第9話 8.野人ゼライド 1
あれからユーフェミアはたっぷり眠った。
未明の襲撃とその後の事も大きなダメージだが、この数日、夜光花の開花観察でろくすっぽ眠れておらず、心身ともに疲労が溜まっていたのだ。
そしてその日の午後遅く起きた時、自分がものすごく空腹な事に気が付いた。もう直ぐ家政婦のメイヨー夫人の来る時間だが、持ってきてくれる夕食はともかく、今あの管理意識に燃える彼女と正面対決出来る気分にはとてもなれない。
先日、三日間研修所に泊り込むと伝達した時も、姉のエリカの許可がないと認めないだの(何とか許可を貰ったので納得させたが)、毎晩定時に連絡をしろだの、まるでローティーンの孫に対する厳しさだったのである。
——無理! 今は絶対無理。
しかし戦意はなくとも腹は減る。
考えてみたら二十四時間殆ど何も食べていないのだ。食べ物の事を考えても今はもう吐き気は起きないので、あの嫌悪感は睡眠と休息で一旦は落ち着いたようだった。思ったよりも回復が早い。
——もしかしてこのシャツのおかげかな? すっかりパジャマにしちゃったけど。
ユーフェミアは借りたままのゼライドのシャツを摘んだ。
——取りあえず今日は外に食べに行こう。
三日も留守にしたのと、普段から料理を殆どしないので冷蔵庫には飲み物ぐらいしか入っていないのだ。それに、一人でいるのは嫌な感じに思考が陥りそうで良くない。善意でも構われるのは嫌だが、一人きりでもいたくない。ユーフェミアは腕を伸ばして端末を取り上げた。
「もしもし、メイヨーおばさん?」
『ユーフェミア⁉︎ 帰ったのですね? 昨夜は連絡がなかったので心配しましたよ。今から行こうと思ってたところです』
「あ、その事なんだけど今日はもうお腹一杯だから、明日にして貰えない?」
『え? 外食をされたのですか?』
「そんなところなの。ごめんなさい昨夜は連絡し忘れて……明日は必ず来てもらうから。姉さんには私から連絡するわ」
『まぁ……それはいいですけど、大丈夫ですか? 三日も泊まり込んで、エリカ様にはきっと伝言を入れるのですよ。 そうだ、顔だけでも見に今からそっちに行きましょうか』
「いえ、いいえ! 私は元気。今から友達に会いに行こうと思ってるから来てもらってもダメなの。姉さんには後で必ずメールします。それじゃあ、ありがとう。心配かけてごめんなさい、明日のご飯楽しみにしているわ」
罪悪感も手伝い、できるだけ優しくそう言いうとユーフェミアは端末のモニターを切った。
たっぷり寝たからか寝汗をかいている。
ユーフェミアはのそのそ動き出し、自分を大きな姿見に映してみる。肌に残っていた恐怖の痕跡はほぼ見えなくなっていた。大きなシャツの裾から膝小僧が二つ覗いている。意味もなくくるりと回ってから、これまた意味もなくあかんべぇをしてから、ぶかぶかのシャツを脱ぎ、勢いをつけて洗濯機に放り込んだ。
——そうだ! 本当に友達を誘えばいいんだわ。これなら嘘ついた事にならないし。よし!
