最終章 『鳥人』

「ようやく面が割れたな」

 私の首をへし折らんとする摩耶に向けて、かすれた声で告げた。

 首を圧迫する手にさらに力がこもる。指が食い込み、喉が潰れそうだ。呼吸さえも思うようにできず、意識が薄れていきそうになるのを気力だけで持ちこたえた。

「摩耶、なぜ僕を襲うのだ」

 私は摩耶に問いかける。彼女の目は理性を持った人間ではなく、獲物を捕らえようとするハンターそのものだった。彼女の猛禽類的本能が私を獲物として認識していることは確かだった。

 どれだけ身体をひねろうと彼女の強靭な肉体はビクともせず、私の自由は完全に封じられている。喉を鷲掴みにする彼女の手を引き剥がそうと力を込めれば、さらに上をゆく力で応じられてしまった。そのたびにじわりと彼女の爪が皮膚に食い込むのを感じた。

 首の関節がきしんで音を立て、体内で不気味に響いた。少しでも力を緩めれば、簡単に殺されてしまいそうだった。それほどに彼女からは殺気が満ち溢れていた。

 しかし、その強引さはいつもの彼女の狩りの姿とは一致しない。彼女の容姿をまとっただけの別人のようだった。あの、音もなく目にも留まらぬ速さで華麗に狩りをする彼女はどこへ行ってしまったというのだ。

 彼女は私の首元に喰いつこうと、口を開いた。吐息はなんとなく生臭くて、口元には血痕が見えた。私が寝床を出てここへ来るまでのほんの数分間で、彼女はすでに何かを喰らったらしい。

 開いた口には並んだ歯が白く艶めく。お世辞にも歯並びが良いとは言えず、ややずれて生えた犬歯が肉食生物らしさを放っていた。

 彼女の白い歯に、赤い光が反射した。

 巡回中のパトカーだった。

 急ブレーキでパトカーが停まり、降りて来た警官が彼女へ飛び掛かる。彼らは私から彼女を引き剥がそうとするが、彼女も相当な力で応戦した。彼女が引き剥がされまいとこわばるたびに、私の喉に突き立てられた爪が食い込んだ。口の中は鉄の味で満ちていた。

 彼女は両手で私を捕らえたまま、両の翼で警官たちを薙ぎ払った。屈強な警官たちはいとも簡単に吹き飛んだ。

 けたたましいサイレンの音とともに、応援のパトカーが到着した。辺りを無数の赤い光が行き交う。

 再び複数の警官が彼女を取り押さえにかかるが、彼女の強靭な翼に一蹴されてしまう。

 警官たちは警戒して、彼女から距離を取った。

 その直後、破裂音が耳を裂いた。

 警官の一人が威嚇射撃をしたのだ。

 音と同時に彼女の身体がこわばるのを感じた。彼女は顔を上げて辺りを見回す。すっと彼女の力が抜けた。首にかけられた手から私は逃れ、馬乗りになった彼女を振り落とした。

 地面に転げた彼女が驚いた目でこちらを見る。その目は、いつもの黒目が多くてくりくりした彼女の目だった。

 警官が再び威嚇射撃をし、じりじりと距離を詰めてくる。

 彼女は私に切なげな目を向け、大きく翼を広げた。わあっと声が上がり、一人の警官が突進した。

 間一髪で彼女はそれをかわし、そのまま夜空へ羽ばたいた。バサバサと大きな音を立て、ぐんぐん上昇していく。

 警官たちはなすすべなく、見上げるだけだった。

 一人の警官がこちらへ駆け寄る。

「きみ、大丈夫か」

 喉がやられてしまったらしい。私はそれに答えることができなかった。

 代わりに私も翼を広げる。駆け寄ってきた警官が後ずさった。

 再び彼らに緊張が走るのを感じた。

 私は彼らには目もくれず、地面を蹴って飛びあがった。墜落した際に、左の翼を損傷したらしい。羽ばたくたびに激痛が走る。痛みで声が漏れそうになる。痛みにこらえようと食いしばれば、今度は喉の痛みが増幅する。

