第三章 『飯がくいてぇ』

 街には春が訪れた。桜の木の下で男女が睦言をかわす。鳥業界も恋のシーズンで、つがいの鳥たちが河川敷に等間隔に並ぶ。人目は忍んでも鳥目は忍ばず、情事に至る。私の寝床のすぐ下でもスズメが巣作りをしていた。昼間から情事に至り、小さな喘ぎ声が聞こえていた。幾日かすればころころとした卵を産むことだろう。

 そんな鳥界の春を尻目に、私は未だ独身であった。

 眉目秀麗なカワセミもいるし、容姿端麗なキセキレイもいる。スタイリッシュなアオサギもいるれば、豊満なボディのウソもいる。鳥界には美女が溢れている。

 しかし、勘違いしないで頂きたいことがある。我々、鳥は、相手が鳥なら誰でも良いわけではない。皆さんだって、相手が霊長類なら誰でも良いわけではないでしょう。いくら容姿が整っていたって、オランウータンやチンパンジーと結ばれたいという方はごく少数なのではありませんか。

 鳥も同じことで、基本的には同じ種類の鳥と結ばれることになる。

 厄介なことといえば、私が半分が鳥で半分が人である点だ。鳥的なハートで言えばもうじきベトナムから還ってくる彼女だし、人的マインドで言えば有名女優の名が挙がる。鳥人的フィーリングなら、夜の繁華街で出会った彼女なのだ。今すぐ一人を選ぶことはできない。もっとも、相手が私を選ぶ保証はどこにもない。

 春の河川敷。トンビたちは花見客の持ち寄った食べ物を掻っ攫い、スズメは花見客に媚を売って食料を恵んでもらう。カラスは花見客が捨てたごみをあさり、ハトはそれとなく花見客の食べ物に手を伸ばす。いや、伸ばすのは首か。

 この時期は花見客の持ち込んだ食べ物でフィーバーする。みんながお零れを狙って、危険を顧みずに人間に近づく。春の陽気のようにほんわかとして、警戒心が薄れる時期だ。

 この時期には、事故も多い。人の社会に近づき過ぎて車に轢かれてしまう者、食べ物と一緒にプラスチック片を飲み込んで窒息する者、人間のおふざけに巻き込まれて捕らえられてしまう者などなど、命を落とす鳥が後を絶たない。

 鳥インフルエンザや食料難の冬が終わり、春になると異なった危険がある。その時期ごとに危険は常に付きまとうのだ。

 私はここぞとばかりに寝て喰う生活を満喫した。春はどこにも食べ物があって、バイキング形式の食べ放題、時間無制限だ。

 今夜も満腹を求めて河川敷へ繰り出す。夜桜見物で賑わう河川敷で、私は人として歩く。

 さて、今日の私は上半身にも服をまとっている。

 服をまとっていては、翼を広げられないではないかとお思いの方もいることだろう。私もそう思っていた。そう思って、ひと冬を上裸で乗り越えてしまった。

 今はフードパーカーを羽織っている。パーカーの背中にはU字型の切れ込みを入れてある。これにより、翼を畳んでいるときはパーカー内に収納できるという仕組みだ。主に夜間しか行動しない私なら、そう簡単に鳥人であることがバレたりはしない。

 ちなみに、これは例の鳥人の彼女の真似をした。

 夜間に狩りをしていると、しばしば彼女を見かけることがある。こちらから話しかけたりはしない。彼女はどうも、とっつきにくいオーラを発していて、やすやすと声をかけられないでいる。

 本心を言えば、彼女と仲良くなりたいような心情もあるが、これはご内密にお願いします。

 繁華街で鉢合わせした夜は、年末に起こした騒動を思い出していた。私がタクシーを水路に沈めてしまったあの『事故』である。私は彼女に現場を目撃されていたため、酷く警戒していた。彼女が敵視すべき存在なのか、それとも半鳥半人の仲間となり得るか。