そうと決めれば直ぐに行動に移すユーフェミアである。だがシャワーを浴びて体を拭いていると、自分のグラスが無い事に気がついた。バッグを
お気に入りの高価なグラスだったのに。と、ちょっとがっかりした。とは言うものの、元々度が入っていないから別段不自由はない。軽薄そうに見える自分の容貌を知的に見せるための小道具なのだ。
あの男の家で目覚めた時、ベッドの傍らのローチェストに置かれていた事は覚えているから、てっきりそのまま忘れてきたのに違いない。
——しまった、あの時は動転してたからつい……
またしてもとんだ馬鹿娘だと思われただろうか? しかし、これはもしかしたらチャンスなのかもしれない。彼に会う口実がふたつもできたのだ。シャツとグラスと。
グラスの事はもはや気にせず、ユーフェミアは手早く服装を整える。グラスがないから髪をアップするのは似合わない。さりとて姉がうるさく言うから伸ばしている髪は腰の辺りまであって目立つしキライだ。少し考えて学生の頃のように顔の両側で三つ編みにすることにした。これで帽子を被り、ラフな服装をすれば変装にもなるだろうし丁度いい。
女友達の誰かに連絡しようかと思ったが、ふと学生時代の友人で今は警察官をやっている人物の事を思い出した。
ウェイ・リンチェイ
——彼ならば警官だし頼もしいし、ちゃんと頼めば彼――ゼルの事を調べてくれるかもしれないわね。
ユーフェミアはそう考え、自分の思いつきに満足する。
——そうと決まれば早速連絡。今日は早番だったらいいのになぁ。
ユーフェミアはこれから着ていく服を選ぶためにタオルを放り出した。
「……それ、ほんとう? ウェイ」
「ほんと。ウチの情報網をナメないで欲しいね。ミア」
ウェイ・リンチェイは感じのいい声を低くして言った。
警察官である彼は背も高く、普段から鍛えている為、肉厚の体をしている。警察組織の中でも危険な部署である第二種犯罪捜査課に勤める彼だが、さわやかに振舞う事も忘れてはいない。
彼は気さくにユーフェミアの夕食の誘いに応じ、勤務が終わってから中央警察署の近くの定食屋までやって来てくれたのだ。そしてゼルと言う名と特徴を言っただけで、彼のフルネームと仕事をすらすらと言ってのけた。
「俺は管轄外だからそれほど詳しくはないけど、それでも名前くらいは知ってるよ。調べるまでもない。ゼライド・シルバーグレイっていや、かなり有名なフリーの請け負い屋だよ? 彼らはハンターって名乗っているけど」
「へぇっ! すごい……で、請け負い屋って何?」
「請け負い屋、用心棒、便利屋、言い方は何でもいいけど、要するに荒事専門のなんでも屋ってこった」
「用心棒⁉︎ それはまた。そんな職業って本当に存在してたんだ」
「ま、表向きはどんな肩書きを名乗っていもいいんだしね。こんな世界なんだから、用心棒と言う仕事は立派に存在しているよ。君がお気楽なお嬢様だから知らないだけさ。平和なように見えてたって犯罪者はうようよいるし、知らないだけで事件の発生件数だってかなりある。君の姉さんのおかげで警察の予算は増えたし、以前よりマシにはなったけど」
ウェイは野菜をたっぷり絡めた麺を美味そうに啜りながら言った。付け合わせは鶏肉の揚げものである。
「お嬢様? 失礼だわ」
「女性をお嬢様って呼んで何で失礼になるんだよ? そう言うところが世間知らずのお嬢さんだって言うのさ」
「む……」
ユーフェミアも卵で包んだライスを頬張る。これにもたっぷりとした野菜ソースが掛かっていて非常に美味だ。
世間知らずのお嬢様。確かにそんな部分はあるかもしれない。心当たりがあるユーフェミアはその件についてはそれ以上追及するのを止めた。
それよりも彼のフルネームが知れたことの方が重大だ。
「ゼライド・シルバーグレイって言うんだ……」
ゼルと言うのは略称であって、偽名ではなかったのだ。
「だけどさ、どうしてそんな事を聞くの?」
「ん? ちっといろいろあってね……後で話すわ。それより彼のデータとか見れる?」
ユーフェミアは持って来た端末をバッグから引っ張り出し、立ちあげた。
「やっぱり警察のデータは見せてくれないわよね? ちょびっとだけでも?」
ユーフェミアは斜めに被ったキャップの下から上背のあるウェイを見上げたが、彼はちょっと頬を赤らめて首と手をを振った。
「ダメダメ。そんな目ぇしたってダメだよ? ミアちゃん、学生時代俺をこっぴどく振ってくれたの忘れた?」
「忘れた!」
「あ~あ、お嬢さまはこれだから……。でも、わざわざ警察のデータバンクなんか見なくったって……まぁ見れないけどさ、普通に検索で探せるよ? 彼はその筋じゃ有名人だからね。貸してみ?」
そう言うとウェイはユーフェミアの端末をひょいと受け取ると、さっさとキーに触れた。直ぐに結果が出たらしく、画面をこちらによこす。
そこにはゼライド・シルバーグレイの人物紹介が画像入りで載っていた。
——彼だ!