 彼女の姿がみるみる小さくなっていく。

「摩耶」

 出ない声を振り絞る。もちろん彼女には届かない。

 米粒になった彼女の姿、いつになく大きい羽音、女性らしいやわらかな甘い匂い、五感全てを使って彼女を見失わないよう努めた。

 それでも彼女の姿はいよいよ見えなくなり、匂いや音も途絶えてしまった。

 眼下には夏の送り火に用いる大文字の火床かぽっかりと開けている。かつて私が顎に大きな怪我を負った山塊は、鬱蒼とした闇を湛えている。

 この山を越えて行けば、琵琶湖のほとりの街にでる。果たして、彼女はそこへ行くだろうか。彼女が人目につく可能性がある場所へ行くとは思えなかった。

 ならば、彼女の行先として今考えられるのは眼下に広がる山塊だった。昼間はハイカーで賑わうこともあるが、夜間ともなれば人の気配はない。シカやイノシシが溢れる自然の楽園となり、身を隠すにはうってつけだった。

 私は火床に目掛けて降下する。大の字のちょうど真ん中目掛けて降りた。闇夜にシカの目が光り、私と目が合うと散っていった。

 周囲を見回した。眼下には街の夜景が煌めく。この距離でもパトカーの赤色灯の光が見える。私や摩耶を探して、縦横に行き来しているのだろう。

 遠くてシカがこちらを覗っている。私が一歩彼らに近づくと、彼らも一歩距離を置く。彼らなりの警戒心なので仕方がないが、周囲をびっしりとシカの目に囲まれると落ち着かない。

 彼らを気にしている場合ではないと思い、私は大の字の上へ向けて駆けのぼった。シカたちは甲高い鳴き声とともに移動を開始する。キーン、キーンと鼓膜に響く中に、一匹だけ、違う声が聞こえた。

 私が目指していた方向から聞こえたそれは、間違いなく断末魔の叫びで、にわかにシカたちにも緊張が走るのがわかった。彼らはもう私のことなど見ていなくて、悲鳴が聞こえた方向に顔を向け、耳をピンと立てていた。

 シカの悲鳴が聞こえなくなった。開けた火床からは外れた森の中へ、私は足を踏み入れる。途端に月明かりも街の明かりも届かなくなり、目鼻先まで濃い闇が迫った。

 私は息を殺し、気配を消してじわじわと進んだ。聞こえるのは風が木々を揺らす音と、何かを咀嚼する音だけだった。一歩、また一歩と進むたびに、咀嚼音は大きくなった。時折、何かを噛み砕く音や啜る音が聞こえる。私は姿勢を低くし、木々に隠れながら様子を伺った。

 暗闇の中で小鹿を喰らう奴は、間違いなく摩耶だった。私が不用意に近づいたところで、勝ち目がないのはわかっている。せめて、いつもの摩耶に戻ってくれればと思い、じっと相手の様子を伺った。

 彼女は小鹿の骨までしゃぶり、毛皮と骨以外を綺麗に食べ尽くしていた。いつか見た狸の亡骸を思い出させた。そういえば、いつも綺麗に食べる彼女を見て、「食べ方が綺麗な女性は魅力的だなあ」と思ったこともあった。

 小鹿が無残な姿になった。腹が膨れた彼女が、ふらふらとし始めた。目は虚ろで、時折手でこすっている。幼い子供のように眠そうな顔をした。

 そして、そのまま転げるように眠りに落ちた。

 私は彼女に駆け寄った。寝ている彼女のそばによると、健やかな寝息が聞こえており、あまりにも無防備だった。

 起こすべきか悩む。彼女を起こして私に襲い掛かってくる可能性だってあるが、このままここで寝ていては、誰かに見つかってしまいかねない。

 私は意を決して、彼女を抱え上げた。

 いつか私が襲われた時、彼女は大男のように重く感じた。それが今はどうだろう。見た目通りの小柄な女性らしい重さで、私でも抱え上げることができた。

 どこへ連れて行くこともできず、ひとまずハイキングコースから外れた茂みの奥へ奥へと進んだ。これだけ森の奥へ入ってしまえばハイキングコースからは見えないだろうし、しばらく身を隠すこともできよう。

