第8話  7.不安で不満な朝 3

「助けて下さってありがとう! どうもお世話になりました!」

 モダンかつ、格調高い雰囲気のホールの吹き抜けにユーフェミアの声が響き渡った。

「ちょっと⁉︎ ゼルさん? 顔ぐらい見せて下さったらどうなんですか? そろそろ帰ろうかと思ってご挨拶してるんですけど?」

 更に声を張り上げても甲高いユーフェミアの声が反響するばかりで、あの黒い男の影すら現れる事は無かった。

「ホントにこのまま帰りますからね! いいんですね!」

 ユーフェミアは正面扉を開け放つともう一度振り返り、ダメ押しで怒鳴った。

 しかし当然のように何事も起こらずじまいで、無性にかっと来たユーフェミアは腹立ち紛れに分厚い扉を乱暴に閉めた。残念ながら、それでもやっぱり何も起こらなかった。

 ——なによ! もう私なんかには用は無いって訳ね。ろくでなし! 私は殺されそうになったばかりのかわいそうな女の子なのよ。紳士だったら送ってくれてもいいじゃない!

 だが、それが余りに勝手な考えだと言う事は百も承知である。自分は愚かな行いのお陰で危ない目に会ったのだし、ゼライドも別に紳士ではなさそうだ。だが彼が紳士か、そうでないかは別として、見ず知らずの自分を助けただけでなく、家に連れて帰って休ませてくれたのだから、充分過ぎる程親切な行いと言えるだろう。おまけに事情はよく分からないが、当面の安全まで保証してくれた。

 ユーフェミアだってその位の事はわかっている。ただ、理性ではどうしようもない部分でなんだか腹が立つのだ。

 ——これ以上我儘言ったら、私が自己嫌悪になりそうじゃないの……

 がっくりと肩を落とし、砂利を蹴飛ばしながら手入れの行き届いた前庭を横切ると、ゼルの言った通り、車の場所は直ぐに分かった。門の脇の大きな樹の下に行儀よく停めてあったのだ。

 男二人を追っ払った後、どのような手段で車を運んできたのだろう? 状況から考えて、彼自身の車と、それから考えたくないが獣の死体もあったと言うのに、ユーフェミアの車までどうやって? 彼の素性といい、不思議な事が多すぎる。

 ——帰ったら直ぐにいろいろ調べてみなければ! ……って、わ!

 磨かれた大理石の砂利に足を取られて危うく転びそうになる。なんとか踏ん張ってこけるのだけは堪えたが、なかなか無様な格好だ。益々不愉快になったが、かかとの低い靴を履いていてよかったと、思わず苦笑いが漏れる。

 彼女の車は何処も荒らされた形跡はなかった。リアシートに放り出したバッグも投げたそのままの場所に収まっている。指紋認証でドアを開け、小ぶりな尻からさっそうと乗り込むと、自分がこの数時間世話になった建物を見上げた。

「……すごい」

 それは白亜のかなり立派な二階建ての建物で、すごく大きいと言う訳ではないが、さりとて小さいと言うものでもない。建物の周囲は程良い空間に囲まれ、所々に立派な樹が植わっている。

 気になるのは二階も含めて窓に全て頑丈そうな格子が嵌っているところぐらいだが、建物の美観を損なう程無粋ではなく、セキュリティの一環かと思えば頷けない事もない。だが――

 ——えっと、自分の家ではないと言っていたわね……

 確かにあの男が自分でこんな家を選んで住むとは思えない。借り物だと言っていたが、一人で住んでいるのだろうか? 置いてあった消耗品は全て高級品で未使用のものだったから、しっかりしたハウスキーパーがいるのか、それとも……

 ——もしかしたら女の人のお世話になっているのかもしれない……見た目はちょっと怖いけど、極悪人ではないようだし、あんなに素敵な外見をしているのだからパトロンみたいな人がいても不思議じゃない……わよね。

 自分でもよくわからないが、ユーフェミアは盛大に顔を|顰(しか)めた。ついでに屋敷に向かって思い切りあかんべぇをしてやる。

 そうして少しだけ気を晴らし、自分のもの思いを振り切るように車をスタートさせた。今気付いたが、ここにある車は彼女のものだけだった。彼の車はどうなったのだろうか? ガレージもないが、裏に回ってみた訳ではないからここから見ただけでは分からなかった。あんな男が車もなしに移動するとは思えない。

 軽いエンジン音が響き、パチパチと砂利が飛ぶ。|門扉(もんぴ)は自動で開いた。運転席からこの家のプレートを確かめようと首をひん曲げてみたが、当然ながらそこには場所を示すものも、メールボックスでさえ存在しなかった。

 ——どこまでも謎めかせてるって訳ね! どっちみちこの場所を覚えておくからいいけど!