ユーフェミアは目を見張る。そこには覚えているより、少し髪の短いゼルのバストアップの画像とともに、彼のデータがあった。それによると――
ゼライド・シルバーグレイ
性別:男性
年齢:不明(外見は20代前半の成人男性)
出身地:不明
身体的特徴(概算):身長 193 体重 84 髪 銀 瞳 淡い青 肌 浅黒 体中に大小の傷跡
職業:フリーの請負人、獣ハンター 共にSランク
仕事の依頼はネゴシエーターG所属のパルミナ・ニールセンを通してのみ受理
連絡先は××××‐××××‐××××
過去に請け負った主な仕事:
……………………
…………
備考:野人
「野⁉︎ 彼は野人だったの?」
「そう、彼は野人なんだ。ちょっと珍しいだろう?」
「野人……」
ユーフェミアは食い入るように、厳しくも端正な画像を見ていたが、今度は自分でキーに触れた。今度も直ぐに結果が出る。
野人(獣人)
人類とは染色体の微細に配列の異なる亜種。出現率は推定1万分の1。男女比はおよそ4:1。平均寿命は106歳(20××年現在のデータによる)個体によって異なるが一般に人類より体格がよく、身体能力と知覚に優れる。知的には人類と同等かやや低いが、稀に非常に優れた個体があるとの報告がある。性質は概して気が荒く好戦的。未確認事項として、アルコールやニコチンを嫌い、動物の肉を好む。協調性に乏しく、人間の両親から生まれた個体は市民権を持つが、通常は早くから独立する事が多い。野人を親に生まれた場合、市民権を持たぬ個体もある。人間との交合は可能だが、長命種であるためか、子どもが生まれた報告例は少ない。また報告されない事例も多い。ただし生まれる子どもは約90%の確立で野人である。身体的特徴の最たるものは、闇の中で虹彩が光る事であるが、何故発光するのかは解明されていない。過去に重大な凶悪犯罪を犯した野人のデータは以下に示す通り…………
そこからは凶悪犯罪で捕まえられたり、逃走中の野人のリストがずらりと挙げられてあった。
幸いゼライド・シルバーグレイの名はそのどこにもない。更に幾つかのサーチで検索してみたが、大体同じような結果であった。どの記述にも粗暴な性質や、折に触れて示される凶暴性の事が書かれてある。
だけど、あの人、私に何にもしなくて控えめと言ってもいい態度だったし、あいつらに対しても脅かしてはいたけど、冷静で命までは取ろうと言う感じじゃなかったし、襲い掛かってきた獣を殺したのは寧ろ、私達を守る意味があったような……
野人……
だから、闇の中で瞳があんなに光っていたんだわ。きれいな青味を帯びた銀色の光……
「……ミア? ユーフェミア?」
「……」
「おい! ミア、大丈夫か、何をぼんやりしてるんだい?」
「え? あ……ごめん。なんだっけ?」
「なんで野人だの、ゼライド・シルバーグレイだの、非日常的なもんばっかり調べているんだ? なにかあったな?」
「う、うん……」
さすがに警察官である。
ヘタに隠すよりは有る程度喋ってしまった方がいいと、ユーフェミアは昨夜の出来事をかいつまんで話した。覚えている限りの二人組の人相も。無論、レイプされそうになった事は伏せて、声をかけられただけにした。ただ、獣の事は重大な犯罪に繋がるかもしれないので、生々しい部分は避け、見ただけだと簡単に説明した。
「なるほど……だが、ゼライドの言う通り、君は酷く考えなしだったんだぞ! 今回は大事に至らなかったけど、いつもそんな偶然に助けられるとは限らないんだ。二度とするな」
熱心に耳を傾けていたウェイは、ユーフェミアが話し終えると、怖い顔をしてゼルと同じことを言った。本当に怖い部分には触れなかったのにやっぱり叱られた。よほど自分は馬鹿だった事をしでかしたのだろう。自己嫌悪で心が重くなった。
「……反省はしているわよ」
「危なっかしいなぁ……だが、これは彼の言う通り、君個人を狙ったものではないかもしれないが、組織的な犯罪の匂いがするな。普通のゾクの奴らに獣なんて危険な生物を扱える訳が無い。もっと大きな組織の下請けにさせられたんだな。シャンクって言ったんだな、奴らに依頼してきたのは」
「ええ……その前後の話は、あんまり覚えていないんだけど」
「ふうん……シャンク……だけでは、それらしい奴には引っかからないな」
ウェイは画面を操作しながら言った。
