第27話

「……影は俺の前に戻ってくると、俺に尋ねた。『生きたいか?』と。声が出せなかったので、必死に頷いた。すると影は言った。『では死ね』と。そして俺の心臓を突き刺した。しばらくして気がつくと、俺は剣を握りしめてぼんやり立っていた。夢かと思ったが、夢じゃなかった。俺の脇腹にはナヴァドに刺された傷があった。もう塞がっていたがな。影に刺されたはずの心臓には何の痕跡も残っていなかった。ただ、俺の持っていた剣はそれまでの物ではなくなっていた」


 ナヴァド──いやダリオンは鞘から剣を引き抜いた。黒い剣だった。何もかもが黒い。柄も鍔も刀身も。まるで闇を掴んでいるかのように。


「……俺の心臓を貫き、引き抜かれたときに変わったのかもしれないな。これは〈さかしま〉、世界の影を負う剣だ」


 世界の、影──。アーシファは息を詰めて白い男と黒い剣を見つめた。ダリオンは憂愁をおびた口調で問うた。


「ギーゼラ。何故戻ってきた。見逃してやると、そう言ったのはキリアス王子だけに向けた言葉ではなかったと気付かなかったか」


「いいえ、わかっていたわ。でもね、兄様。わたしもこの三年で変わったの。一生懸命修行して、神官の資格を得たわ。だから兄様が何を目指しているのか感じ取ることができたの。兄様はフォリーシュのために働いている。でも本当はフォリーシュ王が帝位に登る手助けをするつもりなんて全然ないんでしょ。かといって自分が皇帝になることも目指していない。兄様が影に呑まれてしまったのなら、なおのこと……」


 ギーゼラは言葉を切り、兄を見つめた。


「兄様。兄様は世界を滅ぼそうとしているのね……?」


 しばし沈黙していたダリオンは低く笑いだした。


「さすが神官になっただけのことはあるな。影から生まれた竜を知ったか」

「竜が光となって世界を照らした時、世界に命が宿った。同時に影が生まれた」


「影は光を憎んだ。それは世界から影を分離させたからだ。影は世界を憎んだ。それは光と影を隔てるからだ」


「兄様は影に取り憑かれてしまった……。影は光に戻りたい。世界を滅ぼせば、影は消える。影がなければ光は闇と同義だわ。全きもの。完全なる完全」


「俺は影、そしておそらくキリアス王子が光なのだろうな。俺たちは世界を挟んで向かい合っている。彼が本当に光なら、探さずとも〈始祖の剣〉が彼を見出すだろう。〈さかしま〉が俺を見出したように。〈始祖の剣〉と〈さかしま〉は対の存在だからな」


 ダリオンは黒い剣を構えた。


「ギーゼラ、おまえはキリアス王子の元に留まるべきだった。そうすれば、少なくとも今しばらくは希望を抱いていられただろうに。俺を止めに来たのだろうが無駄足だ。残念ながら、俺はおまえが知っている俺ではもはやない」


「兄様は死んだんですものね。ナヴァドに殺されて、兄様は死んだのね」

「だから今の俺にはおまえが殺せる」


 悲しげにギーゼラは微笑んだ。


「そうね……。それでもわたし、兄様を止めたいと思うわ。兄様を愛してるから。自分を犠牲にしてわたしを守ってくれた兄様に、お返しに何かしてあげたいとずっと思っていたの」


「では死んでくれ。おまえは邪魔だ」

「いいわ、兄様。殺して。それでも兄様を愛してる」

「俺はもう愛してない。それがどんな感情だったのか、忘れてしまった」


 ダリオンが剣を振り上げる、アーシファはたまらず衣装箪笥から飛び出した。


「ギーゼラっ」


 短剣を掴んで息をのむ。ギーゼラの首が空を飛んでいた。非現実的なその光景を目にしたとたん、衝撃が来て撥ね飛ばされた。力任せに叩きつけられて衣装箪笥が大きく傾く。蝶番のついた角に後頭部を思い切りぶつけて、意識が跳んだ。


