第3章 裏切りの新月
第15話
ギーゼラを加えた一行は速度を上げて街道をひた走り、ネドラム領を抜けた。ジャリード領に入ると警備に立つ兵士の姿が目立ち始めた。ジャリード軍の中枢部は問題なく機能しているようだ。街道沿いに軍が駐屯しているせいか、徘徊する死餓鬼に出くわすこともなくなった。
最初の検問で足止めされたものの、キリアスの持つヴァスト王の印章指輪が功を奏し、ジャリード兵がひとり先導にたってくれた。おかげで王城までの道程はスムースだった。
城に着くと、さほど待たされることなく王が現れた。ジャリード王カスラーンはアルフレートよりも少し年長、三十代前半の逞しい男だった。顎に短いひげをたくわえ、目がぎょろりとしている。
「ご無事で何より! 兄君たちのことは残念至極だが」
キリアスの手を両手で掴んで揺さぶりながらカスラーンは吼えた。やたらと声が大きく動作が派手な男である。顔を合わせるのはこれが初めてだが、腕自慢の自信家だと聞いている。第一印象は確かにそのとおりだ。
ナイトハルトとカドルーを紹介されておざなりな相槌を打つと、カスラーンは舌なめずりでもしそうな顔つきで女性ふたりを眺めた。
「で、こちらの美しいご婦人がたは」
「こっちは遠縁の娘でアーシファ。もうひとりはイシュカの神殿騎士ギーゼラどのです」
じろじろと眺め回され、アーシファは不快感で鳥肌がたちそうだった。大きな目はいかにも好色そうなギラギラした光を放っている。
「見ればお二方とも腕に自信がありそうですな。いや、助かります。正直一人でも多くの戦力がほしいところでね」
王の案内で城壁の上に出た。大勢の弓兵が矢狭間に張りついていた。長弓ばかりでなく弩もかなりの数を揃えている。矢狭間の間から覗き込んだアーシファは思わず息を呑んだ。
広々とした牧草地を挟んで広がる森に、こちらを向いて陣が敷かれていた。
「フォリーシュ軍だ」
挑みかかるような口調でジャリード王が言った。
「情けない話だが、シャルとの国境は突破されてしまった。数日前に現れ、以来ずっと睨み合いの状態だ」
「……死餓鬼じゃない。普通の兵士みたいだ」
敵陣をじっと見つめながらキリアスは呟いた。
「斥候の報告によれば、敵陣に死餓鬼の姿はないそうだ」
「今度はまっとうな戦いをするつもりなんですかね」
疑わしげにナイトハルトが眉根を寄せると、ジャリード王は自慢げに胸を張った。
「我が領内では死餓鬼の害はほとんどない。最初に城を襲ってきた時にほとんど始末できたからな」
「城内に侵入されなかったのですか」
「ほとんど城壁で阻止できた。壁を這い登ってきたところに矢を射かけただけでボロボロ落ちる。もっともそれくらいじゃ死なないが、高いところから落ちれば骨折して動けなくなるからな。城内に入り込んだ奴らも数体いたが、何せ奴らは動きが鈍い。落ち着いて対処すれば女子どもでも始末できる。ま、動き回る死体に出くわしたらパニックを起こしても無理はないが」
カスラーンが皮肉っぽく横目で見る。カッとなって言い返そうとしたキリアスの足を、さりげなく、かつ強烈にナイトハルトが踏みつけた。固まるキリアスを尻目に、ナイトハルトは愛想よく尋ねた。
「ジャリードの兵は勇敢なだけでなく冷静沈着でもあるわけですね」
「我が兵はあのような子供騙しの妖術に惑わされたりはしない」
「そうでしょうとも」
ナイトハルトの追従に、カスラーンはまんざらでもない顔で顎を撫でた。おだてに乗りやすい男である。
「フォリーシュは何か要求をしてきたのですか?」
「またもや〈竜の宝珠〉を渡せとしつこく言って来おった。今度はまやかしの仮面ではなく、正式なフォリーシュの使者だったが。笑い飛ばしてやったら、次の新月まで待つ、これが最終通告だと負け惜しみを言ってすごすご引き下がったよ」
「次の新月は……」
「明後日だ。万全の体勢で備えている。死餓鬼はほとんど始末した。死餓鬼が使えなければ、フォリーシュの兵力などたかが知れている」
自信たっぷりのカスラーンは自慢たらしく城を案内して回った。元々自信過剰な性格だったのだろうが、以前の戦いで唯一ジャリードだけが城と宝珠を守りきったことがそれに拍車をかけたらしい。彼はフォリーシュ軍など死餓鬼の数を頼むだけの虚仮威しの軍にすぎないと断じた。
