第21話

 キリアスは走り出すと同時に、背中につくほど振りかぶった剣を打ち下ろした。遠心力を載せた斬撃を鍔で受け止め、切っ先を撥ね除ける。


 連続する刃音に否応なく高揚感が渦巻いた。身体が熱くなっても頭は逆に冴えてゆく。置き去りにされた心の叫びはどんどん小さくなって、それでもやむことなく響いていた。


(そっか……。俺は恐れてたんだ)


 一線を越えたらもう後戻りができないと、知っていた。思い出したくなかった。優しい人たちに囲まれて、温かな日常に浸っていたかった。死線上で命を遣り取りすることに興奮するなんて、人として絶対おかしい。


(師匠の言ったとおりだ。俺は異常だ。だって今、すげぇ楽しい……)


 どう見ても押されてるのに、死が目前に迫っていることを肌身で感じているに、ゾクゾクするのは恐怖のためではない。


 面白いのだ。楽しくてたまらない。頭の中で組み立てる戦術を一瞬ごとに修正しながら刹那を戦い続ける。思考と身体の反応が絶妙な連鎖が快感を生む。こんなふうに戦える相手はそうそう見つからない。


 それなのに、何かが足を引っぱる。無心に浸りきることができない。煩わしさで苛々する。そんな自分を叱りつけるように、握った剣を通して心に深く刻み込まれた傷の疼きが伝わってきた。まったき修羅の世界に踏み込むのを妨げているのは、守れなかった大切な人たちの面影だった。


 幸せだった日々と城門に並んだ家族の首とが交錯する。筋がいいと幼い自分を褒めてくれた師匠のがっしりした大きな手。憤怒と憎悪を隠そうともせず自分に刃を向けた師匠を見た時の言いようのない思い──。


 そんなとりとめもなく手放し難い記憶が、研ぎ澄まされた毫の世界にひびを入れる。


 受け流され滑った切っ先が、ナヴァドの腕を突き損ねた。脇の下をすり抜ける剣を抱え込まれる。ナヴァドは片手を離して自分の剣の半ばを掴み、キリアスの剣に強く押しつけながら身体を回転させた。


 断末魔の叫びのような異音が響き、剣がまっぷたつに折れた。柄頭で手を強打され、同時に足を払われる。激しく床に叩きつけられて一瞬息が止まった。


 気がつくと喉元に漆黒の刃が突きつけられていた。手の届かない距離に虚しく転がっているふたつに折れた剣を、愕然とキリアスは見つめた。夢から醒めたように現実感覚が戻ってきた。


(兄上……。兄上の剣が──)


 冷たい汗が背を流れ落ちる。自分は何をしていたのだ? ギドウを亡者にし、かつての主の一族と国を裏切らせた男を倒そうとしたのではなかったか。それが、いつのまにか殺意を忘れ、命懸けの際どい遊戯にのめり込んでいた。


 ちくりと喉を剣先が刺す。麻痺した頭で見上げると、ナヴァドは何の感情もない平淡さで見下ろしていた。


「あなたも引き裂かれているようだな、キリアス王子。大事なものはいつでも足を引っぱる。何もかも捨ててしまえば楽なのに、生きている間はそれができない。自分の本当の望みが何なのか、一度死ねばはっきりする。……もっとも、とっくにあなたはわかっていそうだが」


 自嘲めいた微笑がナヴァドの唇をかすめる。切っ先に力が籠もった瞬間、ふっとそれが消えて頭上で金属のかち合う音がした。床に落ちた短剣ダガーがくるくると回る。


「キリアス様!」


 凛とした女の声が響きわたる。それがギーゼラの声だと気付いた時には、彼女はナヴァドに向かって剣を叩きつけていた。


「……馬鹿! やめろ、おまえのかなう相手じゃない」


 キリアスは跳ね起きたがとても間に合わなかった。煩げに振り払ったナヴァドの剣が、瞬時に反転してギーゼラの肩口に振り降ろされる。避ける暇をあらばこそ、為す術もなく立ち尽くギーゼラの首元でぴたりと剣が止まった。


 ナヴァドの表情がはっきりと動くのを、キリアスは初めて見た。いかなる時も平淡に凪いでいた蒼い瞳が不穏に波立ち、大きく見開かれている。対するギーゼラもまた、驚愕に口を半開きにして相手を見返していた。


「に……」


 何か言いかけたギーゼラの顎下に、黒い刃が突きつけられる。すでにナヴァドの表情は元に戻っていた。彼は切っ先を彼女に向けたままゆっくりと後ろに下がった。片膝立ちのキリアスを横目でちらりと見る。


「……一度だけ見逃してやろう、キリアス王子。次に会った時には殺す」


 白い姿が灰色になり、急速に黒ずんで闇に同化する。氷刃のごとき気配がぷつりと途絶えた。キリアスは忌ま忌ましげに舌打ちした。


「それはこっちの科白だよ」


 振り向くと、ギーゼラはだらりと剣を下げたまま茫然と闇を見つめていた。

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