僕に光をくれた優しい天使の微笑み

じゅん

僕に光をくれた優しい天使の微笑み

 死のうと思っていた…。


 太陽が街の底に沈み、ゆったりと世界が暗闇に染まっていく景色を僕は眺めていた。静かに終わりへと向かっていく空を見上げて、今まで自分の中にあったピースがぴったりとはまり、一つの全体像がつくりあげられていく感覚を覚えた。


 僕は歩みを止めた。街は静かで、周りには誰もいない。


 僕は誰よりも、孤独を愛していた。「僕」という、ちっぽけな存在の意識が外の世界に広がっていくのを感じるのが好きだった。一人ぼっちのとき、僕はこの世界の王様だった。願いはなんでも叶えられるし、すべてが思い通りに進んだ。自分の頭の中だけで世界が出来上がるとき、僕は幸福だった。


 他人と出会うことは、一つの恐怖だった。何を考えているかわからない、全く別の人間を前にするとき、どうしたらいいのか見当もつかなかった。子供の頃、僕は他人の言葉が届かないような遠くの場所に隠れて、身じろぎもせずにじっとしていた。太陽、白い雲、青い空、朝焼け、夕暮れ、電線がかすかに揺れる音、小鳥のさえずり、風の声…。それらに触れるだけで、それだけでよかった。


 大人になるにつれて、そうも言ってられなくなった。生きていくためには、人間と関わらなければならなかった。最初のうち、僕は自分の好きなものについて、孤独の世界に温めてきた様々な発想について、他人に話した。相手は苦虫を噛み潰したような顔をして、まるで奇妙な動物に出会ったかのように逃げていった。それで僕は、次に出会った人間に興味を持ってくれるような、理解してくれるような話をした。その人はとても満足した顔で、僕に語りかけてくれるようになった。


 そうやって僕は、別の人間と話し、笑い、泣き、そして友達になった。友達が思い描く「僕」の肖像は、「優しくて、にこやかで、他人の話を聞いてくれる良い人」だった。「僕」という存在が変容し、そういう型にはめこまれていくとき、僕は自分の中にある心の醜さや残虐さ、壊れそうなほどの脆さを消さねばならなかった…。僕は「本当のこと」を言うのを避けた。きっと、誰もが拒絶し、理解してくれないと思ったから。誰も僕の本当の声を聴いてくれないと思った。


 子供の頃、一人ぼっちの世界で作り上げたさまざまな発想、想像や言語は記憶の底に沈み、いつしか消えてなくなっていた。僕は他人の発想、創造や言語を加工してあたかも自分のもののように使った。いくつもの他人の仮面をつけては外し、他のものに取り換える作業を繰り返して、そうやって生きてきた。僕は「自分の中から生まれてくるいくつもの声」を嫌い、耳をふさいだ。それは僕にしか届かない声だったから。僕は自分が嫌いになっていた。暗い部屋の片隅に体育座りをして、ぼんやりと窓の外にある白い月を眺めている自分の姿が、情けなくて、たよりなくて、今にも崩れていきそうで怖かった。僕はソイツの存在を決して見ないようにして、偽りの言葉を話して、これまで生きてきた。


 多くの人間が僕の前に現れ、何か言って、そして去っていった。彼らが語りかけてくれる言葉を僕は本当の意味で理解できていただろうか?彼らの本当の言葉を僕は聞いていたのだろうか?伝えたいことなんて、なにもわからなかった。結局は自分の世界の中に引き連れて、理解できたような顔をしているだけだ。だから、すべてが演技だったのだ。偽りの自分が、偽りの他人と仲良くなり、本当のことなんて知らないままで、表面だけの言葉を交わす。その中にどれほどの真実を見出すことができるだろう?他人と交差する世界は、仮面舞踏会のようだ。

 

 僕は孤独を懐かしむようになった。その中にある安らぎを夢見るようになった。すべてが理解でき、嫌いだった自分を受け入れることができる安息の地を求めていたのだ。だから。


 死のう。そう思った。


 永遠の無の中へ飛び込もう。僕だけの世界に沈んでいこう。それよりほかには、暗い部屋の片隅にいる自分を救い出すことはできないような気がした。だから、死のう。


 駅のホームで、電車を待っていた。電車が一定の加速度で向かってくるのを待っていた。僕は吸い込まれるように電車へと身を投げる自分について考えた。僕の血が、肉片が、魂が、散らばってホームのあちこちを汚していく様子を想像した。ふと笑いだしそうになった。それは平穏な一日の夕暮れの中で、あまりにも違和感のある光景だった。きっと、誰もが不満そうな顔をして口を曲げるのだろう。死ぬのなら、なぜ一人で静かに死んでくれないのか。どうして他人様の迷惑をかける必要があるのか。許してくれ、世間よ。これが生きてきた僕の、ささやかな最期のわがままなのだ。


「ねえ。これから君は死ぬの?」


振り向くと、制服姿の女子高生がそばで微笑んでいた。


「そうだよ。僕は今から電車へ飛び込んで、自分の意思で死を選ぶんだ。」


「じゃあ、私と一緒だね。」


彼女は嬉しそうに、そして少し寂しそうに、僕の顔をじっと見つめていた。彼女はあまりにも綺麗で、壊れそうな危うさを抱えていた。ああ、そうか。なんとなくわかった気がした。この子はもうこの世にいないんだ。だからこんなにも美しいんだ。


