第32話

「女の捕虜は全員見せると約束したが、女を捕虜にするという契約は結んでいない」


「その女は捕虜だろう!? 俺が貰うぞ」

「これは個人的な拾い物です。あなたに差し出す義務はない」


 びっくりしてリコリスはナヴァドを見た。てっきり自分は捕虜なのだと思い込んでいたが、そうではなかったのか……?


 ナヴァドは仕種だけは慇懃に身を屈めた。


「どうぞお引き取りを。陛下のご尊顔が引っ掻かれでもしたらいけませんので」


 フェネアン王は悔しげに顔をゆがめ、毒づきながら憤然と部屋を飛び出して行った。


「大丈夫か?」


 気づかわしげに尋ね、ナヴァドが乱れた裾を直してくれる。頷いたリコリスは顔をしかめ、首筋を袖口でごしごしこすった。


「舐められた! 気持ち悪いっ」

「もうよせ。皮膚が擦りむける」


 苦笑したナヴァドが手を押さえ、赤くなった皮膚になだめるように唇を落とした。肩ごしに腕を回して抱きつくと、悪夢にうなされた時のように背中を優しくさすってくれた。


「すまなかった。怖い思いをさせたな」

「本当にあの人がフォリーシュの国王なの?」


 信じられなかった。ナヴァドの雇い主だと聞いて、何となくそれなりに立派な人物を思い描いていたのに、まるで躾けのなっていない甘やかされた子どもみたいだ。


「フェネアン王は色好みでな。美人に目がない。それも、人のものだと余計に気を惹かれるらしい。これからはちょっかい出せないように警護をつける」


「大丈夫? あの人、雇い主なんでしょ」

「契約違反はしていないさ。おまえを捕虜にしたつもりはない」


「拾い物って何。飽きたら……捨てるの」


 首を刎ねる、とは訊けなかった。ナヴァドは苦笑を深め、「そんなことはしない」と囁いて機嫌を取るように頤から頬を撫でた。リコリスはねだるように唇を寄せた。何度も接吻を交わし、くたりと胸にもたれかかりながら尋ねた。


「……傭兵になる前は暗殺者だったって、本当……?」


 沈黙が、すでに答えだった。頬をすり寄せると、肩を抱きながらナヴァドは頷いた。


「ああ、そのとおりだ」


 女騎士の首を刎ねたことは訊けなかった。きっと彼は本当のことを答えてくれるだろう。それを聞くのが怖い。こうしてこの腕に包まれて安らぐことができなくなりそうで。


「気になるか?」


 ナヴァドの囁きに激しく首を振った。背中に腕を回し、ぴったりと身体を密着させる。


「……いいの。こうしていてくれたら、それでいいの」


 力強い腕に抱き上げられ、リコリスは頬を染めた。


「まだ昼間だよ……?」

「気になるか?」


 同じ問いに首を振る。


「もっと、あなたのものにして」


 消え入りそうな声で呟いて、胸に顔を埋めた。




 夕映えが部屋を明るく照らしていた。寄り添いながらリコリスは何だか気恥ずかしかった。いつも灯を落とした暗闇で愛し合っていたから、こんな明るい光の下で抱かれて裸身を晒すのが恥ずかしかった。一方で、初めてはっきりと見たナヴァドの身体に残った傷に、ひどく心が騒いだ。


