第10話 9.野人ゼライド 2

 ザザザザザザ


 鬱蒼うっそうと茂る下生えの中に、複数の生き物が疾走する気配。

 シティを遠く離れた荒野の只中である。

 ——取り囲んでくれたようだな。

 ゼライドは緩やかに閉じていた瞳をゆっくりと開けた。

 黄昏が深まり、無窮むきゅうに広がる空はダークオレンジに染まっていた。まるで大地を圧するかのような血潮の色だ。

 彼の背丈と同じくらいの槍の様なブッシュが隙間なく地面から突き出ている。その中を彼は悠然と歩いた。彼を取り巻く包囲はどんどん狭まってきているが、気にせず進む。

 やがて前方に大きな岩が色褪せつつある夕闇の中に黒々とうずくまっているのが見えた。

 ーーあれか。

 軽く屈伸すると、次の瞬間ゼライドの体は高く宙を舞った。一瞬でブッシュの海から跳び出す。そして、それに誘われたように彼を追って次々に跳びかかる幾つもの影があった。猿のような形状の獣である。

 ヒュウ

 コートの裾をはためかせ、黒い魔鳥のように舞いながら右手に持った|銃(ガン)で先ず一匹目を仕留める。口径が小さい割りに銃身が長い命中精度の高いものだ。一度に二十発の弾丸を装填できる最新型の銃だった。

 ギシェエーーッ!

 気味の悪い断末魔をあげて獣が吹っ飛ばされ、血の帯を引きながら落下してゆく。

 キャンサー。

 手足の間に半透明の膜をもつ、柔かい毛の生えた比較的小型の獣だ。だが、見かけとはうらはらに鋭い歯を持ち、常に十頭以上の群れで行動する為、襲われたら非常に危険である。

 仕留めた獣には一瞥も払わず、ゼルは空中で二発目、三発目を撃つ。凶暴な獣の血がペンキを撒いたように飛び散る中、彼はゆっくりと岩の上に降下した。

 間髪をいれずに次々に襲い掛かるキャンサーを、銃と、左腕に仕込んだワイヤーで次々に叩き落としてゆく。

 ワイヤーの先には分銅が付いていて、それ自体も武器になるが、ワイヤーを自在に操るコントローラーの役目もする。一見可愛らしい小動物のようにも見えるキャンサーは、ゼライドのふるう銃とワイヤーの前に首を吹き飛ばされ、あるいは胴を断ち割られて固い下生えを体液で濡らした。

 よく晴れた夏の一日の終わり。紫にけぶ薄暮の荒野は一瞬のうちに凄惨な殺戮の場と変わり果てる。

 ——やれやれ結構な数だ。確かに異常繁殖だな。天敵が少なくなったのか、これじゃあここで生活する奴らはお手上げだろう。

 ゼライドは撃ち尽くした銃を投げ捨て、背中から新しい銃を引き抜いた。あれだけ仲間を殺されたのにも拘らず、原初の憎しみに焼かれたキャンサー達は、彼の見下ろすブッシュの影で狙いを定めて息を殺している。

 荒野に安らぎの夜はないのだ。


 思いがけず助けた娘を何とか追い出して直ぐ、ゼライドは彼専属のエージェント、パルミナ・ニールセンに仕事の依頼を打診した。ボディガードでもハンターでも、はたまた港の人足仕事でもなんでもいいから、最低数日はゴシック・シティから離れられると言う条件で。

