第6話 5.不安で不満な朝 1
雨は夜明け前に降る。
雨は夜明け前に降る。
それは大地には潤いと恵みを
人間には――
咎人の秘された罪、
そうして曙の光とともに去ってゆく。
それは世界がここに在る限り連綿と繰り返し、違える事のない天と地の約束事。
だからこの世界の夜明けはうつくしい。
例え、今日がどんなに暴虐と不条理に
ざんざんざん ざんざんざん
こぽこぽこぽ ざんざんざん
雨垂れの音に混じって、別の水音がする。雨よりもずっと穏やかで安心できる音が。おまけに香ばしくてセピアな感じの嗅ぎ慣れた香り。
——ああ……
目を閉じたままユーフェミアはにっこりした。
——そうか、コーヒーか。コーヒーの匂いだわこれは。昨夜タイマーしといたんだっけ? 記憶にないけど。
——とても飲みたい。けど眠い。
酷く体が重かった。
——もう少し眠ってもいい筈だわ。だって今日は久しぶりの休みだし、すばらしい研究成果に興奮冷めやらぬまま帰ってきたし。うん、お気に入りの枕を抱いて、もう一度眠ろう。
ユーフェミアはころんと寝がえりをうってそこにある筈の枕を引き寄せた……つもりだった。
——ん? お気に入りの……まく……ら?
ユーフェミアは目を閉じたまま眉をしかめた。
ーーこれなんか硬い。それに妙な形。
まるで地面に
——あ、そうか。これは枕じゃなく、丸太だ。まくらとまるたで語呂もいいし……でもなんでベッドに丸太ん棒が突き刺さっているんだろ?
千分の一秒で瞼が上がった。
ぱちりと音が鳴らなかったのが不思議なくらいだ。睫毛が触れる程近くにある物体。自分がほっぺたを寄せているソレは、勿論丸太なんかではなかったが、形状は似た様なものだった。
ユーフェミアは今や完全に覚醒し、自分の頬と両手が巻きついている物体を凝視する。
それは人の腕だった。
——うわっ……! ナニコレ⁉︎
ひぃと息を漏らして物体を放り投げる。無論それは比喩で、実際にはソレはビクとも動じず、むしろ自分の腰が引けただけだったのだが。
「起きたか?」
「はへ?」
低い声が上から降って来た。
首を捻じ曲げて上を見ると、思ったより離れた、しかし真上に半裸の男の顔があった。男は寝台に片手を突いて自分を見下ろしており、その太い手首に自分の両手が巻きついている。どうやら硬い感触はこの腕だったらしい。
「ひやぁっ!」
ユーフェミアは横になったまま、更にざざざと後ろに下がった。ぴしりと張られたシーツが盛大によれたようだ。男は不思議そうに首を傾げたが、ユーフェミアにもシーツにもまったく頓着した様子はなかった。
「もうじき雨が上がる」
男は唐突にそう言って腰を伸ばした。すごい体をしている。
——だ、誰? 誰誰誰誰だれ?
ユーフェミアはなけなしの自制心を総動員して金切り声を飲み込んだ。
おかげで叫び出すことはなかったが、内心はかなりの恐慌状態だ。関節が白くなるほど掛け布を引っ掴んで硬直している。男は動かない。暫く二人は無言で対峙していた。
「恐れる事はねぇ。つっても……無理だろうがな」
「……」
そして再び沈黙。
自分を見つめる薄青い瞳は鋭いが、
漸くほんの少しだけ気持ちが落ち着いてくる。視線だけずらせて、周囲を窺うゆとりが湧いてきた。
部屋は広くて壁が白い為、薄明かりの中でも割合明るい。そのせいでユーフェミアは男をよく見る事ができた――というか、思わず魅入ってしまうほど男の姿はあらゆる意味で特徴的なのだ。
野生的な鋭い顔はそれぞれの部品の配置が非常に整っている。薄青い瞳の輝きは強く目が離せないほどだ。
髪はいかにも適当に切ったと言わんばかりに伸び放題だが、見事な銀灰色で、肌が浅黒い為一層目立つ。その肌は
堂々たる体格の美丈夫だった。まるで男性誌のモデルのようだ。
だが彼は、奇妙な表情でじっとこちらを見ていた。その強い瞳で。ユーフェミアも自分から目をそらすことができなかった。二人は物も言えずにお互いの瞳の中にいた。
やがて男は視線を外し、横を向いてしまった。小さい吐息を洩らすと首を振り、片手で口元を覆って何かを考え込んでいるようだ。