 そこで再び彼女を地面に寝かせる。まだ起きる気配がない。

 彼女の寝顔を見下ろす私の後ろに、何者かの気配を感じた。

 緊張が走る。近づいている気配も感じられなかった。それでも確かに、木々のざわめきに混じって相手の呼吸が聞こえるのだ。

「お得意さん、安心なさい」

 ふいに声を掛けられ、思わず振り返った。

 小柄なその人は私を見上げ、後ろ手を組みながら立っていた。

「番頭のばばあ」

 彼女は不敵な笑みを浮かべ、こちらを見ている。

 慌てて摩耶を隠そうとしたが、すでに手遅れだった。

 番頭のばばあは摩耶の姿を全身をくまなく見始めた。

「いや、彼女は違うんです」

「なに、心配要らない。私もかつてはあんたらと同じだったからね」

「同じ?」

「なんだい、何も知らずにうちの銭湯に来ていたのか」

 ばばあは彼女の脈や呼吸を確認している。

「私もね、昔はあんたらと同じように背中に翼が生えていたんだ。今は生えていないけど、怠るとまた生えてくるかもしれない」

「生えてくる?」

「うちの銭湯に毎日入っていれば、人間らしさを取り戻すことができる。怠ればどんどん鳥になっていってしまうよ」

 ということは、どういうことなのか。

「つまり、あの銭湯のお客さんは皆、僕と同じってことですか?」

 ばばあはゆっくりと頷いた。私が翼を生やしたままあの銭湯に入っても誰も何も言わなかったのは、皆同じだったかた、ということなのだ。毎日、同じ人が銭湯に入っているのは、入らないとこうなってしまうから、ということなのだろう。

「おばさん、摩耶はどうなるんです」

 私はばばあに激しく問うた。彼女が助かる手段を知るのは、もはやこの人しかいないと思われた。

「まあまあ落ち着きなさい」

「この状況で落ち着いていられるわけがあるか」

 私の声が一段と激しさを増した時、摩耶がビクンと動いた。

「摩耶」

 私は彼女に寄り、彼女の意識を確認した。

 彼女はうっすらと目を開けた。少しずつ焦点が整って、私の目と合った。

「ごめんなさい、わたし」

「摩耶、きみが無事で良かった。無理に喋らなくていい。きみが無事であれば、それでいい」

「そんな訳にはいかないの。わたしには、あなたに話さなきゃならないことがある」

 そういって彼女は状態を起こして、座りなおした。酷く疲れた顔と口元の血痕が相まって、ホラー映画に出てくる怪物のようだった。

「とにかく、これを見て」

 彼女はブラウスのボタンをはずしていく。上から順に、ぽつ、ぽつ、ぽつとブラウスが開かれていく。下着が見え、彼女の素肌が見えてくる。

 正確には彼女の素肌は見えなかった。

 彼女の素肌はびっしりと羽毛に覆われていた。白と黒のまだらになって、その姿はまるで、

「シマフクロウ」

 私の言葉に、彼女は頷いた。

 彼女はブラウスを広げて、その胸部や腹部をあらわにした。

「わたしに翼が生えたのは、もう一年以上も前。最初は翼の使い方もよくわからなかくて、リハビリしているみたいに使い方を覚えていったの。自由に飛べるようになってからは、楽しくて楽しくて、毎晩のように飛び回ったわ」

 彼女は自分の翼を労わるように撫でた。今まで深く気にしていなかったが、私の翼とは色が違っているのは、そもそも種類が違ったからなのだ。男か女か、個性か、程度にしか思っていなかったが、彼女はシマフクロウで私はアオバズク、異なっていて当然だった。

「五感がどんどん鳥になっていくのも楽しんでいたわ。虫だって、トカゲだって、ネズミだって、美味しくなっていったの。そんな風に鳥生活を満喫しているうちに、だんだん人間の部分が薄れていって」