 パルミナからは何かミスをやらかしたのか、それとも女絡みかとしつこく怪しまれたが、ゼライドは何も言わずに無いなら他を当たると言い捨てて後は黙った。

「オーケイ、ゼル。わかった、わかったわよ。だから私を通さない仕事なんて引き受けないで頂戴。これでもあなたに回す仕事は精選しているんだから。ねぇ」

 彼女の事務所はゴシック・シティのセンターサークルの近くにある一等地だ。質のいスーツに身を包んだパルミナは美しく塗られた指を伸ばして端末の画面をスライドさせる。

「俺に恩を売ろうとするな、パル。その代わり今回の仕事の中身は選ばねぇ。街の外の仕事はあるのか、ないのか」

「あるわよ。それも一杯。……そうねぇ、ロマネスク・シティの有閑マダムの身辺警護なんてどぉ? 浮気相手に付きまとわれているんだって。ペイがいいわよ」

「女はごめんだ」

「何よ、選ばないとか言って、しっかり選んでるじゃないの」

 言葉とは裏腹にパルミナはやや華やいだ口調で応じた。

「すまねぇ、女だけは暫くごめんなんだ」

「あらやっぱり、女で何かあったんじゃない、ゼル。私には隠さないで。どんな女なの?」

 パルミナの声が鋭くなった。

「なにもねぇよ。というか、本当に全く何もない。女が絡むとめんどくさいだけだからだ。他にないのか」

 ゼライドは脳裏をよぎる翠色を懸命に打ち消しながら答えた。

「う~ん。あ~、ならこれなんかどぉ? ちょっと遠いけど、アジャンタ・シティ郊外の耕作地付近にキャンサーが異常発生しているらしいわ。ちょっとした狩猟気分を味わえるかも」

 アジャンタ・シティとはゴシック・シティの南、約二百キロスの荒野のただ中にある比較的小さな町である。

 長い間に苦労して荒れ地を開拓してきた人たちが作り上げた街で、周辺には広大な農地が広がり、ゴシック・シティや他の街に穀物や作物を提供することで成り立っている。

「キャンサーか。小さいな」

 「ええ。普段は森海しんかいに生息して、余り人前に現れない獣だけど、どう言う訳か異常繁殖して餌が少なくなったみたい。三日前、偶々たまたま電流柵の故障していた家禽の飼育施設に侵入し、そこの家禽がほぼ全滅したようなの。応戦しようとした作業員も十数名負傷したとあるわ。内数名は重傷。幸い死者は出なかったようだけど、報告によるとかなりの数ね、施設内じゃなかったらどうなっていた事か』

「それを駆除すればいいんだな」

「ええ、余りに数が多すぎて一人じゃさすがに無理だから、既に何人かのハンターが出向いている筈。でも、ペイはそれほどでもなさそう。あなたには役不足な仕事ね」

「構わん。一人百匹も仕留めれば、だいぶ楽になるだろう。それにキャンサーの肉は美味くは無いが食用になる。毛皮も取れる。被害にあった家禽の分くらいは相殺される筈だ。この依頼、引き受けた。すぐに向かう」


 静寂はいきなり訪れた。

 既に一掃されたのか、それともさすがに群れの数が激減して逃げ出したのか、ひっきりなしに跳びかかってきていたキャンサーが急にいなくなったのだ。ゼライド自身には返り血はほとんどかかっていないが、彼が立っている大岩は、惨たらしい死骸と流れた血でずるずるになっていた。

 辺りは既に陽が落ちて星が瞬き始めている。藍色の空の底辺だけが辛うじてうっすらと赤く、それを背景に立つ影の男。そこには天上の星よりもまばゆい銀青色の二つの輝きが嵌めこまれている。

 ゼライドはおもむろにその長身を屈め、足元に落ちていた獣の死骸を掴み上げた。ぼたぼたと血が滴るが、構わずにそのまま一気に毛皮を引き裂く。

 風がびょおと鳴り、血濡れた枯れ草を吹き上げてゆく。

 まだ暖かい肉をがつがつと喰らう男の姿がそこにはあった。


 結局この三日間、ゼライドは一人で百二十八匹のキャンサーを仕留めた。

 他に三人のハンターがそれぞれ五十匹近くを仕留めたから、この地域のキャンサーは、その数をかなり減らしたと考えられる。

 高級品ではないが黄金色の毛が密生した毛皮も売れるし、肉もある程度の金になる。重傷を負った作業員はまだ入院中だが、ハンターたちの上げた成果にアジャンタ・シティの幹部達はひとまず満足して彼等に報酬を支払った。

「いやぁ、御苦労さま。お陰で助かったよ。知っての通り、ウチは食糧生産で成り立っている町だから、郊外の生産施設で仕事ができないとなれば、街全体の死活問題なんだよ」

「しかし、何でこんなにキャンサーが異常繁殖したんだか。元々獣の中では繁殖力はある方だとは知っていたけれども。……今、専門家に調べて貰っている。最近この世界のあちこちで似た様な事が起きていると言う噂も聞くし……」

「来シーズンも頼むかもしれない。一同感謝する。今夜はゆっくりしてくれ。ただし、町の者には手を出さないでくれ給えよ。女が欲しけりゃ、ちゃんとプロがいる。肉体労働者相手の女達だ、都会の同業者より色々具合がいいだろう」