「けど、若い娘をいいように嬲り殺してそれを見て楽しむ金持ちの変態はいるんだ。そんな事件もあったし……胸糞は悪いが、今回もそんな事件かもしれない。俺ももっと詳しく調べてみよう」
「ありがとう」
「……それにしてもゼライドの言動は意外だったな。まぁ、がっつくほど不自由してないってことかな?」
「なぁに? なんのこと?」
「ええ? もう君は……」
ウェイのつぶやきが理解できなかったユーフェミアに彼は首を竦めた。
「なんでもないよ。けど、もう絶対日が暮れてからふらふら街の外に出るんじゃないぞ。街の中でもだ!」
「……はい。ごめんなさい」
「あ~あ、その顔……こっぴどく振った男にそれってどうよ? って思わないでもないけど、まぁいいや」
「ごめんね?」
「調べたら又連絡する。ともかく用心する事だ」
「ありがとう、頼りにしてる」
「それはそうと、君の姉さんには言ったのかい?」
「それはまだなの。ヘタに言ったら仕事やめさせられちゃうかもしれないし……一人暮らしを引き上げさせられるのは必至だから……」
「そんなことだと思った。でも絶対言っといた方がいいよ……ってか、言うべきだ。万が一にでも迷惑は掛けられないだろ?」
「うん……そうだね、そうする」
「姉さんは君が心配なんだよ。俺だってそうだけど……頼ってくれて嬉しい」
ウェイは腕を伸ばしてユーフェミアのふさふさの前髪を掻きまわした。
「うん……いろいろありがと」
「ふふふ、そんな顔すんな。送るよ、出よう」
ウェイは立ち上がり、励ますようにぽんぽんと肩を叩くと店を出た。ユーフェミアも笑って後を追う。
違うなぁ
触れられた手は同じように大きくて暖かかったのに、彼の手とは何かが違っているとユーフェミアは感じていた。前を行く背中も、肩も。ちっとも優しくなくて、とりつく島も無かったのに。なのに何故か目が離せなかった。
アパートの正面まで送ってくれたウェイが帰ってゆくと、ユーフェミアは直ぐに部屋へ駆け戻った。
部屋は用心の為に灯りがつけっぱなしになっていたが、直ぐに消して姿見の前に立った。暗闇の中に己の姿を映しても、当たり前だが自分の目は光らない。彼のようには。
あんなにきれいな……まるで地上に降りた星のようだったのに
だが、彼はユーフェミアと目が合うと直ぐにグラスをかけてその輝きを隠してしまったのだ。まるで己の美しさを恥じるかのように。
洗濯乾燥機を開けるとシャツはすっかり乾いていた。
野人だと言うのなら、あの凄まじいばかりの強さも納得できる。自分を避けるかのような素っ気なさも。
ユーフェミアの専門は植物だから、今まで野人については殆ど興味も知識も無かった。しかし、以前下町で野人の女に出会った事がある。向うから歩いてくる女性の均整のとれた体格の良さと、猛々しいまでの美しさに見蕩れていると、一緒にいた友人に肘で小突かれ、当の女にはじろりと一瞥された。
何見てんだい、小娘。と、その目は言っていた。その時はそれで終わったが数日してからニュースで下町で野人の娼婦が殺されたと報道されていた時に、映った画像は、すれ違った女のものだった。野人狩りの被害にあったとキャスターは淡々と述べていた。
ユーフェミアの様な世間知らずでも野人と言う存在が特殊なものだとは知っている。今日見た検索データの中にも過去に起きた大量殺人の犯人の70%は野人の男によるものだという記事があった。彼等は忌むべき存在なのだと糾弾している記述も多く見かけた。
一万人に一人出現すると言うのなら、人口百万のゴシック・シティでいうと少なくとも百人はこの街に存在していると言う事だ。彼はその内の一人なのだろうか?
性質が好戦的なのだとしても、彼はそれを有効な職業にしているのだわ。用心棒とか獣ハンタ―とか。そして立派な家に住んでいると言う事は、腕がよくて収入もそれなりにあるに違いない。
——もう会う事はないと言っていた。名前も聞いちゃくれなかった。
まるで、ユーフェミアと関わるのを恐れるかのように、視線を合わさずに後退さり。部屋を出て行った後は一度も顔を見せず。
『どうせもう会う事はねぇ』
錆びた声が耳に残っている。
——いいえ
ユーフェミアは顔を上げた。薄青い空は彼の瞳を連想させる色だ。
——このままでは終わらせない。ゼル――ゼライド・シルバーグレイ!
ユーフェミアは最後に見たゼルの姿を思い出した。
——私の
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