第二章 『人になりてぇ』

 一人の男性がいる。

 凹凸が少なく細長い胴体。ひょろひょろと頼りない四肢。自信とやる気が消え失せた顔。そしてなぜだか上半身は裸で、もやしのような肌色をしている。丈に合わせて買ったズボンはウェストがだぶだぶで、不格好なほどにベルトで締め上げている。

 その背中には端から端まで三メートルはあろう翼が生えている。体は人間、背中には鳥の翼。得体の知れない奇妙な男。

 それが、今の私である。

 今、私は心から思う。

「人になりてぇ」


   ◇


 夕方、川沿いにある寝床から河川敷に降りる。そのまま歩いて、二つの川が合流する三角地帯へ足を運ぶのが私の日課だ。冬至を迎えて日が短くなり、辺りはすでに暗くなっていた。

 この時期は食料となる虫や爬虫類、ネズミなどの小型哺乳類の姿は見られない。腹を膨らますのは困難だった。

 ひと月前、冬を越すために南方への移住を提案してくれた彼女の誘いに従うべきだったという後悔の念が強い。あちらでは年中が夏のようで、食う物には困らないのだという。私に語学の教養があればと自責の念に駆られたところで、今ではどうしようもない。航路もわからないし、何千キロにも及ぶ長旅を絶えぬく自信もない。

 やむなく、こうして夜ごとに食料を求めて徘徊しているのだ。鵜の目鷹の目となって獲物を探した。この時期の食料調達には、少しの手間とコツが要る。

 まず、河川敷に設置されているベンチを動かす。ベンチの足の下からは小さな虫や稀にミミズが現れる。これを素早く捕らえる。しかし、どれも数センチ程度なので腹は膨れない。

 次に、枯れ葉が溜まっている場所を探し、そこを掘る。ここには芋虫やミミズ、小型のゴキブリなどが生息しており、掘り起こされると一斉に逃げ惑う。それらを片っ端から摘まみ喰い、再び掘る。これで気がまぎれる程度には腹が満たされる。ところが、二〇代半ばの男の食欲を満足させるには到底足りない。

 そこで考案したのが、人間の生活圏での狩りだ。

 繁華街を歩いているときに、排水溝から排水溝へ、自販機の下から自販機の下へ、そして暗がりから暗がりへ駆け巡るネズミを目にしたことはありませんか?

 あれを見てぎょっとする方が多いことだろう。以前の私だってそうだった。「都会はばっちい所だ」などと思っていた。今となって考えてみれば、都会はバイキングのようなものではなかろうか。

 夜が更け、日付をまたいだ頃になってから繁華街へ飛んだ。東西に細かく区画分けされた街の上空を飛び、賑やかな明かりを放つ繁華街を目指した。どこへ降りようか検討していると、ちょうど飲食店が入った雑居ビルの裏に空き地が見えた。その空き地目掛けて降下する。

 裏手から雑居ビルの壁沿いを歩き、飲食店の換気扇のダクトを探した。建物の間から差してくる街明かりが強くて目が疲れる。できるだけ目を細めて周囲を見渡すと、壁から飛び出した四角い排気ダクトが見つかった。排気ダクトは壁に伝って天に向かって伸びており、上空で脂っこい湯気を吐き出していた。ダクトと壁の間には五センチほどの隙間ができている。ダクトの表面には上の排気口から伝って垂れてきたと思われる油がこびりついていた。

 そばに立つと、ほんのりと温かい。このまま抱きしめて暖を取りたい衝動に駆られるが、表面のべたつきが気になるので断念した。それよりも、空腹を満たす必要がある。

 私はダクトの裏を覗き込んだ。何かがカサカサを密集しており、小刻みに動き回る。細い触角が無数に揺れている。波打つように何かが動き、私の気配に気づいて少し慌ただしくなり始めた。これだけでバイキング形式の食べ放題のような光景だが、私の本命はこれではない。

 カサカサと動き回る食材の群れの中に、四つの小さな光を見つけた。

 私は、その四つの光のうち手前の二つに狙いを定めて手を突っ込んだ。反対側から無数のゴキブリが津波のように溢れ出していき、それに混じって二匹のドブネズミが飛び出した。

 地面を無数のゴキブリが烏合の衆となって散らばる。そこをドブネズミが突っ切った。

 二匹は揃って雑居ビルの壁伝いに逃げる。私は中腰になってそれらを追い立てて手を伸ばすが、簡単に躱されてしまった。奴らはそのまま逃げ続け、ついにはビル裏の暗がりから、きらめく通りへ駆けていった。ちょうどその場に居合わせた通行人が驚いて声を上げた。

 遅れて、私も表へ飛び出す。通行人がさらに大きな悲鳴を上げた。勢いよく地面を蹴って翼を広げる。後方へ向けて強く羽ばたくと、押し出されるように身体が急加速する。その勢いを利用して、通りを横切るネズミの一匹を鷲掴みにした。通行人の悲鳴はついには枯れて腰を抜かし、タクシーは急ハンドルを切った。

 私は大きく羽ばたき、騒ぎから逃げるように飛び立った。急いで飛ぼうと力んだ際に強く握ってしまったネズミは、小さな声をあげて動かなくなった。

 そばの雑居ビルの屋上に降りて、ネズミを咀嚼する。食いちぎって内臓を吸い出す。爪や骨は食べにくいのでペッと吐き出すと、空調の室外機の風に舞って下界へ落ちていった。ひげも体毛も美味くはないが、避けて食べるのは難しかった。