 向こうの出方を伺いながら、いつでも戦えるよう身構えていると、彼女はひと際大きな骨を吐き出し、たった一言だけ発した。

「下手くそね」

 そして、彼女は口元に血を滴らせたまま闇夜に消えていった。

 その後、顔を合わせても向こうは意にも介さなかった。私は一応、会釈だけはしていた。

 春の夜の河川敷では、学生が新入生歓迎コンパを行っている。そこかしこで盛大な花火を打ち上げては、河川敷の夜間パトロールに注意をされている。花火がさく裂するたびに、辺りが照らされ、音に少しびっくりする。本当に、少しだけ。

 今宵も風に乗って彼女の匂いが漂ってきた。桜と菜の花と火薬の香りの中に、爽やかな人工的な香りが混じる。たぶん、マシェリ。

 風上を凝視すると、風上から彼女の影が見え始めた。乱痴気騒ぎの学生軍団には見向きもせず、じっとこちらを見ながら近づいてくる。彼女の周りだけ、空気の質が異なっていた。

 私はやや緊張しつつ、会釈をした。

 彼女は菜の花のような柔らかな色合いのカーディガンを羽織って、やや肌寒そうに両腕を抱いていた。

 私は、できるだけ興味なさそうに、目を合わせ過ぎないようにしながら、彼女が通り過ぎるのを待った。

 ところが、今宵はあろうことか彼女の方から話しかけてきた。

「ちょっと、いい?」

 ぎょっとして身体をこわばらせると、彼女は私の腕を引いて歩き始めた。女性らしい細い指だが、強さを感じた。

「どうされました?」

「ちょっと見てもらいたいものがあって、あなたのこと探していたの」

 私に見せたいものとは何だろうかと考える。例えば、夜桜の綺麗なスポット。学生や他の見物客のいない穴場的な場所を知っていて、二人で夜桜見物をしようとか。例えば、街の夜景を夜空から眺めようとか。例えば、余計な明かりが一切ない場所で、春の星空を見上げてみようとか。

 どれもロマンチックなデートのような妄想に紐づけされる。妄想はさらに先へ加速していき、あわよくば繁殖しようとも思った。ところで、我々のような鳥人の子供は、卵か胎児かどちらだろう。

 私の妄想の全てが全くの検討はずれだったことは、歩き始めてほんの五分で証明されてしまった。

「これ、あなたはどう思う?」

 毛におおわれた黒い塊。何かの、生き物。小型犬よりやや大きめ。これは、狸だ。

「これは、いったい」

「狸が食べられているの。見てわかるでしょう?」

 よく見ると、黒い部分は闇に沈んだ血液だった。見るも無残に、可食部は根こそぎ食べられ、骨や毛皮だけが残されている。

「さすがにこれほどのサイズの獲物は、僕には狩れない」

「それはわかっているわ。誰の仕業だと思うか聞いているんじゃない」

 なんとなくムッとしたが、態度には出せなかった。

「これほどの大型の獲物だとしたら、オウギワシみたいな大型の猛禽類とかオオカミみたいな肉食の哺乳類か……」

「それ、日本にいるの?」

 私の現実味を帯びない検討に、彼女は呆れて眉間を抑えた。顔つきはあどけないのに、言動や仕草は大人びている。

「この辺りで一番大きい生き物は何?」

 呆れ声のまま、彼女は私に問うた。この辺りの大きな生き物。たびたび里山からはイノシシやシカが河川敷に降りてくる。山間部へ足を運べば、ツキノワグマの爪痕が目に入る。そういえば、グレートピレニーズを飼育している家が近所にあった。それらの生き物が狸を骨の髄まで食べつくすものだろうか。

 そうでなければ。

「僕らだ」

 彼女は、ようやくわかったのねと小さく呟いた。

 私も彼女も、身長だけ見れば、日本人らしい背丈だ。しかし、翼を広げれば二メートル半を超える。この辺りに住む生き物で最も大型の生き物といえよう。しかも、肉食で、私は小型の哺乳類から爬虫類、昆虫などを口にする。