 そこで彼女は言葉を詰まらせた。嗚咽が漏れ、鼻をすする音もする。

「時々、人間の理性を失って、野生の狩猟本能に支配された。ただただ食べて生き残ることだけ、それだけが私を動かしていった。小さな哺乳類じゃ満足いかなくなって、大型の動物を襲うようになった。それでも私を満たせなかった。シカやイノシシ、そして人間も襲うようになった。それに、突然だれかに見られたりすると本能的な恐怖に襲われて、闘わなきゃ殺されるんじゃないかって怖くなった」

 私が襲われた時、彼女は確実に私を獲物として認識していたし、私に応戦されてことでさらに彼女は闘わざるを得なくなってしまったということだ。警察の到着が少しでも遅れたり、私が押し負けたりしていれば、確実に私は彼女の餌食になっていただろう。

「わたしが人間を失うのは、最初は月に一度くらいだった。それが次第に増えて来て、半月に一回になって、週に一回になって、今じゃ二、三日に一回の頻度でこれがくるようになって」

 彼女は涙ながらに告げた。

「ごめんなさい。わたしがあなたを襲ったの」

 私は彼女の肩を抱き寄せた。

「摩耶。僕はずっと前から気付いていたんだ。僕を襲ったあの手は、間違いなくきみのその手だった」

 彼女は私の胸元に顔をうずめて、子供のように声をあげて泣いた。

「わたしは、生きてちゃいけないんだ。みんなに迷惑をかけちゃう。きみにも、危ない目にあわせちゃう」

 私は何も言わずに、彼女の頭と、白く美しい翼を撫でた。

「摩耶、きみがそうなってしまったということは、僕もいつか人間を失ってしまう可能性がある。それを何とかできるのは、たぶんこの人しかいない」

 私は番頭のばばあを摩耶に紹介した。さっきからここにいたのに、彼女は気付かなかったらしい。それほどにばばあからは気配が感じられず、相当な手練れであることが伺えた。

「心配は要らない。うちの風呂に幾日か浸かれば、人間らしさを取り戻せるさ」

「おばさん、今から彼女を麓まで連れて行く。たぶん山の中にいる間は人に見られることはないと思うけど、下に降りたら」

 そこまで言いかけたところで、再び緊張が走る。

 何者かがこちらへ近づいて来る。人間。しかも複数人。きっと私がこの方角へ飛び去るのを、警察が見ていたのかもしれない。

 私たちは音を立てず、より森の奥へと歩みを進めた。

 足元には木々の根が飛び出している。気を付けないとつまづきそうになる。音を立てずにそれらをかわし、できる限りの速さで奥へと進んだ。

 私を追ってきた一団がハイキングコースを外れてこちらに向かってくる。風に漂うこの臭いは、

「警察犬がいる」

 逃げるには、もう飛ぶしかないと思われた。しかし、私は翼に怪我を負っている。ばばあももう人間のなので飛ぶことはできない。せめて、摩耶だけでも逃がすことができないだろうか。

「摩耶、聞いてくれ。僕はもう飛ぶことはできない。おばさんだって今は人間だ。きみだけでも飛んで逃げてくれ。やつらは僕が食い止める。もうすぐ夜が明ける。暗いうちに銭湯まで飛ぶんだ。おばさんの銭湯に入って、人間を取り戻すんだ」

「食い止めるって、あなたどうするつもりなの」

「わからない。とにかくきみが銭湯に到着できるまでの時間を稼ぐだけさ。おばさん、摩耶をお願いします」

「バカ言わないで。あなた一人で何ができるっていうの」

「言い争っている時間はない、早く行くんだ。もう犬がそこまで迫ってきている」

 着実に犬の匂いが濃くなっていった。犬の呼吸音までがすぐ近くに感じられ、少し距離を置いたところで犬の鳴き声が響いた。

「摩耶、飛べ」

 私は摩耶を押し、犬へ向けて飛び掛かった。犬は躊躇いもなく私の右腕に噛みついて来た。叩こうと振り回そうと離さず、歯が腕に食い込んでいく。向こうでは警官たちの怒声が響く。