 最後の台詞はゼライドに向けられたものだった。彼の容貌を見て判断したものだろう。彼は何も言わずに幹部の部屋を後にした。

「いよう、ゼル。お前にしちゃ、しょぼい仕事じゃねぇか」

 後ろから声をかけてきたのは、小山の様な大男だ。

 ゼライドと同じく野人の同業者で、身長は同じくらいだが横幅は倍近く違う。それでも太っているように見えないのは、恐ろしい程に発達した筋肉のお陰だろう。そして矢張り特徴的な風貌をしていた。

 彼の眉毛は左の方は蛇の舌のように二つに分かれている。そしてその下の目は右が平凡な茶色なのに対し、左の目は燃えるような金だった。髪は赤みがかった茶色で、長くて固そうなそれを無造作にオールバックに流している。身に付けているものは殆ど茶系である。皮ジャンに、帽子、そして大昔のカウボーイの様なボトムを身に付けた彼は、さながら雄牛の様にも見えた。黒衣に灰色の髪のゼライドと並ぶとそこだけ空気が剣呑な色を纏っているようだ。他のハンターが何となく遠巻きにする程、雰囲気の異なる男たちだった。

「うるせぇぞヴァルカン。お前こそ何だ。力自慢のおまえにゃキャンサー狩りなんざ、獲物が小さ過ぎやしねぇか」

 面倒そうにゼライドが応じた。

「違ぇねぇ。だが、そうそう俺の金剛力を必要とする仕事なんか転がってねぇからな。ま、喰ってく為ってやつだ。どうだい? 今夜付き合え」

「ふん。俺はもう帰る」

「なんだよ、水くせぇな、久しぶりに一杯やろうや」

「必要ない。……おい、ついてくるな! うっとおしい」

「いーじゃねーか。しこたま稼いでいる癖によ」

 ヴァルカンは荒縄のような腕をゼライドの首に巻き付けた。

「な~、奢れよぉ」

「だからひっつくんじゃねぇ!」


 結局、ヴァルカンに引き摺られて行ったゼライドは、場末の酒場のカウンターに寄りかかってグラスを傾けていた。

 いつもの仏頂面である。酒場は昏い上、二人とも色の濃いグラスを掛けているから容貌は分かりにくい筈だが、それでもこの非常に目立つ男達を、何とかして落とそうと群がる女が引きも切らない。

 酒場は大勢の男達で賑わっていた。

 女たちが群がる二人の男に面白くなさそうな視線を寄こす男も少なくないが、明らかに彼らよりも大きく、見るからに腕っぷしが立ちそうな野人を前にあからさまに挑発に出る者もいない。男達の話題は自然と自分達の生活に根ざしたものになっていった。

「最近景気はどうよ?」

「さぁな。景気はちょぼちょぼっつーか、あんまり変わんねーけんど、以前より暮らしやすくなった感があるな?」

「ほぅ、どう言うこったい? あんたはゴシック・シテイだったな」

「おおよ。なんつーか、今の市長になってから少しずつ良くなってる気ぃがする。ガキどもも、女房もそう言ってるよ」

「ゴシック・シティっていや確か女が市長やってんだったな? 何が変わった?」

「大きくは変わらねぇが、役人の汚職が減ったらしい。俺んとこのボスがそう言ってたな。それに少しずつだけど犯罪とかも減ってる見てぇだし」

「なんだ地味だねぇ」

「確かに。けど、こんなとっから始まるんじゃねぇか? 改革ってなぁよ。まぁ、こっちは景気をよくしてもらえりゃ、更にいいってもんだが。あとは例の麻薬か<ナイツ>」

「景気っていや、あの市長のお陰で崖っプチに追いやられた奴等も相当いるって話だぜ。この前飲んだガラの悪い連中は、麻薬の流通ルートを摘発されたらしい。何年もかかった仕事がぱぁだ、あのクソ女をぶっ殺すって息巻いてたからよう」

「ま、どっかが喜びゃ、どっかが成り立たなくなるのが常だ。まっとうな俺達は助かるけどな」


「怖い顔だなおい。色男が台無しだぜえ」

「うるせぇ」

 ヴァルカンのからかいにゼライドは眉を寄せた。

 こんなでかい図体ずうたい晒して何が色男だ。後ろで騒いでいる若い奴らの方がよっぽど色男だろう。つまらなさそうに首を竦めると、ゼライドは目の前に滑ってきた濃い色の杯を掌で受け止めて一口飲んだ。喉を焼く刺激が快なのか不快なのかよく分からなかった。