「そちらさんは、狸も狩れるんです?」

「そちらさんはやめて、名前くらいあるし」

「お名前を伺っても?」

「摩耶山の摩耶。あとは好きに呼んで」

 摩耶山、と聞いてすぐにはわからなかった。六甲山のあたりにある山だと知ったのは、ずっと後のことだった。

「これだけ大きな獲物を狩る生き物なんて」

「わたしたち鳥人以外にあり得ないわ」

 なるほど、お仲間がいるのか。人見知りなので仲良くすることはできずとも、鳥人として生きる者が他にいるのは心強い。

「鳥人の仲間がいるのは心強いなぁなんて思ってない?」

 図星をさされて、何も言い返せなかった。

「これを見て、本当に何も思わなかったの? これだけ大型の獲物を捕らえて、こんなに食べ尽くしているのよ。安全な存在かどうかだって、まだわからない」

 そこまで言われて、ようやく事の重大さに気が付いた。謎の鳥人が獲物を食べ尽くしてしまい、我々の狩りに支障を来す可能性がある。そいつが我々を食べることだってあるかもしれない。その時に私は戦ったり逃げ切ったり、大切なものを守ったりできるだろうか。もしそいつが人目について、鳥人の存在が広く人間界に流布されることも考えられる。そうなれば、私の平穏な生活にピリオドが打たれる日が来るだろう。

「摩耶はこれについて、どう思っているんだ」

「そうね、危険な状況だってことくらい。あなたのことだって、安全な存在かどうか怪しんでいるけどね。あなたに会うまで自分以外に鳥人がいるとは思っていなかったし、自分がどうして鳥人になったのかさえも分からないもの」

 その割に、猛禽類らしい猟奇的なハンティングをしているじゃないか、という言葉を喉元でぐっとこらえた。自分もそれなりに残酷な狩りをしているので、猛禽類の野生的本能なのだと納得した。

「情報をいち早く集めるべきなのは確か。身の安全のためにも、単独行動は避けた方が良さそうね」

「単独行動を避ける。了解」

「しばらくは一緒に行動してもらうわ」


   ◇


 摩耶は私の寝床のすぐ近所に寝床を構えた。昼間は寝て過ごし、日没ごろから連れ立って狩りに出る。河川敷でカエルを摘まんで、街灯に集まった昆虫を腹に流し込み、雑居ビルの裏のネズミで腹を膨らませた。

 狩り以外での彼女の行動はわからないが、詮索するつもりもない。適度な距離感こそが、円満の秘訣なのだと信じている。おおよそ私と同じように寝て過ごしているだろうという見解だ。同じ夜行性の猛禽類なのだから。

 夜間の狩りにおいて彼女は驚異的な狩猟能力を発揮し、速やかに腹を満たしていった。地上においても空中においても、素早さと器用さが際立っていた。音もなく狙った獲物を捕らえる姿は、まさしく夜行性猛禽類の鏡だった。私は持ち前のどんくささを遺憾なく発揮し、彼女のお情けで食料を恵んでもらうこともあった。

 こうして二人でささやかな『付き合いたて感』を味わっていた。日没後にどちらともなく寝床へ迎えに行き、河原に降りる。なんとなく、お散歩デートのようだが、食事風景は肉食生物のそのものだった。おしゃれなカフェなんかは無縁。

 基本的には毎晩、二人で狩りに出ていた。しかし、週に一度ほど、摩耶が狩りに行かないという日がある。曰く「わたしにだって、そういう日もある」と。女子とはたまに複雑なのです。

 そんな日は私も狩りには出ず、寝床でひたすら寝て過ごす。空腹を誤魔化すには、寝てしまうのが一番なのだ。

 このまま穏やかに二人の時間が続き、済し崩し的に交際が始まったりはしないだろうか。今の不穏な状況が吊り橋効果的に良い方向へ転がって、そのまま親密な関係にこぎ着けたい。