「いたぞ」

 私は犬に噛まれたまま、警官に向けて突進した。腕も翼も足も、六肢全てで警察たちをなぎ倒した。警棒で殴られようと、もう一匹の犬に噛まれようと私は止まらなかった。彼女が無事に人間に戻れるなら、私の命がどうなろうとかまわなかった。

 惚れた私が馬鹿だった。あんなに美しい女性を救って死ねるなら本望だった。ついに彼女に想いを伝えられなかったことだけが後悔として残った。死んだら彼女への未練で化けて出てやろうと思った。

 あとから応援でやってきた警官が威嚇発砲をした。野鳥的本能で身がこわばる。恐怖が心を支配する。それでも、私は、摩耶を救わなくてはならない。

 もがいてもがいて、再び火床へ辿り着いた。開けた斜面には猟友会が銃を構えてこちらを伺っていた。もはや、私は人間として扱われず、里山に降りて来てしまった野生動物と同じ扱いを受けようとしているのだ。あの銃に込められたものが、私を一時的に眠らせるものなのか、永遠に眠らせるものなのかは私にはわからない。

 犬や警官にもみくちゃにされ、私の衣類は八つ裂きになっていた。ちらりと見える素肌に、これまでには無かった羽毛が見えた。

 しだいに意識がぼんやりとしてくる。ダメだとわかっているけど、身体から沸き上がるものを抑えることはできなかった。

 私は、彼女のように人間を失い始めていた。猛禽類としての、野生の生き物としての恐怖から人間たちに歯向かうことしかできなかった。人間を失わずに保とうと努めるたびに、反発するように野生が込み上げてくる。目の前の犬や人間だけでなく、己ともせめぎ合いの争いを強いられていた。

 噛まれ叩かれするたびに、怒りや恐怖がぼわっと燃え上がる。暴れて、皆を殺し尽くさねばならない衝動に駆られる。

 下界にはうっすらと日が差し始める。視界が眩しくて、目を細めた。

 私にまとわりついていた警官や警察犬が私から距離を取った。

 今だと思い、翼の痛みをこらえて空へ舞い上がる。もうどこが痛いのかわからなくなっていた。

 夜を背に、朝日に向かって羽ばたいたが、ひと際大きな破裂音が響くと同時に、右翼に新たな激痛が走った。体勢を維持できず、そのまま大きく傾いてしまう。続けてもう一発、再び私の右翼を鉛玉が貫いた。赤黒い血が滴る。声にならない激痛が襲う。

 一度上がった高度は、みるみる下がっていく。広大な雑木林が眼下に迫り始めていた。

 摩耶は無事に逃げ切っただろうか。ばばあと一緒に下界へ降り、人間を取り戻せただろうか。

 私は落ちてゆく中で、下界を眺めた。銭湯の煙突はよく目立つ。うっすらだが、煙突から煙が昇っていた。ばばあがボイラーを動かしている証拠だ。摩耶は無事に、銭湯まで逃げ切れたらしい。

 視界が霞んだ。頭から血の気が引いていくような感覚。背筋には悪寒が走る。両手、両足、両翼から力は抜けた。

 もう終わるんだとわかった。自分が生まれてからのことが脳裏を過る。郷里の家族や親せきの顔が順に現れては消えた。学生時代の友人、勤めていた職場の面々。

 ああそうだ、私は仕事から逃げ出して、籠城していたのだ。仕事なし、彼女なし、貯金なしでどうすることもできずに、河川敷でいたずらに時間を浪費していた日々。あの日、本気で「鳥になりてぇ」と願った。優雅に大空を舞い、人間の苦悩とか責任とか義務から逃れたかった。

 人間社会から逃れてみたらどうだ。新たな苦悩とか危機があったじゃないか。食べること、生きること、そんな最低限のことで苦労があったじゃないか。人間でも鳥でもどっちつかずで、繁華街で起こした騒ぎのせいで思うように狩りができなくなったじゃないか。みるみる鳥になっていってしまい、自己をコントロールできなくなる同胞の姿を目の当たりにしたじゃないか。

