第2章 死餓鬼の将
第7話
暗い街路を少女は必死に走っていた。
後ろから不気味な足音が追いかけてくる。べたっ、べたっ。腐りかけた剥き出しの足が敷石に黒い足跡をつける様が思い浮かぶ。ぞっと産毛が逆立った。
街路の上に渡されたランタンが、火を灯されないまま夜風に揺れている。夜間の外出を禁じる参事会命令が出ると、当番の家が蝋燭を惜しんで点けなくなった。こんなご時世に夜間うろついているのは化け物か盗賊だけだ。
夜回りの自警団は松明を持っている。だったらわざわざ貴重な蝋燭を無駄にすることはない。
もちろん少女も外出禁止令は知っていた。だが、しばらく前から寝込んでいる母の具合が急に悪くなったのだ。
間の悪いことに薬を切らしていた。咳が止まらない母の背をしばらくさすっていたが、意を決して薬を買いに行くことにした。
言えばきっと止められるから、母には黙って家を出た。父は自警団の当番で見回りに出ている。
薬屋は隣の街区だが、そう遠くはない。全速力で走って行って、扉をドンドン叩いた。
やがて声を聞きつけて起きてきた薬屋の主人は、扉の覗き窓から疑り深そうに少女をじろじろと見た。薬は出してくれたものの、やはり窓越しだった。文句は言えない。言う気もない。今は誰もが疑心暗鬼。薬を出してくれただけで恩の字だ。
包みを抱えて走り出してすぐ、誰かが追いかけてくるのに気付いた。振り向くとわずかな月明かりに黒々とした人影が見えた。手探りするように両腕を突き出し、ふらふらと左右に大きく揺れながら歩いている。悲鳴を押し殺し、速度を上げた。
べたっ、べたっ。薄気味悪い足音が、弾むように着いてくる。いつか父が言っていた。奴らは跳ぶんだ、と。歩くときはふらふらと足元が覚束ないのに、急に走り出したかと思うと蛙のように跳んだという。
今もきっと跳んでいる。だって、どんなに足を速めても追いかけてくる足音はどんどん近づいてくる。どんどん。どんどん。
早く早く。家に入るのだ。鍵、鍵。大丈夫、エプロンのポケットにちゃんと入ってる。この角を曲がればすぐ──。
少女は大きく目を見開いた。目の前には黒々とした壁が立ちはだかっていた。曲がる場所を間違えた。街路が暗くて、焦っていたから……。
振り向くと、黒い影が袋小路の入り口にうずくまっていた。ゆらりと立ち上がったそれが、ふらふらした化け物特有の足取りで近づいてくる。斜めに射し込む月光の中にそれが現れた。
土気色の顔。でたらめな方向を向いた濁った眼。だらしなく半開きになった口。奇妙に膨張した中年の男で、死に装束の晴れ着のボタンが飛びそうになっている。
少女は冷たい石壁に背中を押しつけた。左右は建物の壁。登れるような手がかりもない。絶望して薬の包みを抱きしめた少女は、化け物の胸の真ん中から飛び出した白い刀身に目を瞠った。
不思議そうに見下ろした化け物が、背中から蹴り飛ばされてよろめく。ぐるん、と向き直ると剣を構えた若者がそこにいた。
化け物は形容しがたいひしゃげた叫びを上げ、若者に飛びかかった。若者は軽く身を躱し、一連の動きで化け物の腕を両方とも肩から斬り飛ばした。
片脚を斬られてバランスを崩した化け物の首を水平に薙ぎ、返す剣で残ったもう片方の脚を斬る。瞬きする間に化け物は六分割されて敷石の上に転がっていた。
呆気に取られつつ、少女は父の言葉を思い出した。
奴らは首を刎ねない限りくたばらない。だが、最初に首を刎ねるのは危険だ。反動で滅茶苦茶に暴れるからな。まず、腕を斬る。それから脚、最後に首だ。順番を間違えると厄介なことになる。だけどな、いざその時になると、気が動転しちまってそれどころじゃないんだよな……。
この若者は、動転してはいなかった。一切無駄のない動きで、『正しく』化け物を処分した。息ひとつ乱さずに。歩を進めた若者の姿が月明かりに浮かび上がる。
黒髪の整った顔立ちの少年だった。黒っぽい服装の上に肩当てのついた革鎧を身につけている。
「……ケガは」
ぼそりと少年に問われ、少女は急いで首を振った。
「家は近くなのか」
「あ……、この向こうの通り……」
「送ってく」
ぶっきらぼうに言い、少年は剣を収めた。少女を家まで送り届けると、少年は名乗ることもなく立ち去った。少女は扉を開けたまま、少年の消えた闇をしばらく眺めていた。
少年の暗い黒瞳に胸を衝かれた。底無し沼のように暗い瞳だった。母親の咳き込む音で我に返り、少女は慌てて扉を閉めた。
