの顔も見えた。リコリスは急に恥ずかしくなって俯いた。


 藁を詰めた的の前に立たされ、矢を渡される。思わず縋るようにナヴァドを見上げると、彼は苦笑して背後に回り、矢をつがえてくれた。ぐっと弦を引き絞る。何だか別人が勝手に身体を動かしているような変な気分だ。


 鏃の先で的が静止する。気付かぬうちに弦を離していた。ブンとかすかな唸りが鼓膜を打つ。次の瞬間、矢は的に突き刺さっていた。描かれた円形の、内側から三番目。外側から数えても三番目の部分だ。


 見物人から感心したような声が洩れる。リコリスは不意に衝動が胸の内を突き上げるのを感じた。無視意識に伸ばした右手に次の矢が手渡される。リコリスは無言で矢をつがえ、放った。今度は内側から二番目の円に刺さる。すかさず放った三番目の矢は、今度こそ的の真ん中に突き立った。


 見物人から拍手が湧く。頬を紅潮させてナヴァドを見ると、彼は微笑んで頷いた。


「いい腕だ」


 褒められて胸が弾む。さらに何本も射て、まぐれでないことを見物人よりも自分自身に証明して、やっとリコリスは満足した。この弓は確かに自分の持ち物だ。見ただけでは何も感じなかったが、使ってみてわかった。すべてがしっくりと身体になじんだ。


 それからも折に触れてナヴァドはリコリスを外に連れ出し、弓の練習をさせてくれた。ある時ふとその弓に削られた部分があることに気付いたが、黙っていた。


 もしかしたらそこには自分の身元がわかるようなものが刻まれていたのかもしれない。知りたいという気持ちはもちろんあったが、それ以上に怖かった。ナヴァドに尋ねて彼が削ったのだと知れば責めてしまいそうで。彼を恨み、関係を持ったことを後悔してしまいそうで。だったら忘れたままでいた方がいい。


 名前ならもうある。リコリス。彼がくれた名前。彼が呼んでくれる名前。忘れてしまった過去など捨てよう。このまま彼の側にいられるなら、捨ててもかまわない……。


 女の首が浮かんだ。美しい女。金色の髪。蒼い瞳。ナヴァドと同じ。どうして気付かなかったんだろう。端麗な彼女の顔だちはナヴァドによく似ているのに。


 女の生首が何かを囁く。何を言っているんだろう。どんなに耳を澄ましても声は聞こえない。繰り返し、彼女は囁く。同じ唇の動き。何度も何度も。唐突に気付いて恐ろしくなった。


 それは名前ではないのか。自分の本当の名前。弓からナヴァドが削り取ってしまったもの。


 ──厭だ。


 首を振る。厭だ。耳を塞ぐ。聞きたくない。知りたくない。思い出したくない。失いたくない。今のこの想いを。


 誰かの手が頬に触れ、ハッと目を覚ました。長椅子の上だった。クッションに凭れて考え事をしているうちにうたた寝をしてしまったらしい。目を瞬いたリコリスは、覗き込んでいる男の顔がまるで見知らぬものであることに気付いて反射的に後退った。


「だ、誰っ……!?」

「おまえがナヴァドの女か。……ふーん、確かに変わった毛色だな」


 髪を一房摘んでしげしげ眺める。あわててそれを振り払い、リコリスは詰問した。


「誰なのあなたは。将軍の部屋に勝手に入り込むなんて」

「俺が入ってはならぬ部屋などない。この城の主は俺なのだからな」


 冷笑を浮かべた青年を驚いて見返す。城の主? フォリーシュ王城の主……!


「──フェネアン王!?」

「そう。おまえの愛人の雇い主だ」


 青年はうそぶき、悠然と長椅子に腰を下ろした。リコリスは慌てて身を起こしたものの、これ以上後ろへは下がれない。かといって逃げ出すのも失礼なような気がして、せめてきちんと座り直そうとしたが、フェネアンがいきなり迫ってきて進退極まった。


「あ、あのっ。少し離れて……もらえませんかっ……!?」


 息が少し酒臭い。よく見れば目許が赤らんでいた。まだそんな時間じゃないのに。


 酔いで大胆になっているのか、元々礼儀知らずなのか、フェネアン王はますます身を乗り出してくる。年の頃は二十代の前半、造作そのものは悪くないが、癇性の強い顔だちだ。ちょっとでも自分の思い通りにならないとたやすく激発しそうである。


「おまえ、結構可愛いな。よし、俺の女にする」


 いきなり命じられて唖然とする。押し倒された拍子に詰め物をした椅子の腕木に後頭部をぶつけて頭蓋がぐわんと鳴った。記憶を失った原因の傷は、一応塞がったもののまだ完治はしていないのだ。痛みに呻いているうちに押さえ込まれ、性急な仕種で服の上から身体を探られた。ぞっと鳥肌がたち、懸命に押し戻しながらリコリスは叫んだ。


「や、やめて! 離してよ! ──誰かっ……、ナヴァドーっ」」


「おまえ、記憶がないんだってな。あいつがどんなに血まみれの男か知らないだろう」

「ナヴァドが傭兵だったことくらい知ってるわよ! 離してってば」


「その前は暗殺者だったことも知ってるのか?」


 目を瞠るリコリスに、フェネアンはニヤリと卑しい笑みを浮かべた。


「そう、殺し屋だよ。奴は金と引き換えに人を殺していた。傭兵も人殺しには変わりないが、戦に勝つための手段だ。殺し屋は殺すこと自体が目的。人殺しで稼いできたあの男は、人を殺すことを何とも思ってない。いや、死そのものを何とも思ってない。そうでなきゃ、死者を蘇らせて兵力にするなんて考えつかないさ」


「死者を蘇らせる……!?」


「ああ、おまえは記憶がないんだったな。奴に尋ねてみるがいいさ。──いや、やめておいた方がいいな。奴の不興を買えばおまえの首などすぐにすっ飛ぶ。奴は神殿騎士さえ殺したっていうから。何でも若くて綺麗な女騎士だったのに、躊躇いもせず首を一刀両断したとか」


 どくん、と心臓が大きく跳ねる。


 若くて綺麗な女。


 首。


 一刀両断──。


 悪夢がふたたび立ち上がる。鮮血の海。転がる女の生首。抜き身の剣を引っ下げて振り向く白い影。女の唇が忘れた名前を呼ぶ。


/ー//。/ー//。/ー//……。


「…………!!」


 硬直したリコリスのうなじに舌を這わせながらフェネアンは含み笑った。


「奴が飽きれば即座に殺されるぞ。首を刎ねられて殺されるのは厭だろう?」


 衣服の裾を捲り上げ、腿に手を滑らせる。茫然としていたリコリスはぞっと全身の産毛が逆立つ感覚に襲われた。我に返って激しく抵抗するリコリスの膝を、フェネアン王は力任せに押し開いた。


「いやぁっ、やめて、離して!」

「くそっ、おとなしくしろ! この俺が可愛がってやろうってのに──」


 唐突に声が途切れる。見ればナヴァドが猫の子を持ち上げるように王の襟首を掴んでいた。そのまま有無を言わさず床に投げる。もんどりうって呻く青年に振り向き、初めて気付いたかのように彼は言った。


「──おや、陛下でしたか。これは気付きませんで、大変失礼いたしました」


 悪びれもせず嗤笑を含んだ声は、完全に言葉面を裏切っている。フェネアンは歯ぎしりして震える指を突きつけた。


「ナヴァド! 貴様、捕虜にした女は全員俺に見せる契約だぞ!? なのにひとりも他国の女を捕まえてこないではないかっ」

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