 一旦出てしまった以上、ぐずぐずしたくなかったので、ユーフェミアは今度こそアクセルをぐっと踏み込んだ。

 表通りはそれほど広くはないが、早朝だけに人通りは無かった。両側は高級住宅街だが、広大な邸宅の並ぶ地区ではなく、こじんまりとした上品な家並みが続いている。引退した老夫婦がゆっくりと余生を楽しむ街と言ったところか? どちらにしても危険な魅力振り撒くあのゼルと言う男が好んで住む町ではない。

 暫く走らせると、直ぐにミドル・サークルラインに出た。ゴシックシティを同心円に取り囲む三本のサークルルートの中央にある道だ。この内側にセンターサークルがあり、外側にアウトサークルがある。アウトサークルの内側は所謂アップタウンで、中流以上の人々が住んでいて、多くの企業のオフィスや官公庁、文化施設やカレッジも集中している。

 アウトサークルの外側はダウンタウン――下町と呼ばれ、所得の低い人たちが多く住まっているが、多くは普通の住宅街や小規模の工場地帯である。無論風紀や治安の乱れたブロックもあるが、それは一見豊かに見えるアップタウンでも隠されているだけで、犯罪の温床も存在すると言われているから、老若男女、貧富を問わず、自分の身は自分で守ると言うのがこの世界の不文律である。

 市の外郭の向うは平原だ。

 取りあえず外郭周辺20キロ内は市の版図として、よく管理された大規模な|工場(プラント)や農地が広がり、生産物を市内で消費したり、他の市へと流通させたりする。しかし、特別な理由でもない限り、それらの生産活動の多くは日中に行われるのだ。

 だからその意味でユーフェミアは大失敗を犯してしまったのだ。陽が落ちてから街の外に出ないことぐらい、下町の子供でも知っている。

 ーーだって……だって、一年に一度のチャンスだったんだから仕方なかったんだもの。まさかあんな事になるとは思わなくて……まぁ、それがいけないんだけど。確かに姉さんの言う通り、私は前しか見えない軽率な人間なのかもしれない。あのまま官舎に泊っていけばよかったって、今なら思える。でも――

 ユーフェミアはハンドルを緩やかに右に切った。車はどんどん見知った街へと近づいて行く。いつの間にか夜はすっかり明けきっていた。

 ーーだって、昨夜は特別な日だったのだから。

 昨夜は実験温室で試験栽培している|夜光花(やこうか)の開花を心行くまで堪能したのだ。

 夜光花の花は年に一度、ミッドサマーの夜に一斉に開花する。

 その名の通り、薄い花弁は淡く発光し、月光の元で見るとさながら夢幻の世界である。だが、可憐な花は一夜の内に萎え、その種子からは植物界の中では一番幻覚性の強い麻薬を精製する事が出来るのだ。

 無論栽培するのも、種苗を流通させるのも、厳しく禁じられている重大な禁忌植物である。長年の研究の成果で毒性を弱め、厳密に管理された中で医療目的の使用は認められているが、それはユーフェミアの職場の様な、官立の研究所や実験施設で栽培されたものに限られていた。

 そして昨夜がその開花日だったのだ。

 ——私はこの時を一年待ってたのよ。この三日間、ドームに泊り込んで、昨夜は初めて群生する夜光花の開花の瞬間を観察する事ができたんだわ。

 強化ガラスのドームに月光が射しこむと、ゆっくりと蕾が解けてゆく。やがて無数の青白い花灯篭となってドームを埋め尽くし、受粉を促す送風装置の作用で花々は話しかけるようにゆらゆらと揺れた。それは設定された人工の風景であったが、それでも彼女をうっとりさせる幻想的な光景だったのだ。