 人間を捨てて鳥になることは、結局何の解決でもなかった。元の問題をなかったことにできる代わりに、同じだけの新たな問題に置き換えるだけのことだった。

 改めて、思う。人になりてぇ、もどりてぇ。

 鳥になりてぇと呟いてからのほんの数か月。初めて翼が生えた日。奇妙だと思いながらも、どこか楽しかった。初めて虫を食べた日。食べるために稼ぐ必要がないと思うと心が晴れやかになった。火床で顎を割った日。病院に行けないことがどれほどしんどいか思い知らされた。初めて飛んだ日。飛んだことよりもヌートリアの味のインパクトが強かったが、あれから自由に飛べるようになった。

 そして、初めて摩耶と出会った日。

 敵か味方かわからない。向こうの雑居ビルから騒動を眺めている彼女の纏う空気、容姿、全てが私の好みだった。あの頃にはすでに、自制が効かなくなり始めていたのだろう。騒ぎを自分が起こしたものなのか否かを、不安に駆られながら伺っていたのかもしれない。

 次に彼女に会った時。あれは驚いた。突然、視界の隅から恐ろしい速度で降下してきたものだから、悲鳴を挙げかけた。思い返せば、彼女は私を襲おうとしていたのかもしれない。にもかかわらず、冷静に「下手くそね」と言った辺りは、彼女を称えたい。

 それから幾度も会釈を無視されて、ようやく彼女から話しかけられた夜に見た無残な狸の姿。彼女は何を思って私にあれを見せたのか。私もいつかは自制ができなくなるという警告か、はたまた彼女なりのSOSだったのか。

 あれから二人で過ごした日々。二人で行動することで彼女自身を監視する意味があったのだと、ようやくわかった。彼女はそういうつもりでも、私は彼女に惚れていたものだから、毎日心が弾んでいた。

 自分が彼女へ想いを告げるところを想像する。柄にもなさ過ぎて、うまく想像はできなかった。ただ、私の妄想の中で、彼女は美しく、華麗に獲物を捕らえていった。

 もう一発、雷鳴が轟いた。今度は確かな衝撃があった。私の胸元が温かい。身体は大きく揺れた。

 私の胸元にしがみつく摩耶の姿があった。

 彼女は私を抱きかかえて羽ばたいていた。彼女が居なければ、私は地面に叩きつけられていたに違いない。

 しかし。

「摩耶、お前、背中から血が出ているじゃないか」

「大丈夫よ、これくらい」

 彼女は先ほどの銃撃を背中でまともに受けたらしい。私の翼とは比べ物にならない量の血液を垂らし、彼女が羽ばたくたびに溢れるように出てきた。

 私は彼女の傷口に手を当て、止血を試みた。指の隙間からみるみる血液が溢れてくるので、力を込めて彼女を抱き寄せたが、その肩越しにこちらへ向けられた銃口が目に入った。

「やめろ、撃つなっ!」

 私の声は届かず、何度目かの鋭い銃声が響いた。

 摩耶が小さな呻きを挙げ、目が見開かれる。吐血。

 私と摩耶はもつれるようにして、火床から外れた雑木林に墜落した。私は彼女をかばうように抱き寄せ、地面に叩きつけられた。

 一瞬、衝撃で意識が遠のくような感覚があった。気力で呼び寄せた意識で目を開くと、私の隣で横たわる摩耶の姿があった。

 彼女の背中からはおびただしい量の血が流れだす。

 呼吸が荒くなる。息を吸うたびに嫌な音を立てながら、彼女はこちらを見ていた。

「摩耶、なんで。なんでなんだ」

 私の問いに、もはや彼女は答えられる状況ではなかった。彼女は笑いながら、私の翼を撫でた。

 私が初めて見た彼女の笑顔だった。

 私の翼を撫でた手から力が抜けた。

 彼女は笑ったままだった。


   ◇


 あの夜、私は何者かに突然、抱え上げられて下山した。彼女の亡骸を置いていくことに反対をしたが、抱えられたまま何もできず、従うしかなかった。

 何者かは私を担いだまま、縦横無尽に住宅街を駆け、そのまま銭湯へと到着した。何者かは、いつも我が物顔で銭湯を利用する常連客だった。脱衣場へ担ぎ込まれると、いつもは人間カーリングをしている学生たちが白衣に身を包み、薬品の臭いをぷんぷんさせていた。ベンチに横たえられた私は、彼らの手によって速やかに局部麻酔をかけられた。彼らは慣れた手際で私の翼に残った弾丸を摘まみだし、縫合してくれた。普段は医学部の学生として勉学に励んでいるらしい。

