Bitter Moon II

第14話

 女の首が横たわっていた。辺りは血の海だ。鮮血が女の全身を紅く塗りあげている。


 美しい女だった。まだ二十歳そこそこの若い女。キリリとした美貌を穢すのは己自身の流した赤い血だ。美しく波うつ金髪もまた無残な色に染まっていた。


 澄んだ翠の瞳を瞠り、女はこちらを凝視していた。まるで何かを訴えかけるように。見ている。見つめている。


 断ち切られた首と胴体のわずかな距離が、彼我の無限を突きつける。それは一度飛び越えたら戻って来られない絶対境界。指一本分もないその隙間が、生と死を截然と隔てる。


 女の顔はとても悲しそうだ。絶望が女の美貌を深めている。翠の瞳を薄く覆っていた涙の幕が破れて、長い睫毛の先から雫が滴り落ちた。頬を滑る涙で頬を汚す血が拭われた。


 女の唇がゆっくりと動く。何かを語りかけている。だが何を? 女の声は聞こえない。青ざめた薔薇色の唇が言葉を紡ぐ。繰り返し、繰り返し。なのにそれは聞こえない。


 聞こえない。




「――――――っ!!」


 暗闇の中、跳ね起きた。


 心臓が狂ったように脈打っている。火照った肌を冷たい汗が流れ落ち、産毛が逆立つ。膝を抱え込み、精一杯身体を丸める。そうしていないと心臓が飛び出してどこかに行ってしまいそうだった。


 どれくらいそうしていただろう。ようやく動悸が収まり始め、膝を抱え込む腕からそろそろと力を抜いた。腕はすっかり痺れていた。ホッと息をついた瞬間、ギクリと身をすくめた。誰かいる! それも少し手を伸ばせば届く距離に。


 幕舎に灯はなく、真っ暗だ。せめて月が出ていれば白い幕を透かしていくらかでも様子を窺えるかもしれないのに。


 耳を澄ますと何者かの静かな呼吸が聞こえた。誰だか知らないが、相手は眠っているようだ。座り込んだままじりじりと後退りしていると、急にがくんと腰が落ちた。


「きゃ……!?」


 反射的に悲鳴を上げると同時に尻と背中にドスンと衝撃が来る。寝台から落ちたのだ。むくりと誰かが起き上がる気配がした。カチカチと音がして灯が灯る。半身起こした男が、ランプを掲げて不審そうにこちらを見ていた。金髪が炎を反射してきらめく。昼間、幕舎に来た男だった。


「……何をしてる」


 直前まで眠っていたはずなのに、男の顔にはゆるみがない。ぺったりと床に逆手をついたまま答えられずにいると、男は軽く鼻を鳴らした。


「寝相が悪いんだな。あまり端に寄るなよ」

「あ、あの……。どうしてあなたが……ここに……?」


 どうにか気を取り直して尋ねた。何故、この男が自分と一緒に寝ているのだ? 問われた男はこともなげに答えた。


「ここは俺の幕舎だ。ここで休むのは当然だろう」

「あなたの!?」

「そうだ。主は俺、おまえが居候だ」

「居候……」


 そういえば昼間訊きそびれた。


「あのー……、わたし、どうしてここにいるんでしょう?」


 男は寝台脇の小机にランプを置き、溜息混じりに頭髪を掻き回した。


「――本当に記憶喪失なのか」

「そう……みたい、です」

「おまえはな、コソ泥だ。たぶんな」


 男の言葉に目を瞠る。


「わたし、泥棒なの!?」

「ひょっとしたら密偵スパイかもしれん。どっちだ?」

「わ、わかりません……」


 どちらもまったく心当たりがない。思い出せないのだから心当たりなどあるもないもないものだが。


「ともかく、おまえにケガをさせたのは俺だ。そんなつもりはなかったんだが、まぁ謝る。傷が癒えるまでは面倒を見てやるよ。尋問は思い出してからでいい」


 男はどさりと身を横たえた。


「座り込んでないで上がったらどうだ? 床の寝心地はそんなによくないと思うぞ。どうしても床で寝たいと言うなら止めはしないが。――寝る時はランプ消せよ」


 そういうと男は目を閉じてしまった。おそるおそる起き上がって男の顔を覗き込む。男はすでに寝入っていた。そっと突ついてみても反応はない。覚醒するのも早かったが呆れるほど寝付きがいい。


 寝台にぺたりと座り込んで、しばらく男の寝顔を眺めていた。ふと、目覚める直前まで見ていた夢を思い出した。男の寝顔は、夢の中の美しい生首女と少しだけ似かよった面影があるような気がした。


 急に怖くなってぶるっとかぶりを振る。あの夢はただの夢だろうか。それとも失われた記憶の断片なのか。もしそうだとしたら――、女の首を切ったのは誰……?