その仕草は素っ気ないが、粗暴なものではない。だが、ユーフェミアは訳の分からない狼狽を感じ、取りあえず男から出来るだけ離れて、よっこらしょと起き上がった。
「すみませんが……どなた……ですか? そしてここはどこでしょう?」
自分の声とは思えない弱々しい声ではあったが、なんとか普通の声を出せた事にユーフェミアは安堵する。
「……成り行きであんたを助けてしまった男だ。そしてここは取りあえずの俺の家」
彼女の問いかけに、その外見に相応しい低い声が静かに応じた。
穏やかとも言える声音ではあったが、その口にちらりと牙のようなものが覗いた。ユーフェミアの瞳は極限まで見開かれる。
「たすけ……? ああ!」
——そうだ、思い出した。どうして今まで忘れていられたんだろう? なんで、私がこんなハメになったのか。
それは昨夜・・・と言うより今朝の出来事だった。
数時間前に起きた事がどっと蘇る。フリーウエイに急に飛び出してきた男達、脅かされて草むらに引き倒され、強姦されそうになった事、そして……
「わ……私、私、わた……」
思わず自分を強く掻き
「おい、お前、大丈夫か?」
がっしりとした大きな手が肩に置かれ、ユーフェミアはそこで初めて自分が大きく震えていた事を知った。
はっと顔を上げると、さっきより近い位置に自分を見つめる見知らぬ男の顔。彼は長身を窮屈そうに折ってベッドに屈みこんでいた。浅黒い肌に
——見覚えがあるような……でも、何かが違う――そう、昨夜はもっと銀色に光って……
それは昂った心を清冽な流れに浸す感覚。
色は冷たいのに気持ちが優しい温度に包まれてゆく。男の眼はそんな色だった。
そして肩に置かれた手は、その大きさに比例してとても温かい。どのくらいの時間が経ったのか、不思議な冷たさと温かさに包まれて、飲み込まれそうになっていた恐慌の嵐がゆっくりと鎮まる。
「……でっかい目だな。すげぇ翠色だ」
肩の震えが収まるのを辛抱強く待っていた男の目がふっと細められる。そして偶然なのか、男もユーフェミアの目の色を口にした。
「え? 目? あ……あなたが助けてくれたの?」
「今そう言ったじゃねぇか」
男は面白くもなさそうに言って視線を落とした。釣られてユーフェミアも自分の体に目を向ける。身に付けていたズボンはそのままで、掛け布の下の上半身には大きめのタオルが几帳面に巻きつけてある。よく見るとタオルの更に下には、元々着ていたシャツまで破れたまま貼りついている。つまり、靴が脱がされていた他は、この男は彼女の体に触れていないと言う事だ。
——本当に悪い人ではないのかな……?
「あの……あの男達は?」
「知らない。どっか行っちまった。何者かも知らん、興味もねぇ。だが、あの分ではあんたを二度と襲う事はなさそうだ」
それはそうだろう。一人は5
「けど、あいつらは私があの時間にフリーウエイを通るって知ってたみたいなんだもの!」
「いつもあんな時刻に外から街に戻るのか?」
「いつもじゃない。昨夜は特別だったから……」
「昨夜と言うより今朝だがな。二度とするな。命が惜しいんならな」
「……はい」
「……」
俯いてしまったユーフェミアには見えなかったが、男は僅かに目を見張り、そして逸らせた。
「だが、俺は奴らに警告しておいた。確かに待ち伏せされてたようだが次はおそらくない。だから取りあえず安心するといい。後は警察にまかせるんだな」
「……」
ユーフェミアは黙った。
この男の警告とは、ならず者達にそれほど効力を発揮するものなのだろうか? 確かにものすごく強かったようだが。それに警察に行くと言う事は、姉にも知られると言う事だ。それは拙い。非常に拙い。だが、仮にも生命を狙われたんだから、このままで済ませると言う訳にもいかなさそうだった。
「どうした」
がっくりと落とされた肩を見て、男は尋ねた。
「いえ、何でもありません。……それで、あの……じ、獣は?」
「覚えていたか。あれは既に俺が処分した。お前は知らなくていい。と言うか、忘れろ」
と言う事は、自分が気を失ってからこの男はいろいろ働いたようだった。
一体どこであの獣、ビジュールを処分したと言うのだろう。そもそも処分とはどう言う意味だろうか? 殺しただけでは死体が残ると言う意味か?