 その後、翼に医療用の防水シートを張られた私は浴室内の椅子に座らされた。ロッカーのキーを左肩に付けた例の人に、されるがままに身を洗われた。もちろん、素手で。

 いつも怒声を挙げている常連客がいつもと変わらぬ怒声で指揮をとり、私の治療は完了した。男湯を覗きに来る老婆は、今日も覗きに来ただけだった。

 数日間、銭湯にかくまってもらううちに、身体の腹や胸の羽毛はぽろぽろと抜け落ちていった。翼が生えていること以外は、だいぶ人間らしさを取り戻した。完全に人間に戻るには、もう少し長期間かけて湯に浸からなければならないという。

 なぜここの銭湯に浸かると人間を取り戻すことができるのか。それは番頭のばばあだけが知っていることらしいが、まだ誰にも言うつもりはないらしい。自分が死ぬときになったら教えてくれるというので、長生きしてくれと告げた。

 代わりに、人間を失う瞬間のことだけは教えてくれた。空腹や恐怖といった野生的な生命危機に瀕すると自我を忘れ、本能のままに生きようとしてしまうらしい。

 身体の羽毛が抜け去っただけでなく、食べ物も人間らしくなった。最近じゃ銭湯の隣のオムライス屋に入り浸っている。虫を見ると気持ちが悪いと思うし、ドブネズミを見かければばっちぃと思うほどには人間らしくなった。

 彼女の亡骸がどうなったのか、誰も知るものはいなかった。噂では極秘の研究機関へ送られたとか、突然消失したとか、猟友会が食べたとか、どれも根拠はなかった。

 私は、彼女の遺品整理とばかりに彼女のねぐらへと足を運んだ。

 いつ訪れても殺風景な彼女の寝床へ着く。衣類は数着ずつしかないし、女子っぽいコスメとかもない。置物なんて置かない。それでも彼女の匂いで満たされていた。五感が人間に戻っても、彼女の匂いだけはよくわかる。

 彼女のことは、結局何もしらなかった。どうして鳥人になってしまったのか。私のように何かから逃げたくて鳥になりたいと願ったのだろうか。それから彼女がこれまでどんな人生を送ってきたのか。彼女の出身も家族のことも聞いたことがない。シマフクロウってくらいだし、北海道の生まれだろうか。私が知っているのは、彼女のツンとした表情や言動と、短くて艶々した黒髪と、闇夜に映える白い肌、そして音もなく華麗に獲物を捕らえる美しさだけだった。

 私は彼女の遺品を市の指定ごみ袋へ詰めていく。個人的には、ここにあるものを持ち帰りたい気もするが、それは気が引けた。そんなところを摩耶に見られたら、罵詈雑言だろう。

 彼女が冬場に使っていたベージュのコートも袋に詰めた。

 部屋にあるものを全てまとめると、寝床には一枚の羽根だけが残った。私はそれを摘まみ上げる。

 白くて美しい、シマフクロウの羽根だった。

 これくらいなら持って帰っても、摩耶も許してくれよう。

 私は彼女の生きた証を、そっと懐に仕舞った。

 彼女の寝床からは河川敷がよく見える。

 河川敷の木々には青々とした葉が茂り、夜風にざわざわと音を立てる。カエルや夜虫が汚い声で鳴いている。もうすぐ梅雨がやってこようとしていて、それが明ければ盆地特有の蒸し暑い夏だ。

 一連の騒動が落ち着き、夜の河原を徘徊する人の姿も回復していた。そんな中に一人、不自然な動きをする女性が見える。暗くてはっきりしないが、一人の鳥人が黒い艶やかな髪を振り乱して、一生懸命に飛ぶ練習をしていた。

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鳥人 もり ひろ @mori_hero

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