 私としてはありがたい生活が一週間続き、半月続き、一か月が過ぎてゴールデンウィークを迎えた。

 五月病が緩やかに私をむしばみ始めた頃、二人での狩りの際に事件は起きた。

 私の左頬に鋭い痛みが走った。鈍い音が遅れて耳に入り、平衡感が消えた。目を開いた時には私は顔や手のひらに砂利を食い込ませ、アスファルトに横たわっていた。頬の痛みはじんと響いて奥へ奥へと進み、鼓膜の痛みと合流して顎の関節に行き着いた。

 私は、私を張り倒した人物を追い、よろよろと起き上がった。

 身体じゅうに食い込んだ砂利を払うことなく、駆けだす。

「待ってくれ」

 私が声を張っても相手は振り向くこともせずに羽ばたき、闇夜に舞い上がる。私も慌てて翼を広げた。

「わざとじゃないんだ」

 私は弁明した。

 摩耶は私を侮蔑した目で、文字通り私を見下す。

「ほんと、男ってサイテー」

「違うんだ」

 私はいよいよ涙目になりながら、うろたえた。

 事件はほんの数分前に遡る。

 今宵も私は摩耶と二人で狩りに勤しんでいた。いつもの河川敷ではなく、琵琶湖から流れ来るという水路沿いを歩いた。この辺りはカエルが多く、虫も豊富なのだ。各々が、何となく互いを確認できる範囲で腹を満たしていた。ここまではいつも通りである。

 水路沿いにはいくつかのベンチがある。水路沿いを歩く人の姿はないが、ベンチにはアベックの姿があり、それぞれが二人だけの濃密な世界に入り浸っていた。互いの毛穴が数えられるほどにまで接近し、何か言葉を交わしあうアベック。膝枕をするアベック。犯罪の匂いがする年齢差のアベック。

 その中の一組のアベックが気になった。下心なしで見れば素通りしてしまうが、よく見れば、あれは、つまり、人間の繁殖活動だった。ベンチに座る男性にまたがる女性が小刻みに上下する。

 私は、それに見入ってしまった。先方からは気付かれないが、夜行性の猛禽類的視力ならしっかりとそれが確認できる距離で、それをじっくりと見てしまった。

 見てしまったこと自体には、深い意味はない。それを見て、自身の欲を満たそうとか、そういう魂胆は無く、テレビの自然番組で流れているような野生動物の繁殖風景を見ている時に近い感覚だった。信じてください。

 そろそろ食事に戻ろうかというところで、水路の対岸から私を睨む二つの目と合った。夜行性の生物の目は闇夜で良く光る。レーザービームのような二つの光線に、私はたじろいだ。

 それからのことは、走馬灯のようだ。彼女が私を破廉恥だとか変態だとか犯罪者予備軍だと罵倒する声と、頬の痛みだけははっきりと記憶に刻み込まれた。そうして今に至る。

 三行半を突き付けて家を出る女房のような彼女に追いすがろうと私が飛び立ったところで、前を行く彼女の後ろ姿が大きく揺さぶられた。直後には勢いのまま水面に叩きつけられ、大きな水音に周囲のアベックが身構える。

 あまりにも突然のことで、足も翼もすくんでしまった。水面に浮かぶ彼女の背中が水路を流れていく。彼女を救わねばと思っても、手も足も翼も出なかった。

 彼女が橋の下へ消えていくと、次は私の番だった。

 視界の端が急に陰ったと思った時には地面へ押し倒され、首元に鈍い痛みが広がっていた。肘肩にも胸にも生ぬるい温もりが伝う。

 目だけ向けると、何者かが私の首に噛みついていた。

 私を押さえつけて離さない手。視界を覆う大きな翼。かすかに見える頭頂部。

 間違いなく、鳥人だった。

 逃げないと。

 直観的に死を悟り、本能的な恐怖が沸き上がる。得体の知れない恐怖は増幅され、叫びに変わる。無意味な雄たけびが断末魔の叫びとなる。相手の頭髪を掴み、力任せに引き剥がす。 両手で相手の頭髪を四方八方へ引っ張る。わずかな可動域で相手を思いの限りで蹴る。使えるだけの筋肉に力を込めてあがく。

