第7話  6.不安で不満な朝 2

 ゼライドは二階の窓辺に立って、ファサードの庇の下から門扉に向って歩いてゆく娘を見ていた。

 その逞しい肩にはついさっき狩りから帰ってきたばかりの小型の獣が乗っている。

 それは鷹くらいの大きさの鳥類型の獣で、雛の頃にゼライドが拾って育てた彼の唯一の家族だった。基本的には人に懐かないとされる獣だが、目も開かぬ幼体の頃から育てるとまれに飼いならす事ができるらしい。もっともゼルにそんな知識はなかったが。

 「見ろ、ティプシーあの女の髪をさ」

 ゼルはくちばしを頬にこすりつけて甘える獣に話しかけた。

 「ギャ?」

 雨上がりの朝の光に、ユーフェミアの濡れた髪が王冠のように輝いている。さっき寝台で彼女が眠っていた時にそっとすくい上げてみたが、それは彼が今まで触れたどんな高価な布地よりも滑らかだった。

 彼女は彼が用意しておいたシャツを着こんでいたが、滑稽なくらい大きすぎるのにも関わらず、不思議に高貴に見えた。背中に流した髪が自分のシャツの上を流れている。

 「世の中にはあんなきれいな髪もあるんだな」

 さっき、出て行く時にホールで何やら大きな声でわめいていた。吹き抜けになっている為、反響でよく聞き取れなかったが、どうやら礼を言ってたらしい。その声を聞いて直ぐに籠っていた自室から出て、さっきまで彼女がいた部屋に戻る。その部屋からなら木立のお陰で、姿を見せずに前庭を見下ろす事が出来るのだ。

 部屋はきちんと片づけられていた。淹れてやったコーヒーのカップも洗ってある。その事に訳のわからない気恥ずかしさを感じる一方、彼の鋭い眼は一つだけ犯した彼女のミスに気がついていた。サイドボードの上に置いてあった眼鏡グラスを忘れて行ったのだ。昨夜、草むらに転がっていたのを拾い上げておいたものだ。

 ——見えなくて困るんじゃないのか?

 慌てて取り上げる。今なら走れば余裕で間に合うだろう。だが、薄い紫色が入った六角グラスがはまった華奢な品を取り上げてみると――

 ——なんだ、コレ。度が入っていないじゃないか。

 ゼルは呆れてグラスのつるを顔の前でぶら下げた。必要不可欠な事情のあるゼルとは違って、人間がする眼鏡にはファッションの意味もあるから、度が入っていなくとも全然構わないことは知っていた。

 ——なんであんなキレイな目を隠さにゃならんのだ?

 あの女の持つ、まるで日に透けた若葉のように明るい翠色の瞳は、この人種のごった煮のゴシック・シティでもかなり珍しい部類だろう。ゼルは自分の容姿の特異さを棚に上げて考えた。本物の金髪に染み一つない白い肌。どこから見てもいい所のお嬢様だ。だが、彼女はそれだけではない。

 ゼルは深く息を吸い込む。


 あの時――


 二人の男に押さえつけられ、犯されそうになっていながらもあの娘は誇りを失ってはいなかった。きらりと見開いた目は純粋な決意に満ちて。

 その瞬間、あの目に気づかなければ、自分はあの光を永久に知らないままだったろう。自分の命を断つための刃を見つめた大きな瞳が、あんなに強い翠色をしている事に。暗闇を苦もなく見透す彼の視力だが、さすがに暗闇で色までは分からない。

 あの美しい瞳が永久に閉じられる事が無くてよかったと今は思える。自分が間に合ってよかったと。その一瞬前までは、どうでもいい命の一つだった筈なのに。

 ——だが、まぁ……

 これきりの関係しか思えない。

 ——どうやら正真正銘のお嬢さんみたいだし。命を狙われたのもそれが理由なんだろうよ。あれだ、身代金目的の誘拐だ。チンピラ達は特に訓練された奴らではなかったし、ゾクだと言っていたが、この町に無数にあるシケた組織の一つなんだろう。

 そう考えながらゼライドは自分の心が鉛のように重くなっていくのを感じた。人間に対して興味のない彼にとって。こんなことは非常に稀なことなのだ。

 ——しかし、なんであの娘はあんな時間に街の外にいたんだ?

 自分があの娘の身内なら問いただしてもいいくらい不自然な事だ。実はもう少しで、そうしてしまうところだったのだ。

 彼女の属する組織とは一体何なのだろう。シティの郊外には広大な農場や大規模な工場がある。しかし、そこには泊まり込みの労働者の為にきちんと管理された官舎が整備されているのだから、きれいな若い女が深更、フリーウエイを車で飛ばす理由にはならないのだ。

 変な……不思議な娘……ものすごく気を乱されてしまう。

 だが本能が告げていた。あの娘にこれ以上関わり合ってはいけないのだと。

 そして、ゼライドの本能は今まで幾度となく彼を救って来たのだ。生き抜く事に対する自分の勘をゼルは信じていた。と言うか、それしか信じていなかったのだ。


 前庭には芝ではなく、磨かれた大粒の砂利が敷き詰めてある。万が一、外から侵入者が来た場合、足音を消せないように。そしてその先の隅に白い彼女の車が止めてあった。小さな靴がちゃりちゃりと石を踏みつけてゆく。

 と、娘が砂利に足を取られてよろけた。乾き始めた金髪が舞う。

「バカ、何やってんだ」

 ——やっぱり見えてないんじゃないのか?