ユーフェミアの専門は植物だが、それでも生物を取り扱う事には変わりが無い。ああ言う危険で珍しい生き物の処分は、死体でも当局に色々と面倒な手続きがいる筈なのだ。しかし、それを聞くのは憚られる。もっとも、たとえ聞いても答えては貰えないだろうが。
「あの……すっかり遅くなったけどもお礼を言わないと……助けてくれてありがとう」
ユーフェミアはおずおずと礼を述べた。
彼は自分に害なす気――というより、興味がないようだとなんとなくわかり始めていて、それがほんの少し残念だった。
「別に成り行きだから気にしないでいい。雨が止んだら帰れ。お前の車は家の前に確保してある」
最早ユーフェミアの方を見もしないで部屋を横切ってゆく広い背中。男は無造作に椅子に投げ出してあったシャツを着ている。動きがいちいちサマになっているのもこの男に似つかわしく。
黒いぴったりした半袖シャツに包まれた首は太く、肩は分厚く、二の腕は瘤のような筋肉に覆われている。それなのに腰は引き締まって、尻などは、さすがにユーフェミアよりはしっかりしているだろうが、彼女の家政婦であるメイヨー夫人等と比べたら小さいと言っても差し支えないほどだ。そして下半身もやはり、発達した筋肉に張り付くレザーのボトムに包まれ、鋲を打った
それは紛う事なき戦士の姿。
慌ててユーフェミアは上掛けを剥ぎ、きっちり巻かれたタオルが許せる限りの範囲で寝台の端ににじり寄った。
「でも……でも! ここがどこだか分からないの。……ここは一体どこなんですか? あのえっと……ぜ、ゼルさ……ん?」
ユーフェミアは昨夜聞こえた男の名を必死に思い出しながら悲壮な声で尋ねた。その問いに男はやっと足を止め――僅かに首を曲げてこちらに端正な横顔を晒した。
「覚えていたか。ゼルでいい。敬称はいらん」
「随分短い名前ね、あだ名?」
おそらく本名ではないのだろう。
「私はユー……」
「いい! 言わなくて」
「え?」
焦ったように遮られてユーフェミアは目を見張った。
「どうせもう会う事はねぇ。俺なんかに名のったってなんもいい事はないぜ。ここはゴシック・シティ西のS地区だ。前の道を東にまっすぐ行けば、ミドルサークルに出る。身支度をしたければ、こっちのドアは浴室だから好きに使えばいい。あり合わせでよければ着替えも置いてある。俺はあっちいってるから」
男は今までで一番長く喋りながらじりじりと後退してゆく。ドアまで下がったところでサイドボードの上にセットされた保温ポットからコーヒーをカップに注いで、傍の卓に置くとなぜだか俯いている。
S地区とはかなりの高級住宅街である。ユーフェミアは驚いて辺りを見渡した。今まで気付かなかったが、彼女が寝かされているのは、天蓋付きの大層立派な寝台である。調度類もしつらいはシンプルだが高級品ばかりだった。
「……ここはあなたの部屋?」
「
そう言い放って今度こそ男――ゼルは出て行った。黒く塗られた重厚な木製のドアがゆっくりと閉じられ、黒い男を隠してゆく。
——なんなの?
寝台に一人取り残されて、ユーフェミアはどっと脱力する。
——いったい何者なの? 悪い人ではなさそうだけど
とにかく、このままではいられない。シャツは破られてズタズタだし、髪は解れてぐちゃぐちゃだ。彼女はそっと寝台を下りると、教えられた通り、隣のドアに向かった。
浴室も矢張り広く、真っ白に塗られていて清潔そうだった。
定時の雨は程なく上がるだろう。この世界に住むものならば、朝は雨上がりと供に訪れるものと認識している。空は既に半分ほど明け染めていた。太陽が昇り始めているのだ。生まれたての曙の光はまだ水のように淡い。
浴室の壁に窓は無かったが、天井には格子が嵌った大きな天窓があり、雨の粒が溜まっているのが見える。
まだ薄暗かったが敢えて明かりは付けなかった。
じきに白い浴室は朝の光で満たされるだろう。そう言えば寝室にも大きな窓があったが、やはり頑丈な格子が嵌っていた。セキュリティの一部なのだろうか? それにしては時代がかっている。
考えても仕方が無いのでユーフェミアはさっさと衣服を脱いで、シャワーのカランを大きく捻った。たっぷりとした湯が贅沢に流れ出る。