 私を取り押さえる腕に噛みつく。頭突きだってする。身体を左右に揺さぶる。

 どれだけ私があがいても魔の手から逃れられない。やつは私に馬乗りになりながら、私の急所を狙って、一撃一撃を繰り出してくる。相当な手練れであることがひしひしと伝わってくる。

 先ほど口にした食材が吐き戻る。咽る。吐いたものが喉に閊える。涙が出る。鼻血が出た。体中が痛む。口の中も切れて、吐しゃ物の酸味と鉄の味がする。

 悶絶。

 再びやつが喉元に食らいついた。

 悲鳴も出なかった。

 死を覚悟した。

 摩耶の顔が脳裏に過る。摩耶を助けないとと思っても、全身が震え、目の焦点が合わない。ぼやけた視界が赤く染まる。いよいよかと思い、ふと全身の力が抜けた。

 誰かの怒声が聞こえた。

 同じタイミングで相手の力も緩み、私は解放された。誰かが私から奴を引き剥がしたらしく、ぼやける視界にもう一人の姿が見える。奴はその人を張り倒し、そのまま飛び去った。

「大丈夫ですか!」

 涙を拭って見る。制服姿の警官が私を抱え上げる。その手の力強さが、やつの腕を髣髴とさせた。私にトラウマを植え付けるには、充分すぎるほどの恐怖だったことを実感する。

 汗や血で全身がぐっしょりと濡れていた。喉元と翼が痛かった。折れたかな、とも思った。

 はっと我に返る。

「友人が誰かに追われています、動物園の方へ走っていきました、すぐに行ってください!」

「なんだって! すぐに応援が駆け付けるので、ここにいてください!」

 走り去る警官の背中を見送り、すぐさま駆け出す。

 水路沿いを走る。水面に目を凝らす。どれだけ探しても彼女の姿はない。

 うつ伏せで流れてゆく彼女の姿を思い出す。水死体のそれだった。

「摩耶!」

 名を叫ぶ。ツツジの枝が刺さっても、脛にベンチの角が当たっても、かまわず走った。首から血が滴るのも、身体が痛むのも忘れて、摩耶の名を呼んだ。

 突然、木の陰から何者かに腕を掴まれた。そのまま強引に引き込まれる。反射的に身を翻したが、敵う相手ではなかった。相手は大きく羽ばたき、私の身体は闇夜へ吸い込まれる。私を掴むその手に、私は覚えがあった。

「摩耶、無事だったのか」

「当たり前じゃないの。そう簡単にやられてたまるもんですか」

 彼女は闇夜に向けてまっすぐ上昇していく。痛みで思うように羽ばたけない私を連れて、これだけ飛べるなんて、彼女はやはりただ者じゃない。

 私の腕を引く彼女の袖口に血がついていた。

「摩耶、怪我しているじゃないか」

「これくらいあなたと比べたら大した怪我じゃない」

「もしかして、僕が襲われているところも見ていたの?」

「いいやられっぷりだったじゃん。お陰でちょっとわかったことがあった」

 彼女は、私が食い殺されようとしているのをどう思ったのだろうか。弱肉強食には抗わない、ということなのか。

「いや、助けようとは思ったわよ、本当に。あんたが嘔吐していたから、ちょっとためらったの、ばっちいし」

 嘔吐だけでなく、本当は少し失禁している。本当に、少しだけだし、下は失禁しかしていない。本当に。

「で、僕がやられている間に何かわかったことは?」

「確実に息の根を止めて、食べるつもり。大きさはあなたより少し小さいか同じくらいだけど、あなたの力じゃ勝てないと思う」

 奴の力の強さは信じられなかった。まるで大男にのしかかられているように身動きができず、危うく食い殺されるところだった。今でも出血は止まっていないが、出血量は落ち着いてきている。人間の歯では、致命傷を与えるほどに首を噛みちぎるのはそう簡単ではない。私も哺乳類を食す時はかみ殺すのではなく、もう少し手っ取り早い方法をとっている。

