第26話
それは今から十五年ほど前のことになる。その時のことは記憶にない。ギーゼラはまだ四歳だった。兄のダリオンは十歳だったから記憶はしっかりしているはずだが、詳しいことは何故か教えてくれなかった。
「両親のことはぼんやりと覚えています。ふたりとも優しかった……。召使のたくさんいる広い屋敷に住んでいたように思いますが、思い込みかもしれません」
暗殺団に売られた兄妹の境遇は過酷だった。生きるために武器の使い方を習い、人を殺す手段を叩き込まれた。
「わたしはまだ幼かったことと、兄が懸命に交渉してくれたお蔭で団の下働きで済みました。暗殺団は旅芸人の一座に偽装していたのです。でも、わたしを庇ったために兄は二人分の働きを要求されました。幸か不幸か兄はとても優秀で……、団に売られて二年後にはもう一人前の暗殺者として働いていました」
まだたったの十二歳。地獄だったはずだ。ダリオンは暗殺の手腕に長けていただけでなく、とても綺麗な顔をしていたから……。それでも彼は何ひとつこぼさず、妹の手にできたまめを優しく手当てしてくれた。
「まめが潰れた痛みなんて、兄の負った苦痛や屈辱に比べたらなきに等しいものなのに。わたしが少し大きくなって、客を取れと強制された時、初めて理解できたんです。その時も兄が庇ってくれた。どんな仕事でもするから、わたしにそんなことをさせるなと」
その頃にはダリオンは団で一番優秀な暗殺者になっていた。彼を縛りつけるために、団はギーゼラを利用したのだ。
「その暗殺団に、ナヴァド・ラガルもいたのです。彼は兄より一歳か二歳年上で、わたしたちより前から団にいました。売られたのではなく、親を亡くして食い詰めて自分から入ったようでしたが……」
年が近かったせいか、ナヴァドとダリオンは団の中では一番親しかった。ギーゼラにも、ナヴァドはわりと優しく接していた。十年以上も共に暮せば、人殺しの集団であってもある種の帰属意識が芽生え始める。ましてやごく幼い頃に攫われてきたギーゼラには元の家族の思い出がほとんどなく、他に世界を知らない。逃げ出したいといつも心の奥で願ってはいたが、どうせ無理だという諦めていた。
そんな妹の気持ちを察し、ダリオンはひそかに逃亡計画を立て始めた。今から三年前のことだ。彼は二十二歳、ギーゼラは十六歳になっていた。
その頃になると、兄とよく似たギーゼラの美貌はカモフラージュである旅芸人の一座にとっても遊ばせてはおけなくなっていた。ふたりは旅芸人としては主にナイフ投げを演じており、美貌の兄妹の芸は人気があった。
見物にきた裕福な婦人たちは、終演後にダリオンを連れ出すのに喜んで大金を払った。同様に、旦那衆から妹を一晩買いたいという申し出がちょくちょく出始め、断るのに座長が苦労するようになったのである。
それ以上に、客を取らせれば得られるであろう収入を棒に振るのが惜しくもなったのだろう。兄の許可が絶対に得られないと承知しているので、座長たちは反対にギーゼラを責め始めた。おまえを遊ばせておくためにどれだけ兄が苦労していると思う、などと言われては突っぱねる気力も損なわれる。
しかし暗殺団を抜けるのは至難の業だ。逃亡したところで追手がかかり、連れ戻されて罰を受けるくらいで済めばまだしも、悪くすれば口封じのために殺されかねない。よくてもギーゼラは否応なく客を取らされ、ダリオンは今度は妹の命を贖うために酷使されることだろう。
唯一逃げ込める場所──それは神殿である。それも、なるべく大きくて警備のしっかりした神殿でなければだめだ。神殿には逃げ込んできた者が譬え犯罪者であろうとも、慣例として三日間は保護する。その間に、その土地の統治者に暗殺団の情報を売りつけるのだ。
それにはイシュカの神殿が最適に思われた。イシュカの中央神殿の神官長は代々王族出身者が務め、王家との結びつきは他のどの国よりも強い。治安を乱す暗殺団の情報を、国王は喜んで買うだろう。対価として神殿での保護を要求するだけなら安いものだ。
ちょうどうまい具合に一座はイシュカに入った。ギーゼラは座長に身を売ることを承知するので神殿に参拝させてほしいと頼んだ。監視はついたが、隙を見て神殿に駆け込み、首尾よく庇護されることに成功したのである。