招かれた晩餐の席でもジャリード王はこちらが辟易するほど意気軒昂だった。酒が入るといよいよ露骨な目つきでアーシファとギーゼラを舐めるように見た。彼はしばらく前に奥方を病気で亡くし、跡取りはまだいないという。
話の端々から察するに、同盟国のシャルに先手を打たれたことがよほど悔しかったらしい。シャルがアルドとの戦いで疲弊した隙をついて征服し、一気に王手をかける腹積もりでいたようだ。シャルが陥落したことについては、むしろ喜ばしげな口ぶりだった。
部屋に引き取ると、キリアスは憤然と吐き捨てた。
「何だ、あいつ。まるでヴァストの兵が臆病者みたいに言いやがって! それにアーシファのことをいやらしい目つきでじろじろ見てたぞ。ぶん殴ってやろうかと思った」
アーシファとギーゼラは別に一室をもらい、すでにそちらへ引き上げている。うーんと唸り、カドルーが頭を掻き回す。
「ジャリードの死餓鬼は特別にやわなのか? 鈍い、トロい、と盛んにジャリード王は言ってたけど。確かに昼間はそうでも、夜になるとあいつら俄然生き生きしやがるでしょ。ジャリードでは違うんですかねぇ」
「だったらジャリード人は生きてる時からトロいってことだろ!」
「何か他にはない特別な要素があったのかもしれません。死餓鬼が思ったように動かず、城を落とせなかった。それで侵入できず〈竜の宝珠〉を奪えなかった……」
「特別な要素って何だよ?」
カドルーが顔をしかめる。キリアスはふと思い出して尋ねた。
「ハル、さっきジャリード王に花がどうとか訊いてただろ。あれ何のことだ?」
「え? ああ、オリバナのことですか。いや、ちょっと気になったものですから」
城壁から降りる時、何気ない口調でナイトハルトがジャリード王に話しかけたのである。以前、この季節にジャリードに来たことがあるが、城の周りに変わった花が咲いてましたね、と。
それはオリバナだとジャリード王は答えた。ちょうどこの前の新月、死餓鬼が現れた頃には城の周りに絨毯のように咲き揃っていたという。そろそろ花期も終わりかけ、防御柵などを作るために踏み荒らされてしまったので、今はもうほとんど見当たらない。
「その花、死餓鬼と何か関係でもあるのか?」
「確信はありません。ここへ来て、ふっと思い出したんですよ。ジャリード以外では見かけない花でしてね。ちょっと変わった匂いがするんです。ここらでは虫よけや防腐剤に使ってると聞いて、商品にならないかなと思ったんですが、結局その時は商談するまでにはいかなくて、流れてしまいましたが」
「変わった匂いって、どんな?」
「とある匂いに、とてもよく似ているんです。乾燥させると特に。――乳香ですよ」
「乳香って、神殿で焚く香だよな」
「金色の樹脂で、燃やすと白い煙が出る。甘くて少し松脂臭いような匂いがします。ギーゼラが言ってたでしょ。死餓鬼は神殿には入って来ないって。神殿ではつねに乳香の煙を絶やしませんからね。そして死餓鬼が最も頼っている感覚は――嗅覚」
「その乳香と似た匂いのする花が、あの新月の夜に城の周りに咲いてた……。死餓鬼の動きが鈍かったのはそのためか?」
ナイトハルトは薄く頷いた。
「断言はできませんが、可能性は高いのではないかと」
「おいおい、それってヤバくね? だってその花、もうないんだろ」
「少なくとも生花はないな。乾燥させたのがあればいいが」
「カスラーンに教えてやった方がいいよな……」
「あの王様、妙に自信満々だから素直に聞きますかねぇ」
キリアスの呟きにカドゥルーは半信半疑に首を捻った。考え込んでいたナイトハルトがニヤリとした。
「ま、どっちにしろ安全策は講じておいた方がよさそうだ」
「また悪巧みしてやがるな」
ぼそりとカドゥルーが呟く。ナイトハルトは詐欺師的に爽やかな笑顔になった。
「ともかく油断はしないことです。ジャリード王が私たちを狙ってくることはないでしょうが、敵がいつどんなふうに動くかわかりません」
「フォリーシュは明後日までは待つって言ったそうだが」
「死人を叩き起こして使い捨ての兵隊に仕立てるような奴、私は信用できませんね」
「ジャリード王も信用してないだろ。宝珠のことを喋るなって、城に入る前からやかましく言ってたもんな」
「用心したまでですよ」
涼しい顔でナイトハルトは笑った。
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