 私の力では勝ち目がないことは確かだった。

「それよりも」

 彼女が言葉を言いよどむ。

「それよりも?」

「鳥人の存在が、人間たちに知られてしまったみたい」

 それは、私どもが日頃最も恐れていたことだ。

 危険生物または危険人物として捕らえられるのではないかとか、新種として研究対象にされて生物実験されるのではないかとか、野生生物を捕まえて食していたことが何かしらの法に触れたらどうしようとか、この街の制空権を侵害した罪に問われることはないか、などなど、根拠はないが何かしらの理由をつけて捕らえられてしまうことに怯えていた。

「とにかく、今夜の狩りはやめにしてあなたの手当てしましょう」


   ◇


 鳥界にも人間界にも、またたく間に件の噂が広まった。内容は年始に鳥界をざわつかせた例の噂そのものだった。人間の姿をして闇夜を飛び回る、あの巨大生物の噂は私のことなどではなかった。間違いなく、奴のことだ。

 私も彼女も、夜間の狩りを大きく縮小した。人として夜道を徘徊しながら、小さな昆虫を腹の足しにして過ごした。常に警戒を怠らず、お互いに手の届く範囲から離れないよう努めた。

 小さな虫ばかりでは腹が満たされず、丸々一晩をかけての食事になった。夜間の食事に時間と労力をかけ、昼間は泥のように眠る生活が続いた。明け方に寝床に滑り込み、再び目を覚ます頃には日没を過ぎていた。

 疲労がたまるようになり、摩耶も寝て過ごすことが多くなった。

 何日かに一度は、寝床を訪ねても返事がないほどに寝ているらしい。私も無理に起こしたりはせず、自分の寝床に戻って飢えに耐えた。

 鳥界は自粛ムードが流れ、不用意な外出はしないという風潮が広がった。人間界にも自粛ムードが漂っているらしく、深夜ともなれば人の往来は無くなった。

 影響は鳥と人間だけでとどまらなかった。ネズミもヌートリアも狸も野良猫も、めっきり姿を見なくなった。

 それでも何日かおきに被害者情報が耳に入る。飼い犬、酔っ払い大学生、動物園、外国人観光客、次から次へと謎の飛行生物に襲われた。幸い、人間界に死者は出ていない。

 被害が拡大し、ついに府警が大規模な対策を講じた。

 昼夜を問わず、多くのパトカーが巡回する。周辺の監視カメラを徹底して解析し、容疑者割り出しに奔走しているらしい。見つけたら速やかに避難し、府警に連絡を入れるよう記載されたチラシが各世帯に配布され、戸締りの徹底や夜歩き自粛を呼びかけた。

 我々も出歩くことができなくなり、空腹との闘いを余儀なくされた。騒ぎの終焉は見えて来ず、いたずらに時間だけを消費していく。

「なあ、摩耶。僕たち、もう何日食べていない?」

「余計なことを考えてはダメ」

「でも、でも」

「ああ、もううるさい。あんたのせいでお腹すいた」

「僕はお腹空いて死にそうだ。何か食べに行こう」

「あんた死にたいの?」

「食わずに死ぬなら、腹いっぱいになってから食われて死にたい」

 それ以降、彼女は何も言わなくなった。彼女はじっと動かず、うずくまって飢えに耐えている。ゆっくり呼吸をして、冬眠しているようだった。

 私もできるだけ消耗しないように、今夜も寝て過ごすことに決めた。

 そこに一羽の鳥が飛び込んできた。

「おや、ベトナムから戻られたのですか」

 アオバズクは息を切らして私に事情を説明する。向こうで知り合ったパートナーとともに御所のクスノキに居を構え産卵したところ、例の鳥人に襲撃された。パートナーは必死に卵をかばい、そして奴の餌食になった。