 ユーフェミアは実用植物研究所の新米研究員である。

 そこでは人間の役に立つ植物や地衣類の研究が為されているが、その一つに夜光花の毒性を減却させるというものがあり、それがユーフェミアの主な研究テーマである。研究所では医療や研究の為に使う分だけ栽培しているのだが、この世界の固有種である夜光花は、環境さえ整えばどこにでも生える一年草なので、管理の目をかいくぐって密かに栽培されては闇のルートで流通していると言うのも又事実なのである。

 その種子から精製される麻薬の通称は<ナイツ>と言った。

 <ナイツ>には強い幻覚・強壮作用と依存性があり、常用すれば僅か三月程度で人格が破たんする。無論取り締まりも厳しいが、絢爛と混沌の支配する世界ではシステムの|綻(ほころ)びも又無数にあるのだ。

 <ナイツ>は様々な抜け道を掻い潜り、濃度や名を変えて、半ば公然とこの世界の底辺に浸透しているのであった。

 だから、夜光花は原則として研究施設でしか見る事はできない花である。ユーフェミアも学生時代に標本植物園で一株だけ見た事があるくらいだ。そしてその開花をずっと見たいと思っていて、蕾が付きはじめたこの一週間はわくわくし通しで成長を記録していた。終に三日前からは家にも帰らず研究所に詰めていたが、その甲斐あってやっと開花を克明に観察する事ができたのだ。

 同じく宿直していた他の研究員たちは殆どベテランぞろいだから、年に一度の事とは言え、開花は見慣れている。だから、特に大騒ぎする事もなく暫くはユーフェミアの興奮に付き合ってくれていたのだが、開花が終り、花が|萎(しぼ)んでしまうと直ぐに官舎に戻って寝てしまった。だが、ユーフェミアはとても眠る気になれず、興奮冷めやらぬまま車を飛ばして帰路についてしまったのだ。その後の出来事は言うに及ばずである。

 ——だって、さすがに三日部屋を空けるのは初めてだったんだもの。メイヨー夫人だってそろそろ帰らないと黙ってはいないだろうし、姉さんに告げ口でもされたら、それこそややこしい事になるし。

 ユーフェミアは普段なら定時で家に帰れる事になっている。

 その理由は、異母姉にあった。この街――ゴシック・シティの市長である姉のエリカは、異母妹に対して非常な義務感を感じていて、定期的な連絡を怠るとうるさい。

 ただでさえ忙しい市長と言う重責にあるのだから、何も成人した妹の面倒まで見る必要はないと思うのだが、たった二人きりの姉妹だからと言うのがエリカの口癖で、彼女が学校を卒業して働く場所も決まり、一人で部屋を借りたいと言い出した時にも最初は反対で、折れるまでには根気強い説得が必要だった。

『そこまで言うならいいわ。あなたももう大人なのだから、一人暮らしくらいは認めましょう。けど、住む部屋は私が紹介したものにすること。これが条件よ』

 ユーフェミアにしてみれば職権乱用では? と思わぬ部分もないが、お陰で安全な街の安全な部屋に直ぐ入居できた上に、どこをどう運動したのか、仕事においても、ユーフェミアには残業や宿直は出来るだけ組み込まれない事になった。これはまぁ、市の郊外で働く若い女性には珍しくない配慮だから不思議ではないが、わざわざ市長が頼み込む事でもあるまいと思う。

 お陰でユーフェミアには今まで残業を命じられる事は無かった。三日前までは。それも開花観察を熱望した彼女に押し切られる形で、上司である室長は渋々許可を出したのだった。職員たちは朝ユーフェミアがいない事に驚くかもしれないが、まさかこんな事態に陥っているとは夢にも思わないだろう。

 つまり、ならず物に襲われた事を知っているのはユーフェミアと、あのゼルと言う男だけだ。

 ——これは拙いんだか、そうでないんだか……

 車は角を曲がり見知った一角へと滑り込んだ。

 さすがにこの時刻になると人の姿も増えてきている。ここはアップタウンの外れにある、学生や研究者が多く住む町だ。たくさんの学校や画廊、大きな劇場や図書館もある。

 ーーだけども反省すべき点は誤ってはならないわね。そしてじっくり考えないと!