 違う! あれはきっと意味のない夢だ。だってあの切られた首は何か言っていた。聞き取れなかったけど、唇が動いていた。そんなこと、現実ではありえない。


 男の上に身を乗り出してランプに手を伸ばす。眠っている男の顔は穏やかだった。頭のケガは自分のせいだと彼は言ったが、何だか信じられない。何を信じていいのか、本当はわからないのだけれども。


 思い切ってランプを消した。横になって上掛けをかぶる。さっきは怖かった手を伸ばせば触れられるほどの距離が、今は逆に安心感を与えてくれるような気がした。


 規則正しい男の寝息をぼんやり聞いているうちに意識が遠ざかった。今度は悪夢は見なかった。




 朝になって目覚めると、男の姿はもうなかった。起き上がってはみたものの、下着姿だし、櫃を覗いてみても自分が着られそうなものはない。垂れ幕のめくれる音に振り向くと、入ってきたのは男ではなく、背の低い小太りの女だった。大きなボウルと水差しをテーブルに置き、女が手招く。おずおず歩み寄ると、女はぼんやりした目つきで洗面具を指さし、そのまま何も言わずに出て行った。


 顔を洗い終わる頃、ふたたび女が現れた。今度は腕に服を下げている。女は口をもぐもぐさせて服を広げた。仕立てのよい上等な衣類だ。着替えが済むと手を引かれて外に出た。思わず息を呑む。見渡す限り白い幕舎が建ち並んでいた。


 ちょうど食事の時間らしく、食べ物の匂いが漂ってくる。大きなテントの前に人だかりがしていた。大勢の兵士がベンチに座ったり、幕舎の前に座り込んだりして食事している。行き交う兵士たちが物珍しげに自分を眺めた。


 やや離れた一角にテーブルの置かれたテントがあった。昨夜の男が気付いて顔を上げ、かすかに微笑んだ。男の周囲にいた数人の騎士は、黙礼して去っていった。ここまで連れてきてくれた女も、やはり一言も口をきかないままどこかへ行ってしまう。


「座ったらどうだ? 腹が減っただろう、何か食べるといい」


 そう言われて座った途端小さくお腹が鳴り、思わず赤面した。


「眠れたか?」


 穏やかな問いにこくんと頷く。目の前に四角い盆が置かれて振り向くと、さっきの女がいた。


「あ、ありがとう……」


 ぼんやりと見返し、女は相変わらず黙ったまま引き下がった。固いパンをスープに浸しながら食べていると、男が尋ねた。


「何か思い出したか? 名前とか」


 眉根を寄せて少し考え、首を振る。必死に思い出そうとしても、暗闇の中を掻き回しているだけで何も掴めない。


「ふむ。名前がないと不便だな。何か呼び名をつけよう。何がいい?」


 そんなこといきなり言われたって。困惑して考え込んでいると、男がふと思いついたように呟いた。


「リコリス。リコリスはどうだ。おまえのその派手に広がる真っ赤な髪を見て、あの花を思い出した。リコリスはわかるか?」


「え……と……。赤くて、茎が長い花……? 葉っぱが後から出てくる」

「そうだ。開けた草地によく生える。特に戦場跡なんかに多い。――ふむ。そういう一般的なことなら思い出せるんだな。自分が誰だかわからないだけで」


 手にしたパンを戸惑って眺める。これは『パン』だ。『スープ』、『お碗』、『テーブル』、『空』、『地面』。一般名詞ならすらすら出てくる。なのに、自分のことだけわからない。


「戦場に咲く花ではちょっと物騒だな。別なのがいいか」


 急いで首を振った。


「いい。リコリスで。――リコリスが、いい」


 そうか、と男は微笑んだ。ふと気付いて尋ねた。


「あなたは?」

「俺? ああ、名前か。まだ言ってなかったな。俺はナヴァド。ナヴァド・ラガル」


 手にしたパンがスープの中に落ちる。何か鋭いもので刺し貫かれたような気がして、胸を押さえる。


「どうした? 気分でも悪いのか」


 何でもない、と首を振る。何故だろう、胸がズキズキする。


 ナヴァド。ナヴァド・ラガル。


 知ってる? 知らない? わからない。でも何故だか胸が痛い。


 ナヴァドが興味深げに見ている。端整な口許に浮かぶ不可解な微笑。


 すっかりふやけたパンを摘み、口へ運んだ。胸に空いた穴に温かくてしょっぱいスープが流れ込む。


 涙みたいだと、思った。

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