 思わずゼライドの両腕が伸びていた。そこには窓枠しかないのに。不意に動いたので、ティプシーが驚いて羽を伸ばす。だが、彼の思いが伝わったのか、娘は何とか転ばずに踏みとどまり、照れくさそうにちょっと笑ってから自分の車のドアに手をかけている。

 ——うわぁ……笑ってらぁ

 確か目を覚ます直前にも彼女はふわりと微笑んだのだった。思わず見蕩れてしまったほど可愛らしく。

 しかし、パッチリと覚醒して自分と向き合っていた時はかなり緊張した様子だった。無理もない。ならず者に乱暴されそうになった上、獰猛な獣にも襲われそうになり、気を失って目覚めたら、もっと凶悪そうな男が傍にいたのだ。

 普通の娘なら再度気絶している。

 ゼルは自分の容貌が人に与える印象を知っていた。

 平均的な体格の成人男性より軽く二回りは大きな体に、浅黒い皮膚。色を選ぶのが面倒で、常に黒い服ばかりを着ている為、彼の周囲は昼間でも闇がわだかまっているように見える。それとは対照的に、わざと整えない長い髪は灰色で、あちこちデタラメに流れている。

 そして何より鋭い光を湛えた酷薄そうな氷色の瞳。

 誰かをじっと見据えて目を逸らされなかった例がない。彼に睨みつけているつもりが無くともだ。弱い普通の人間は無意識に危険の匂いを嗅ぎ分け、彼に見られぬように近づかぬように、しかし遠目に注意を向けている。

 もっともこの風貌を好んで寄って来るものも少なくはない。

 しかし、それらは大抵一癖も二癖も有りそうな曰く付きの輩ばかりだ。まっとうに生きている市民なら視線を合わせることすら怖がる外見なのだ。

 目覚めてこんな男が自分の寝ている寝台の傍に突っ立っていたら、大抵の女は自分の貞操に何かあったのではと恐怖するのが普通だろう。

 実際には必要以上に見ても触ってもいないのだが。

 これ以上怖がらせまいと、会話も最小限に止めたつもりだった。だが、娘は緊張と不審で縮こまっていたものの、表情は豊かであった。自分の行動を恥じるように彼のいさめにも素直に頷いた。もっといろいろ聞く事も出来たが、まだ疲れているようだったし、後はゆっくり休めるようにさっさと切り上げて出てきたつもりだ。

今見た感じでは風呂も使ったようだし、恐怖で竦み上がっている様子ではない。車は荒らされていなかったし、荷物も残っていたから今頃はもっと落ち着いているだろう。

 ——見かけによらず、すげぇ度胸と覚悟のある娘なんだな。けど、あばよ……もう二度とあんたには会わねぇ。

 直ぐに車に乗り込むと思いきや、娘はドアに手をかけたまま大きく振り返った。

 雨上がりの朝日を受けて少し眩しそうにこちらを見上げている。自分がどんな所に連れ込まれたのか確認しているのだろう。当然の心構えだ。門扉にはネームプレートも番地も公開していないが、200モルも行けばサークルラインにでるから所在は直ぐに分かる。

 ——もしかしたら、日を改めて忘れて行ったグラスを引き取りに来たり、助けられた礼を言いに来たりするかもしれない。きちんとした家の娘なんだったらそういう可能性もある。

 ーーそうなったらやばい。少しの間、ここを離れた方がいいかもしれん

 本当は怖い目に会ったのだから、娘を家まで送ってやった方がいいのはわかっていた。

 だが、こんな野蛮そうな男が彼女の家を知るなどためらわれたし、万が一家族に見られたら間違いなく不愉快なことに巻き込まれる。この家のある場所は高級住宅地だから治安はいい。だから、これ以上彼女の、そして自分の生活を掻き乱すことはよろしくない。

 幸い、仕事は引きも切らず向うからやって来るし、最近「狩人」の出現も耳にしない。己の懐も十分潤っている。数日行方をくらませたって、エージェントのパルミナとはいつでも連絡が取れるから問題は無い。

 ——ま、どうせこれきりだろうし、万が一グラスを取りに来たとしても、いないとなりゃ直ぐ諦めてひっ返すだろうが、念のためにちょいと間をおくか。

 ゼライドは訳のわからない喪失感に無理やり蓋をしながら、翼竜の顎を掻いてやった。

「ティプシー、俺の代りに彼女を送ってくれねぇか?」

「ギャ?」

「なんかあったら知らせに戻ってきてほしいんだ……まぁ、あの様子じゃ心配ないだろうが」


 娘はしばらく睨みつけるようにこちらを見ていたが、やがて大きく顔を|顰(しか)めて、赤い舌を思いっきり突きだすと、さっと車に乗り込んだ。まさかゼルが見えていた訳ではないだろうが、角度的にはどんぴしゃである。

 ーー何だ今のは。

 我知らずゼライドは口角を上げた。

 ——負けてねぇ、ちっとも負けてねぇ。でも……ああ、行っちまうんだな。二度と会う事はねぇだろう。

 だが、それでいい。


 ぷるるとエンジンのかかる音がして、白い車は砂利をぱちぱちと刎ねかせながら発進する。門から出る直前に、横顔を傾けてこっちを覗きこむ気配があったので、ゼルは思わず窓際から離れた。

 遠ざかるエンジン音。

 ティプシーが空高く舞い上がる。

 ——行っちまったな……。

 敢えて名前も聞かなかった。折角名乗ってくれそうだったのに、慌てて止めた。名乗られたところでどうなるものでもない。心の奥の方で聞けばよかったと言う囁きには気づかぬふりをする。それが普通だし、それでいい。豪華な金髪と、翠の瞳。明るい日差しの元、突き出した赤い舌が視覚的に妙な残像となっている。

 ほんの一瞬自分の記憶を彩り、そしてそれはすぐに過去となる。

 ただ――それだけのことだった。


 ゼルは苦く笑い、窓辺を後にした。




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