「──今何時だと思ってるんです?」
しかめっ面の美青年を、キリアスは無言で見返した。青年はわざとらしく溜息をついて眉根を揉んだ。とっくに夜は明けて、市場が開く合図の鐘が鳴ったところだ。
「また一晩中死餓鬼を追い回してたんですか。昨夜の成果は」
傍らをすり抜けながら、キリアスが片手の指を全部立てる。青年はまた肩をすくめた。
「自警団からまた文句が来ましたよ。市民でない者の勝手な行動は迷惑だそうで」
「あいつらただ寄り集まって巡回してるだけじゃないか。死餓鬼に出くわしても取り囲むのが精一杯で、自力では処分できない。そのたびにいちいち傭兵を呼びに行ってるんだぞ。まどろっこしくて見てられない」
「そりゃ仕方ありませんね。自警団は武器扱いに不慣れな一般市民なんだから。それに、死餓鬼になる前の人物と知り合いだったりしたら、やっぱりためらってしまうんじゃないですか」
「……どうせ元には戻せない。とっとと眠らせてやった方が親切だよ」
「ハル!」
階段を駆け降りてくる少女の声に青年は顔を上げた。
「ハル! またキリアスがいないの。知らな──」
「若君ならちょうどご帰館あそばされたところですよ」
アーシファを無視して階段を登り、キリアスは自室に入った。後ろ姿を目で追いながら、アーシファは心配げに呟いた。
「……このところずっとだね、朝帰り」
「昼夜逆転とはいえ睡眠は取ってるみたいだし、食事もしてますからね。ま、大丈夫でしょう。それより、朝食にしましょうか」
青年はにっこりとアーシファに笑いかけた。ハル──正式にはナイトハルトという名のこの青年は、自由都市シャニーエにおけるヴァスト商館の責任者である。
カドルーと同年で二十五歳。代々領事を務める家柄で、三年前に死んだ父の跡を継いで商館を取り仕切っている。
キリアスとアーシファはシャニーエ到着以来ずっとここで世話になっている。城が落ち、王が死んだ今、この商館はヴァスト王の代理というより王国の存続を示す唯一の拠り所なのだ。
シャニーエは地理的にはヴァスト王国の領内に位置するが、独立した自由都市である。八葉州にはこのような自治都市がいくつもあり、都市連合として自治権を持っているのだ。
堅固な城壁に囲まれた都市は、死者が徘徊する異様な事態では最適な避難所だった。とはいえ無制限に避難民を受け入れるわけにはいかないので、身を寄せるあてのない者は入れてもらえない。キリアスたちがすぐに入れたのはヴァスト商館が保証人となってくれたお蔭だ。
昼過ぎに起き出したキリアスが誰もいない食堂で黙々と食べていると、アーシファが顔を出した。
「おはよ、って言うのも変だけど……。部屋を覗いたらいないから、また抜け出したのかと思った」
キリアスは目を上げたが返事はしなかった。
彼は夜間外出禁止令を無視して街をさまよい、死餓鬼を殺して回っている。唯一の王位継承者となったキリアスの単独行動に、もちろんナイトハルトはいい顔をしなかった。
カドルーが一緒に行くと申し出ても無視して勝手に抜け出し、一晩中さまよい歩いては、朝になって商館の扉が開く頃に戻ってくる。
「……ねぇ、キリアス。もしかして、みんなと一緒に食事をするのがいやなの?」
「別に」
キリアスはそっけなく答えた。アーシファの指摘は的外れではない。人と顔を合わせるのがわずらわしくてならないのだ。彼らの目に浮かぶ気遣いを見ると苛々する。
手に持っていた弓をテーブルに立てかけ、アーシファは向かいの椅子に座った。
「カドルーと一緒に中庭で弓の練習をしてたんだ。後でキリアスも一緒にやろうよ」
「やりたくない」
ぴしゃりと撥ねつけられ、アーシファがしゅんとなる。渦巻くような派手な赤毛までしおたれたようだ。胸をちくりと刺される感覚を、キリアスは無視した。
「……叔母様からの手紙、読んだ?」
「ああ」
エレオノーラは警備兵とともに離宮に残った。先日、物資を届けに行った商館員が持ち帰った手紙には心配ないと書かれていたが、気にはなっている。
「やっぱり無理にでも一緒に連れてくるべきだったかな……。そこらじゅうを死餓鬼が徘徊してるでしょ。何かあったら」
「叔母上は一度決心したことは何があっても貫き通す人だ」
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