「これ、凄い傷だね」


 脇腹に残る一際大きな傷跡をそっと指で辿る。ナヴァドは「ああ」と言ったきり、何か迷うように黙っていた。


「……死にかけた」


 やがてぽつりと洩らされた言葉に驚いて目を上げる。リコリスはホッとしてナヴァドを抱きしめた。


「よかった、死ななくて」


「その代わり、死んだ奴がいる」

「……うん」


 自分が生き延びるために、他人を殺すということ。非難するのはたやすい。理解しようと務めるのは苦しい。それでもナヴァドが生きていてくれて嬉しいと思う。


「暗殺者になったのも、生きるため……?」


 長い間ナヴァドは答えなかった。かすかな溜息を洩らし、彼はリコリスの背を抱いた。


「言い訳じみて聞こえるだろうが、あの頃の俺には他に選択肢はなかった。生きるために殺した。そうしなければ殺される。自分も、妹も」


「妹さん……?」

「どんな犠牲を払っても、守りたかった。守らなければならなかった。いつか帰るために」


「帰るって、どこへ? ──故郷? どこなの」

「ここだよ」


 目を瞠ってナヴァドを見つめる。


「……ナヴァドはフォリーシュの人なの?」


 それには答えず、彼は真剣にリコリスの目を覗き込んだ。


「リコリス。俺はこれからも人を殺す。たくさん殺す。おまえの大切な人も、きっと殺すだろう。俺の側にいたくないならどこか余所へ移っていい。だが心配するな、守ってやる。誰にも危害は加えさせない」


「あたしを捨てるの?」

「そうじゃない。好きにしていいと言っている。決して不自由はさせないから」


「だったらここにいたい! どこへもやらないで」

「……後悔するぞ」


「しないわ。前にも言ったでしょ。絶対後悔しないって。あなたが『いい人』じゃないのは最初からわかってた。わかってて、好きになったの。だから後悔なんかしない。記憶も戻らなくていい。このままでいい。このままがいいの。ずっとリコリスでいる。リコリスはあなたのものだよ? あなただけのものだよ……」


 ナヴァドは黙ってリコリスを見つめた。


「……記憶が戻ったら、俺を憎め」


「それでもきっと愛してる。世界中の人々から憎まれても、非難されても、あなたをずっと愛し続けるから」


 ナヴァドは呻き、リコリスを抱きしめた。


「馬鹿な女だ……!」


「うん、自分でもそう思う。馬鹿だなぁって、呆れてる。どうしてあなたのこと、こんなに好きになっちゃったのかな。自分でも不思議」


「……昔、おまえに似た女を見た気がする。もう十年以上も前のことだが」


「どこで?」

「昔住んでた場所だ。──そこはもう、以前の面影は全然なかった。俺と妹がかつてはそこで暮らしていたなんて、夢としか思えなかった」


 残酷な、夢。幼すぎた妹は何も覚えておらず、身を守るためには話して聞かせてやることもできず。失ったものの重みにひたすら耐えながら、怒りと憎しみを育てていた。


 壊されてしまったものは取り返せない。だったら代わりに同じだけ重みを持ったものを壊してやろう。今はその力がない。もっと大きく、強くなるまで待つのだ。復讐の時を。


「廃墟を彷徨っていると林檎の木があった。昔そこが果樹園だったと思い出した。ふと気がつくと林檎の木の側に女がひとり立っていた。……これとそっくりな赤い髪をしていた」


 リコリスの髪を摘み、唇に寄せる。リコリスは魅せられたようにナヴァドを見つめた。


「女は微笑んで、よく熟れた真っ赤な林檎を俺に差し出した。とても綺麗な、瑞々しい林檎だった。甘くていい匂いがした。俺は急に怖くなって逃げた。振り向くと、女の姿は消えていた」


「どうして受け取らなかったの?」


「冬だったのさ。果樹園の木々は全部枯れていて、林檎などひとつもなってはいなかった。……その時は、受け取らなくてよかったと思った。あれはきっと人を惑わせる魔物だったに違いない。だけど、受け取っていたらどうなったんだろうと後になって思ったんだ。もし受け取っていたら、何かが変わっていたのかもしれない、と」


「何かって、何?」

「わからん。教えてくれ」


「わかんないよ! だってそれ、あたしじゃないもの。十年以上前ならあたし、まだほんの子どもだよ」


 そうだな、と笑ってナヴァドはリコリスの額に口づけた。甘えるように抱きつくと、ナヴァドが低く呻いた。脇腹の傷跡を押さえた彼の顔色の悪さに、リコリスは驚いた。


「ど、どうしたの!? 傷が痛むの?」

「……何でもない。大丈夫だ」


「でも酷い顔色。具合が悪いんじゃ……」

「平気だよ。それよりキスしてくれ。おまえの唇は林檎より甘い」


 照れくささと嬉しさが入り交じる。リコリスは請われるままに想いを込めて接吻した。

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