「怖くないの?」


「怖い?」


「私は死ぬのが怖かったの。死んだらどうなるのかとか、全然わからないし。死ぬ瞬間、痛いのかもわからないし。」


「そう思うのなら、どうして死んだの?」


「この世界の方がよっぽど怖かったの。私を取り巻く何もかもが襲い掛かってくるのが、本当に怖かった。どこにも逃げ道がなくて、ずっと暗い闇を歩いていたの。どこに向かっているのかもわからないけど、いつか光が見えてくるはずだって。でもどんなに歩いても、何も見つからなかった。


 この世界が私を拒んでいることがわかったの。だから私も、自分の中にどこまでも入っていこうと決心したわ。だから、ものすごく怖かったけど死ぬことにしたの。」


淡々と語る彼女の唇がかすかに震えているのを、僕の目は見逃さなかった。きっと忘れたい記憶を、思い出させてしまったのだろう。この世界は、恐ろしい。死の恐怖を打ち負かしてしまうほどの、彼女の身体を滅ぼしてしまうほどの恐怖を与えてしまうのだから。


 すべては解釈にすぎない。彼女が感じた恐怖も、絶望も、落胆もすべて妄想、幻にすぎない。それは事実だ。だけどそんなことを彼女に言うことはできなかった。そんな風に冷たく突き放して、彼女の選んだ道を否定するなんて僕にはできなかった。


 僕はこんなにも美しい彼女を死へと追い込むこの世界を憎んだ。どうして彼女が自殺を選んだことを間違いだと言えるだろうか?生きることは常に正しいなんて、そんなきれいごとで割り切ることはできない。それは生きている僕らが、自分自身を肯定するための道具を使っているだけの話なのだ。


「僕は死ぬのが不思議なほど怖くないんだ。たとえ肉体が消えてしまって、目に見える現実から僕の姿が消え去ったとしても、僕は孤独な自分の世界の中でずっと生きているよ。それを望んでいるから、僕は死のうとしたんだ。君はこの世界に絶望して(あるいはこの世界が君に絶望したのかもしれないけど)死んだのかもしれないけど、僕は一人の世界に恋い焦がれているから、だから死を選ぶんだよ。」


「変わっているね。」


彼女は微笑んだ。その優しさに、僕は釘付けになって、動かなくなった。感じたことのない衝動が自分の内側から湧き出てきた。心臓が僕の異変を察したようにドクドクと脈を打ちはじめる。急に手が震えはじめた。温かな感情が全身をゆっくりと満たしていく。


「私、ここで君が死ぬのを見ているわ。だって君みたいな人が死ぬの、珍しいもの。自分の死を、そんなに肯定的に捉える人なんていないわ。君が笑いながら死んでいくのを、ここで見ていてあげる。」


「いいよ。僕の最期の勇姿をそこで見守っていてくれ。」


僕は走ってくる電車の方へ勇敢に向かっていった。正確な速度で僕の目の前へと迫る物体に近づこうと努力した。さあ、いまだ。飛び込もう。


 その瞬間。僕は彼女の微笑みを思い出した。珍しい動物でも見るように奇異な目で笑う彼女の瞳を思い出した。僕は電車の前で止まった。そして振り向いた。驚いたような顔で、壁にもたれながら僕を見つめる彼女を見つめ返した。


「あの…。」


一呼吸おいて、僕は決心したように言った。


「僕とデート、してくれませんか?」


一瞬時間が止まったように動かなかった彼女は、ふと耐えられないとでもいうように笑いはじめた。


「ほんと、君って変わっているよね。今から死ぬって言ってたのに、気が変わったの?」


「君が好きだ。僕は君に出会うために今まで生きてきたんだ。」


僕はその質問に答えず、真面目な顔で彼女を見た。突然の告白に、驚いたように彼女は目をぱちくりさせた。正直な気持ちを伝えることは、どうしてこんなにも自分を傷つけるのだろう。きっと言葉ではどうしても伝わらない感情であっても、言葉にしなきゃいけないからなんだ。


「たとえこの世界が君を拒んだとしても、僕は君を心から愛しているんだ。だから僕のために存在してくれないか。すごく自分勝手なお願いかもしれないけど、今僕は初めて生きる意味を見出したんだ。一人ぼっちではだめだとはじめて思えたんだよ。」


言葉では埋まらないものを言葉で埋めようとして、また台詞を重ねていく。すべては徒労なのか。それでも、いいと思った。この頑張りが彼女の気持ちとつながりますように。心は不思議にも冷静で、純粋だった。きっと僕は、本当の自分になったのだ。彼女は本当の自分を受け入れてくれる唯一の存在なんだ。


「君って、本当に変わっているよね…。」


少し恥ずかしそうに下を向いて、彼女は泣きはじめた。静かにすすり泣く彼女の身体を包み込むように僕は抱きしめた。この時間が永遠に続きますように。そんな願い事をしながら、彼女が泣き止むまでずっと抱きしめていた…。


 


 

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僕に光をくれた優しい天使の微笑み じゅん @kiboutomirai

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