「お兄さん達、すごい体してんのねぇ。あっちの方もすごいのかしら?」

 ヴァルカンの横に陣取った黒髪の女が太股に指を滑らす。爪が毒々しい紫色だ。

「たりめーだ! 見かけ倒しと思ったか」

 ヴァルカンは吠えるように笑った。

「思わないけどぉ。でもさ、お兄さんじゃ重そうね」

「じゃ、上に乗せてやろうか」

 人の金で飲む時は遠慮なく高級酒を頼む事にしているヴァルカンは、景気よく杯を干した。すっかり上機嫌である。

「この銀髪。珍しいわねぇ、すごく綺麗」

 女の一人がゼルの背に流れる灰色の髪を指で梳いた。

「見た目より柔かいわ、ステキ」

「触るな」

 明らかに不機嫌な声にも場馴れした女は頓着しなかった。

「まぁ、おっかない。でもいい男ねぇ……どぉ? 今晩私と。きっと楽しめるわ」

「間にあってる」

「え? 間にあってるって? こりゃ聞き捨てならねぇ。女嫌いのゼライド・シルバーグレイがさ。一体どこの女だい?」

「どこの女でもない。そんなものは初めからいねぇ」

 ゼルはぶっすりと言って氷を揺らせた。強い酒だがまだ一杯しか頼んでいない。それも半分以上飲み残している。

 ——そうだ。あんなモン、なんでもない。ちょっと珍しかっただけだ……明るい翠の瞳と突き出した赤い舌が。

 だが補色の対比である二つの色は、たった一人に属するものだ。そしてそれは可憐な動きを伴って彼の脳裏に蘇る。

 後髪を掴んで引き寄せ、あの赤くて柔かいものを思い切り吸ってみたかった。

 ーーあの髪を指に絡めて、翠色の奥を覗きこんだらどんな気分になるんだろう……

「おい、ゼル。お前目なんか閉じて。もうお眠の時間かぁ? 坊や」

「え?」

 はっと顔を上げるとヴァルカンを始め、好奇心に駆られた面々がゼライドを覗きこんでいた。

 彼の言う通り、グラスを握りしめたまま、カウンターに突っ伏しかかっている自分に気が付き、ゼライドは慌てた。一瞬の夢の中でゼライドは何をしようとしていたのか? 丈の長いレザーのコートを着ていてよかったと彼は思った。

 彼は一気にグラスを干すと、コインをカウンターに放り出した。

「帰る」

「おいおい。もう、お終いか? ってか、コートを脱げよ。この暑いのに」

「うるせえ!」

 勘のいいのは野人の常である。ヴァルカンはゼライドから立ち昇る雄の匂いに勘づいたに違いなかった。

「帰るったってそのままで眠れんの? お一人お持ち帰りした方がいいんじゃね? ほれ」

「あん!」

 ヴァルカンに軽く背を押された女は、わざとらしくよろめいてゼライドにしな垂れかかった。人工的に染め上げた見事な金髪が薄ぼんやりした酒場の明かりに照らされて彼のコートに掛かる。

「もう! 乱暴ねぇ」

 女は振り返って文句を言いながらも、ゼライドの腰に両腕を回す。さりげなく豊かな胸を押しつけるのも忘れない。

「よせ。俺は女を買う気はねぇ」

「買わなくてもいいわ。あんたなら商売抜きでやってあげる。どぉ?」

「要らん」

 迫って来る紅い唇は、さっきまで彼が思い出していた透明な赤ではない。彼は逃れるように顔を背けると、長身を翻した。

「俺は帰る。お前は好きにしろ」

「おやおや、それは残念。じゃ、俺はテキトウに楽しんでるわ。ごっそさん、又頼まぁ!」

「ご免被る」

「ツレないねぇ。ああ、お嬢さん方……気にするな。あいつはああ言う奴なんだ。俺の方がちと見てくれは悪いがよっぽど優しいぜ。三人くらいいっぺんに相手してやる」

 ヴァルカンは吠えるように笑うと、元気なくバーを出てゆく男の背中を見送った。


 ——おかしい。こんな風になるのは久しぶりだ。

 あてがわれた部屋に辿りついたゼルはコートと長靴を放り出すと、ベッドに身を投げ出した。

 野人はその見かけほど性欲は強くない。人間の倍以上ある身体能力に比べると、性欲については同じくらいか、やや劣ると言ってもいいだろう。法に則った結婚をすることもなかった。おそらく長命がそうさせているのだろうが、種の保存本能は人間より弱いと言われている。

