第30話

 荒れて雑草が生い茂る中庭に壊れた水盤があることは暗くなる前に確かめておいた。かつては泉水が湧き出ていたようだが、おそらく地震の影響だろう、今は涸れ果てている。結局、水は廃墟の外の小川から汲んできたのだが、その涸れたはずの水盤から水が溢れだしていた。キリアスは足を止め、ぽかんとした。


 水盤の上に人影があった。豊富に溢れる水を手で掬い、水浴している。立ち上がると水晶のような雫を滴らせた裸身が月光に浮かんだ。女だった。銀色の髪を長く垂らした女が、一糸纏わぬ姿で立っている。


 思わず息を呑んだ気配を察したか、女が振り向く。キリアスはギョッとして、掴んでいた剣の鞘を握りしめた。それは確かに女の姿はしているものの、顔に目がひとつしかなかったのである。皿のように丸い銀色の目がひとつ。それだけで顔の三分の二を占めている。鼻はなく、妙に可愛らしい感じのぽってりとした唇だけがついていた。


 呆気に取られて誰何もできずにいると、化け物女が突然叫んだ。


「ニンゲン! オトコ! ウマソウ!」


 次の瞬間化け物は跳躍し、キリアスの眼前に着地した。咄嗟に剣を引き抜いたものの、あっさりとそれを握り込まれて奪われた。小枝のように剣はバキンと折られた。一つ目女は剣の残骸を放り投げ、両手を広げた。


「イイオミヤゲ! キャハハ!」


 がばっと抱きつかれそうになるのをかろうじて回避し、脱兎の如く逃げ出した。


(なっ、何だありゃ……!?)


「ニンゲン! ニンゲン! ニンゲンノオトコ! キャハハハハー!」


 楽しそうに叫びながら化け物が追ってくる。わけがわからずキリアスはわめいた。


「何なんだおまえはーっ」


 化け物が出るなんて聞いてないぞ!? 一体何がどうなってるんだ!?


 一つ目女は全裸のまま嬉々としてキリアスを追いかけた。大量の鈴を一斉に振るような笑い声が廃墟に響きわたり、頭ががんがんしてくる。それなのに、誰も起き出してくる気配がない。


「マテー! ニンゲン! オトコ! キャハハ! ミヤゲ、ミヤゲ!」

「土産って何だよ!?」


 キリアスは足元に転がる瓦礫に蹴躓きながら逃げ回った。いきなり武器を破壊されてしまったことが何とも痛手だ。


「くそっ、何かないのか!?」


 槍でも斧でも棍棒でも、何でもいいからひとつくらい転がっていないかと走りながら見回していると、瓦礫の間に突き立っている剣が見えた。


「しめた!」


 無我夢中で飛びつき、一気に引き抜く。向き直って剣を構えるキリアスを見て、化け物女は唐突に足を止めた。一瞬沈黙し、弾けるように笑いだす。


「ヌイタ! ヌイタ! ニンゲンガヌイタ! キャハハハハハッ!」

「──あ?」


 ふと手にした剣に視線を落とす。降り注ぐ月明かりでよくよく見れば、ずいぶん立派な剣だった。螺旋状の筋が刻まれた柄。鉤爪のような装飾が両端についた鍔。刀身は長剣にしてもかなり太く、両刃である。全体が一体で造られたように継ぎ目がなく、金属とも石ともつかない不思議な感触で、月光を受けて白銀に輝いている。


「まさか……」


 かつて帝都の宮城にあった〈始祖の剣〉を実際に見たことはない。だが、人伝えに聞いたその特徴は今自分が手にしている剣にぴたりと当てはまった。


「嘘だろ……。ビリビリ来ないぞ? ──あ、来なくていいのか……?」


 ふ、と目の前に影が射す。顔を上げると自分の顔が見返していた。化け物の大きな一つ目が鏡のようになって顔を映しているのだ。


 その鏡がぐにゃりと歪み、いきなりキリアスの頭部全体を呑み込んだ。息ができない。必死に暴れたがその甲斐もなく、キリアスの意識は闇に引きずり込まれた。

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