 白く弾けてゆく意識の中、床に転がったギーゼラの首がこちらを向く。半開きの唇が、何事か訴えかけるように小さく動いた気がした。




「──アーシファがいない?」


 翌朝、出立の準備をしているとナイトハルトがやってきて物思わしげな顔で報告した。


「ギーゼラもいません」

「だったらふたりでその辺をぶらついてるんじゃないか? アーシファはよく朝に散歩に出る」

「敗走中のこんな時ですよ。いくら何でもギーゼラが止めると思いますが……」


 そこへカドルーが走ってくる。


「馬が二頭いなくなってる。ふたりの姿を見たという者もいない」

「どうやら夜中に抜け出したようですね」


「昨夜は月もなくて真っ暗だったんだぞ。そんな中、どこへ行ったんだ」

「……ジャリードの王城へ戻ったんだ」


 キリアスの呟きに、カドルーが大きく眉を上げる。キリアスは剣を掴むと大股で厩舎に向かった。追ってきたナイトハルトが鋭く尋ねる。


「どうされるおつもりです」


「ギーゼラはたぶんナヴァド・ラガルと知り合いだ。あの時奴が剣を引いたのはそのためだ。悔しいが、奴はあの場で俺たちふたりを殺すことなど造作もなかったはず」

「ギーゼラが俺たちを裏切ったってことですか!?」


 カドルーの悲愴な声に、キリアスは眉をひそめた。


「彼女はナヴァドを止めようとしたんだと思う。それに気付いたアーシファが後を追っていったんだろう。……くそっ、やっぱりギーゼラを問いただしておくんだった。何か思い詰めてるのはわかってたのに」


 ナイトハルトが馬とキリアスの間に立ち塞がった。


「行かせるわけにはいきません。今のあなたではナヴァドに勝てない。あの時ギーゼラが捨て身で割り込まなかったら今頃あなたは死んでいますよ。それどころかギドウの代わりにされてる。実力で劣っているのに、そんな間に合わせの武器で勝負になると思いますか」


「はっきり言ってくれるじゃないか」

「だって負けたんでしょ」


 睨まれたナイトハルトは負けずに主を睨み返した。キリアスは手にした剣の鞘をぐっと掴んだ。理はナイトハルトにあることは考えるまでもない。この砦の武器庫にあった中では最上の部類ではあっても、所詮は一般兵士用の量産品だ。高名な刀匠が精根込めて造り上げた兄の剣とは比べ物にならない。


「……だからって見捨てておけるか。アーシファが付いてったんなら尚更だ。どけ」

「いやですね」


 押し問答をしていると、外から慌ただしく兵が駆け込んできた。


「た、大変です。戻ってきた馬に死体が……」


 キリアスは最後まで聞かずに飛び出した。走っていくと、兵士たちが一頭の馬を遠巻きにしていた。見れば鞍の上には人間が横向きにだらりと覆い被さっている。キリアスの位置から見えるのは足の方だ。その甲冑は神殿騎士に特有のものだった。


「ギーゼラ!? ──おい、何をしてる。早く降ろ……」


 回り込んだキリアスの視界に異様な光景が飛び込んできた。馬が足踏みするたび力なく揺れている両腕。その付け根から先にあるべきものがなかった。馬が運んできたのは首無し死体だったのである。取り巻く兵士たちが一様に青ざめていたのも無理はなかった。


 頭が痺れたようになって後退ると、後ろにいたカドルーにぶつかる。彼もまた絶句して無残な亡骸を凝視していた。


「……かなり時間が経っているようですね」


 青ざめながらも遺体を検分したナイトハルトが呟いた。彼は目を上げ、鞍に括りつけられた袋を気の進まない様子で改めた。彼の端整な顔がいわく言い難く歪んだ。彼はそっと中から一房の金髪を摘んでキリアスに示した。


「彼女です」


 キリアスは黙って唇を噛んだ。気を取り直してカドルーが呟いた。


「降ろしてやらなきゃ……。おい、手を貸してくれ」


 数人掛かりで遺体を慎重に降ろし、首をあるべき場所に戻した。すっかり血の気をなくした顔は紙のように白く、端麗な彼女の顔だちと相まってどこか作り物めいていた。


「身体にも頭部にも傷は見当たりません。生きながら首を一刀両断されたようだ」

「……あいつがやったんだ。ナヴァドの仕業に決まってる」


 キリアスは歯ぎしりして低く唸った。奴は言った。『次に会った時には殺す』と。奴はそれを早くも実行したのだ。


「それにしても、姫様はどうしちまったんだ? ギーゼラと一緒に行ったんじゃないのか」


「捕まったと考えるべきでしょうね。殺されたのなら一緒に送り返されてくるはずだ。だが、それならそれで身代金の要求なり何なりがあってもよさそうだが……。脅迫状の類はどこにも見当たりませんね」


「探しに行く」

「お待ちください」


 ふたたび出て行こうとするキリアスを、ナイトハルトが遮る。キリアスの瞳が突然激昂に燃えた。


「どけ! アーシファは俺にとって妹みたいなもんなんだ、放っておけるかっ」

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