 ユーフェミアはハンドルを握りしめて取りあえず自己を省みた。そうしている内にアパートの前に着き、敷地内の指定された場所に車を止めると、三階にある自分の部屋まで急いだ。

 ユーフェミアの部屋があるアパートは、部屋が二つとキッチン、独立した浴室もある新しい建物だ。

 なによりセキュリティがしっかりしている。こんな部屋は普通は直ぐに借りられない。悔しいが、姉のお陰で自分は恵まれている。そして自分が思うよりも一人立ち出来ていない事も自覚している。自己認識の客観性はあるつもりだ。

 ——ともかく今は休まなければ。

 ユーフェミアは部屋のロックを解除した。

 見慣れた室内。趣味で選んだ家具に雑貨、窓辺に吊るしてある干したハーブの香り。そんなものを見るだけでどっと安心感に包まれ再び眠気に襲われる。

徹夜続きだった上に、あの男の部屋で眠っていたのは二時間くらいなのだ。今日は予定もない休みの日だから、夕方来る予定のメイヨー夫人が来るまでゆっくりするつもりだった。自分が襲われた理由や男達の雇い主とか、緊急に考えるべき事はあるのだが、先ず自分のコンディションを整えないと頭を整理できない。

 この地区の治安はAクラスだから安心なはずだ。それに、あの男も取りあえずは大丈夫だと言ってくれたのだから。

 やっぱりもう一度シャワーを浴びたい、そう感じたユーフェミアは浴室へ行くとバスタブに湯を満たした。意識して考えないようにしてきたが、男達の不潔な行為は彼女を酷く傷つけたままなのだ。

「なにこれ……」

 裸になった時、ユーフェミアは思わず息を呑んだ。ゼルの家でシャワーを借りた時には気付かなかったが、明るい光源の元で見ると、無頼に触れられた部分が転々と痕になっている。それは指の形やなめられた時の惨たらしい痕跡。彼女の白い肌にくっきりと赤や青の痣となって残っている。

「ううう……」

 胃のあたりから酸味がこみ上げる。急激な吐き気がユーフェミアを襲った。

 あの男の前では弱みを見せたくないが故に無意識に抑え込んでいた恐怖である。体は正直だ。脳の忌避反応が解除され、緊張が緩むのと同時に再び込み上げてきたのだ。

「ぐぅ……うえ……っ」

 迷わずにユーフェミアは床に屈みこんで吐いた。さっき飲んだコーヒーが気味の悪い色の吐瀉物となってタイルの上に流れる。湯がすぐさま洗い流してくれるので気にせずどんどん吐いた。盛大に体が震えたが、それでも構わなかった。

 ——忘れてしまえ、こんなことぐらいで私は負けないわ! 全て出しつくしてしまえばいい。

 熱い湯を頭から流し続けているのに手足は異様に冷たい。

 すっかり吐きつくしてしまうとユーフェミアはのろのろとバスタブに沈み込んだ。湯量はたっぷりしていたが、それでも手足が暖かいと感じられるまでに数分を要する。ユーフェミアはボタンを押して更に湯を足した。熱く|迸(ほとばし)る湯を頭から被る。

 ——ああそうだ……

 あの男の手も暖かかった。ユーフェミアの肩に置かれた大きな手。

 それは彼女を撫でたり、優しく励ましてもしてくれなかったが、最初の恐慌に呑まれかけた彼女の震えが収まるまでそっと置かれたままだったのだ。

 ——あいつらに触られたところをあの手が|擦(さす)ってくれたら消毒の代わりになるかもしれないのに……いいえ、そんなことではいけないな。

 馬鹿な考えを振り払うように勢いをつけて湯から出た。それでもその思いで少し支えられている自分がいる。これで二度パニックをやり過ごす事が出来た。

 ——何とかなる……なんとか。

 ざっと身体を拭くと棚のパジャマに手を伸ばそうとして、ユーフェミアはふと手を止めた。そして脱ぎ捨てたばかりの黒いシャツに袖を通す。大きすぎるそれに包まれていると不思議に安心できるような気がした。

 髪を包んで布団に潜り込むと急速に睡魔が襲ってきた。余程疲れていたと思われる。

 大きなシャツはさらさらと乾いた肌触りでユーフェミアの体を包んだ。クリーニング済みで匂いなどする訳もないのに、大きな襟ぐりに顎を埋める。

「ゼル……ゼライド」

 これをいつ返しに行けばいいかしら……

 眠りの淵に陥る刹那にユーフェミアが思い浮かべたのは、闇に浮かびあがる銀青の瞳だった。




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