「……でも、兄は現れませんでした。警戒されないように、別々に神殿に行くことにしたのですが」
ギーゼラは溜息をついた。
「三日過ぎても現れなかったら、知ってる限りのことを話せと言われていたので、神官長に目通りを願い出てすべてを打ち明けました。すぐに王に知らせが行き、軍が差し向けられると──、一座が借り上げていた宿はすでに全焼していたのです」
一座の者はすべて死んだ。焼け死ぬ前に全員殺されていたのである。遺体は男女の区別もつかないほど損傷が激しく、神殿に運び込まれた遺体を見てもギーゼラにはどれが兄なのかわからなかった。
「ともかく人数があっていたので、てっきり兄は死んだと思ったのです。もちろんナヴァドも……。でも、フォリーシュの将軍の名がナヴァド・ラガルだと聞いて、彼は生きていたのかと驚きました。それで、どうにかして彼に事情を聞けないかと。彼が生きているということは、団には関係のない人がひとり死んでいるわけですし、何故あんなことになったのか、どうしても知りたかったのです。ひょっとしたら兄は反逆がバレてナヴァドに殺されたのかも……」
「でも、そのナヴァドが実はお兄さんだった、と」
「生きていたなら、何故兄は神殿に現れなかったのでしょう。どうしてわざわざ別人の名前を騙って傭兵になったのか。兄は人殺しなどやめたいと言っていました。合法と非合法の違いはあれど、暗殺者と傭兵では変わりはないではありませんか」
激した口調で言い、ギーゼラは掌に顔を埋めた。
「……それより悪いわ。兄は死餓鬼なんておぞましいものまで使って八葉州全土をめちゃめちゃにした。いったい何を目論んでいるのか……、何としても兄を止めないと」
決意のにじむ声で呟いたギーゼラは、ハッと顔を上げた。入り口で物音がする。アーシファの腕を取って引き起こすと、手近にあった衣装箪笥に有無を言わさず押し込んだ。
「これを持って。いいですね、絶対声を出さないで。わたしがいいと言うまで出てきてはいけません」
靴底に仕込んであった短剣を押しつけると彼女は扉を閉じた。急いで鍵穴から覗くと、離れていくギーゼラの背中が見えた。入り口の扉が開く音がしたが、鍵穴からは見えない。ギーゼラは反対側の壁際に立って入り口の方を見ている。やがてアーシファの限られた視界に白い人影が入ってきた。
白いマントを羽織った甲冑姿の男だ。後ろ姿なので顔はわからない。髪は金色。背はとても高いようだ。しばらくふたりは黙って互いに見つめ合っていた。
「……ギーゼラ」
やがて男が呟いた。深みのある響きのよい声だった。
「兄様。やっぱりダリオン兄様だったのね」
「まさかあんなところにおまえが現れようとは。危うく殺すところだった」
「生きていたならどうしてイシュカの神殿に訪ねてきてくれなかったの。ずっと待っていたのよ。それに……どうしてナヴァドを名乗っているの。本物のナヴァドはどうなったの」
男は低く笑った。
「死んでるよ。俺が殺した」
「火事で死んだ人数は合ってるわ。兄様が生きているなら、あれは誰」
「ナヴァドの女だ。ナヴァドは自分も暗殺団を抜けたいと言って、協力しようと持ちかけてきた。馴染みの女と一緒になって堅気の商売がしたいなんて言ってな。そのためには暗殺団を解体するのが一番だ」
ギーゼラは目を見開いた。
「……兄様が殺したの……!?」
「半分はナヴァドがやった。おまえが神殿に逃げ込んだと知らせに戻ってきた者を俺が殺して、終わったと思った途端にナヴァドが俺を刺した。奴は最初から俺も殺す気でいたんだ。そこへナヴァドの女が来た。知ってたんだな、平然としてた。奴らが金目の物をかき集めている間、死にかけた俺は裏切ったナヴァドを殺すことだけを考えていた。だが、身体が動かない。奴も素人じゃないからな。ちゃんと急所を刺してくれたよ。俺の剣は手の届かない場所に転がっていた」
ギーゼラの兄が含み笑う。
「代わりに影を動かせたらいいのに、と願ったよ。そうしたら、どういうわけか本当に俺の影がむくむくと立ち上がって、剣を掴み、ナヴァドを斬り捨てた。唖然とした女が叫びだす前に、女も殺した」
絶句して、ギーゼラは張り裂けそうに目を瞠っている。
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