傍に大きめの浴槽があり、ゆっくり体を温めたかったが、さすに使うのは躊躇われた。壁に埋め込まれた化粧棚には高級そうなシャンプーや石鹸が新品のまま並べられている。よく見ると泡の出る入浴剤や、香り高いバスオイルまで揃っており、このようなものをあの無骨そうな男が買い揃えて置く筈はないから、おそらく管理人がいるのだろうとユーフェミアは思った。
遠慮なく薔薇の形をした石鹸の包み紙を破り、ボディスポンジで丹念に体を洗う。スポンジも上質な物で、きめ細かい泡が立った。あの下衆達に触られた箇所は二度洗いした。そのぐらいであの不快な感触はなかなか忘れられそうにはないが、今ユーフェミアの一番の関心事はその事ではない。恐怖を上書きするのに最も良い方法は、その恐怖以上の強烈な体験をすることだ。つまり、謎めいた美丈夫との邂逅という、今置かれた現状。
そのせいで、普通ならもっと不愉快な精神状態に陥るところを救われているのかもしれなかった。
きゅ、とシャワーを止めた頃には、随分といつもの調子が戻ってきたように思う。
戸棚から大きなタオルを出して広げると、それはやはり有名なブランド品で、肌触りが最高にいい。良質の木綿が髪や肌の水分をどんどん吸い取ってくれる。ユーフェミアは備え付けの化粧水でざっと肌を整えると、ついでにこれ又高級品のオーデコロンを拝借して軽くスプレーした。その香りは決して強くなく、さわやかな柑橘系の香りである。
髪は濡れているので
——わぁ、大きいとは思ったけれど、本当にものすっごく大きいわ。
ユーフェミアはどちらかと言えば小柄だが、それでも成人女性の平均身長よりほんの少し低いだけだ。なのに、貸して貰ったこの黒いシャツは太股を通り越して膝のやや上まである。それに比べれば身幅はまだ細い方だが、それでもユーフェミアが二人は優に入れるだろう。袖は何重にも折り返さなくてはならなかった。しかし、構うことなく下着を付け、何とか無事だったボトムをはたいて脚をねじ込んだ。
パン!
さすがに化粧品まではなかったので、鏡に向かって頬を叩く。
白すぎる肌に一時的な赤みを与えると、いつもより念入りに髪を梳かした。ユーフェミアの豪華な金髪は腰の辺りまである。濡れた所為で今は少し重い色合いだ。豊かさも艶もたっぷりとしているが、彼女自身はこの髪を気に入っている訳ではない。色が派手すぎるからだ。
同じく大きすぎる目は、生えたばかりの春苔の様に鮮やかな翠色で、いかにも軽薄なお
それでもこれが持って生まれた自分の顔なのだ。
諦めて櫛を置くと、使ったタオルで濡れた浴室をざっと拭き、洗濯機は見当たらないので床に置かれた籠に投げ入れた。これでここではもうすることはない。
寝室に戻ると予想通り、そこにはもう誰もいなかった。少しばかりがっかりする。あの不思議な男はもう自室に戻って休んでいるのだろうか? 聞いた話からすると、夕べ彼は随分苦労した筈なのだ。
しかし、考えても仕方がないので、さっき淹れてくれたコーヒーのカップを手に取る。大きな分厚いそれになみなみと注がれたコーヒーはまだ覚めておらず、苦味と酸味が舌と脳を刺激してくれた。
——何で彼は私を助けてくれたのだろう? 成り行きだって言ってたけど……っていうか、そもそも何で私が襲われている事がわかったのかしら?
考えてみたらあまりにでき過ぎた話だ。
彼が車で夜のハイウェイを通りかかったのは本当に偶然なのかとユーフェミアは危ぶみはじめた。雨の降る直前のあの時刻に、街の外に出る者はまずいないからだ。
普通の人間ならば。
しかし、ユーフェミアだってあの時刻に街の外にいたのだ。
誰もいない、すなわち危険はないとタカを括っていたからだ。それがとんでもない間違いだったのはもう身に染みて分かったが、自分みたいな非力な女でもそうなのだから、あんなに優れた体格と戦闘能力を持つ立派な男が街の外にいて何の不思議があろう。
現に彼は苦もなくならず者二人をやっつけて――
——って、それだけじゃない!
彼は襲い掛かる凶暴な獣を、たった一人で打ち負かしてしまったのだ。それも素手で。こんなことが人間に出来る訳が無い。そして、ああ、そうだ。
ユーフェミアはあの時確かに見たのだ。
雨が降る直前の一番濃い闇の中で、彼の瞳は何の光源もないのに輝いていたのだ。銀色の光を帯びて。
——彼はいったい何者なんだろう?
その問いばかりが頭を駆け巡った。
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