 しかし殺戮後の血にたけった時や、一旦つがいと決めた女を定めた時は、強烈な性衝動を覚える者もいる。無論正確な比較データは無いし、人間と同じように個人差も著しいから、はっきりした事はわからない。

 ——なんでこんな…… 

 ゼライドは唸った。下半身に手が伸びそうになるのを必死で堪えている。腰が蠢くのを止められない。こんな事は初めてだった。今自分が感じている雄の痛みの根拠がわからない。

 ゼライドも男だから、時には女が欲しくなる。

 だが、そんな時でも人間の歓楽街に足は向けない。人間の女等に情欲は湧かないし、第一細くて直ぐに壊れてしまいそうだからだ。大抵何かで紛らわせてしまうが、どうしても苦しい時だけ、端末で馴染みの野人の女の誰かを呼び出し、事が終わればさっさと帰る。それで身体と精神の均衡が保てていた筈なのに。

 ——くそっ! これは話に聞く、繁殖期って奴なのか? けどあれは普通女に言うもんじゃねぇのか?

 無論野人にも子どもはできる。

 殊に女の野人はある時期に来ると、しきりに男を誘って子どもを孕もうとする。これを繁殖期と言うのだ。ゼルに子種を強請った女もいるが、彼はきっぱり拒否した。番いと決めた女以外に子どもを作りたくはなかったからだ。そして彼は女とつがいになる事を好まなかった。

 だが――あの。

 翠の目をした娘――

「く……あっ!」

 思い出した途端、腰が吊り上がるような欲望を感じてゼライドは呻いた。

 ——あの女のせいか? 馬鹿な。俺は女なんかに、それも人間の女なんかに興味はねぇ。第一、向うだってこんなケダモンのオカズになりそうだと知ったら総毛だつだろうよ。間違っている、これはえらい間違いだ。


『逃げなさい! ゼル! そして忘れるのよ!』


 脳裏にしまいこんだ映像が蘇りそうになり、彼は慌ててそれに蓋をした。大きく息を吸い込んで、ゆっくり長く吐く。何度かそうしている内に少しは落ち着く気がした。

 ——多分キャンサー駆除で大量の血を見たからだ。あんなにぶっちゃけたのは久々だからな。無理もねぇや。

 自分を嘲笑っても誤魔化しても何の効果もなく、彼は仕方なく起き出すと、よろよろと浴室に向かった。そしてどうにも抑えきれぬ衝動を収める為に、服を着たまま長い間冷たい水に打たれなければならなかった。


 翌日。

 アジャンタ・シティの仕事を終えてからも数件つまらぬ依頼をこなし、それに没頭する事で何とか平常心を取り戻したゼライドは、快適な朝のフリーウエイからゴシック・シティの正面、フォザリンゲートを抜けた。

 ——あれからまるまる六日か。まぁこんなもんだろ。アレは無くなっているかな?

 実は家を空ける前に、あの娘が忘れていったグラスを引き取りに来るかもしれないと、ゼルは律義に門扉の金具にグラスを引っかけて置いたのだ。ご丁寧に袋に入れて。ちらと見た限りではゴミがぶら下がっているとしか見えないから盗まれる懸念も少ない。自分の家にやって来る者などいないし、何か目的があって来るとしたらあの娘だけだ。そして、頭の良さそうな彼女ならきっと彼が残したメッセージを読み取るに違いないのだ。つまり、これを受け取ったらさっさと帰れと。頭脳に自信がある訳ではないが、我ながらいい考えだと思ったものだ。

 ——あれから一週間も経つんだから、来るものならとっくに取りに来ているだろうし、来ていないのなら処分すればいい。

 しかし、夜明けのアップタウンの美しい並木道に入った彼は程なく、自分の考えがいかに甘かったとがっかりする事になるのである。

 夜通し車を飛ばした雨上がり。

 ようやく帰りついて門を開けようとセンサーに手を伸ばそうとしたゼライドは、門扉の影に座り込んで眠っているユーフェミアを見つけたのだった。

「ちくしょう! 一体なんだってんだ!」

 ギリギリと奥歯を噛み締めながらゼライドは唸った。


 ――俺は呪われているのに違いない




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