 鳥界では噂が入り乱れ、私にも疑いの目がかかっていた。野鳥たちは皆、私たちを遠巻きにして関わらないようにしているのを感じていた。

 そんな中で、アオバズクの彼女だけは私を信じて、頼ってくれているのだ。

「なあ、摩耶」

「わたしは嫌」

 彼女は動きもせずに返事だけ寄こした。

「行くなら一人で行って」

「でも」

「でもばっか。でもじゃないの」

 私はアオバズクの彼女を見た。摩耶の強い言葉に諦めが滲んだ顔をする。瞬きをする。目は潤んでいる。ような気がする。もう帰ると言わんばかりに、こちらに背を向けてしまった。

「待って、僕も行きます。一人では巣まで帰る間に襲われるかもしれない。御所までなら、大した距離じゃないし」

「勝手にして」

 彼女は結局、一瞥もくれなかった。私はアオバズクと連れ立って、寝床を後にした。

 川向こうの御所まで、巡回中のパトカーの目につかないように高度を上げて飛んだ。ほんの五分ほどのフライトだが、事の異常さをありありと感じられた。

 等間隔に並んでいたカップルは皆無。人も鳥も動物も息を潜めていた。虫の声と川のせせらぎだけが夜空に吸い込まれていく。

 上空から街を見下ろす。縦横に規則正しく張り巡らされた路地をパトカーの赤色灯が移動していく。一台。もう一台。さらに一台。縦に横に、無数の監視の目が行き届いていた。

 御所の暗がりに向けて降下を開始する。翼を小さくすぼめて、一気に降りた。アオバズクも私を追って、急降下する。巣を目の前に安堵の声が漏れた。

 直後、私のすぐ背後で悲鳴が上がった。

 アオバズクが羽を巻き散らして吹き飛ばされていく。翼はあらぬ方向へ曲がり、羽ばたくこともできずに落ちていった。

 私は素早くターンして、彼女を追った。ぐるぐると揉まれながら墜落していく彼女は目を硬く瞑る。表情には、死への覚悟が見えた。

 私のすぐ後ろを、何者かが追ってくる気配を感じた。私が切った風を、さらに何者かが切る音が不気味に接近してくる。

 もっと速く。彼女が地面に叩きつけられる前に、やつに追い付かれる前に。

 もっと。

 もっと。

 私は叫び、手を伸ばした。目を見開いた彼女が翼を伸ばす。あと少し。あと少しで彼女に手が届く。もっと速く。もっと手を伸ばさなくては。

 眼下には地面が迫る。コマ送りのようにじわじわと。それでいて、恐ろしい早さで。

 指先が翼に届いた。人差し指と中指で摘まみ上げ、抱きかかえながら、私は地面に叩きつけられた。

 とどめを刺すように、何者かが私に覆いかぶさって首に手をかける。くっと爪が喉に食い込む。私はこの手を知っている。

 私はアオバズクを茂みに向けて投げた。よろめきながら彼女は立ち上がり、こちらを見る。

「行け、逃げるんだ!」

 彼女は飛べなくなった翼を広げて、奴に威嚇する。足も怪我をしたらしく、まっすぐ立つこともできていない。

「何やってんだ、逃げろ」

 片手が首に食い込む。もう片手で後頭部を鷲掴みにされているらしい。喉が潰れて、声がかすれる。

「はやく」

 奴の手が私の首をひねらんとする。食いしばってもじりじりとねじられていく。

 そこでようやく、奴の顔が見えた。

「ようやく面が割れたな」

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