 下界では大声で叫ぶ声が響き、サイレンが近づいてきた。かわいそうなことに、急ハンドルを切ったタクシーは道路沿いの水路に突っ込んで落ちてしまったらしい。ここからは、前のめりになって水路に顔を浸けたタクシーのお尻だけが見えている。

 口の周りについた血や毛を腕で拭い、のどにまとわりつく毛を吐き出す。何度も喉から唾液を吐き出しても、喉のイガイガ感は消えなかった。

 地面には黒い染みができ、早くも乾き始めている。ビルの白い屋上に、そこだけ闇へ通ずる穴が開いたようだった。

 しばらくの間、下界の騒ぎを高見から見物していた。二人の警官が駆けて来て、遅れてパトカーが到着した。皆、何かを口にしては、指で地面から空へ弧を描いた。私が飛び立った様子を興奮気味に話していたのだ。誰かが空へ弧を描きながら見上げるたびに、私はそっと身を隠した。

 クレーン車両が到着し、タクシーを引き上げた。片側のライトが割れ、ささやかにボンネットが潰れていた。それ以外は、案外、大丈夫そうだった。その頃になると、野次馬も減っていた。警官が忙しなく歩き回り、地面に印を書いたり写真を撮ったりしている。

 そろそろ騒ぎも落ち着いてきたので新たな獲物を探そうかと思い、次の目的地を定めようと周囲を見渡すと、向かいの雑居ビルの屋上で同じように下界の騒ぎを眺める人の姿があった。

 大げさな程に着ぶくれしたベージュのダッフルコートをまとい、マフラーをぐるぐる巻きにして顔の半分が埋もれてしまっている。手にもボリュームのある手袋をつけているが、下半身は短いズボンとタイツといういで立ちだった。髪の毛は黒のショートカットで、夜明かりでつやつやと照らされている。色白な肌の透明感は、夜明かりではミステリアスに映った。

 私はぼうっと彼女を眺め続けた。心を外側から握られているような、チクチクと刺されているような、懐かしい感情が芽生えた。ヤワなハートが痺れた。

 そして、何のきっかけもなく彼女はこちらを見た。

 突然目が合い、私の胸はぎゅっと締め付けられた。ヤワなハートは鷲掴みにされた。彼女の眼は黒目が大きくて、まるで猫のようだった。二重と右目の下のホクロも見逃さなかった。

 ドギマギして思わず目をそらしてしまい、再び視線を戻すとそこに彼女の姿はなかった。

 彼女にこちらの姿を見られた。さすがに人間の視力では、この暗さなら私の背中の翼を認識したり、顔を覚えられるほどはっきり見えたりはしないだろう。しかし、下で起きている騒ぎとの関連を疑われ、通報をされるようなことがあっては困る。今にもここへ警察が来るかもしれない。

 自分の中で警鐘がなった。今すぐここを発てと、心の中の自分が叫ぶ。それでも、彼女の痕跡を感じたくて、向かいのビルへ飛んだ。彼女が身を潜めてこちらの動きを伺っているのではと警戒したが、彼女の姿はどこにもなかった。扉も鍵が締まっており、人の気配は感じられない。あるのはただ、大きなドブネズミの死骸だけだった。

 なお、私が彼女に惚れてしまったことは、私が生きてきた中で一番の不覚であり、できることなら口外しないで頂きたい。


   ◇


 年が明け、冷え込みが一層厳しくなった。

 風の噂で聞いた限りでは、人間界では謎の巨大飛翔生物が話題になっているらしい。人間の姿をして闇夜を飛び回っている姿を見たという証言が絶えないそうな。たった一度、人間界に騒ぎを起こしてしまっただけでこんなに大事になるとは思っていなかった。

 立つ鳥が跡を濁してしまった悪い例であり、あれ以来私は繁華街での狩りを控えている。

 河川敷での食事も限界を迎えていた。何も口にできない日も少なくはない。

 今夜は人目を忍んで近隣の大学寮に忍び込んでみた。戦前からあるという古い寮舎を取り囲むように、高さ二メートルほどの立て看板が立ち並ぶ。演劇サークル、軽音サークル、ジャズ研究会、映画同好会、天山窯、アニメ研究会、マンガ研究会、特撮愛好会、クジャク料理普及会、ステキブンゲイ、吉田山に生えるキノコを食べる会、コーヒー愛好会、坂口安吾を愛する会などなど、活動内容が一目でわかる団体から、活動内容が不明瞭な集まりまで様々だった。

 寮舎はところどころに明かりが灯っている。麻雀牌を混ぜる音、音の不安定なギターサウンドと裏返った歌声、いかがわしい映像作品から流れる男性の言葉、お経、クジャクの鳴き声、走れメロスの音読、ポップコーンが弾ける音が入り混じっていて、混沌としていた。

 寮生のような顔をして、正面の玄関を開く。脱ぎっぱなしの靴が雑然と並ぶ。左右が揃っていないものもある。こんなに寒いのに、サンダルもあった。ここにある靴は、圧倒的に男物が多い。というか男物しかないように見える。一つだけ、女性もののハイヒールがあるが、異様に大きい。私の足よりも大きい。

 そんな玄関に、大型水槽が鎮座している。幅が二メートルほどはあり、アロワナくらいなら飼育できそうだった。周りには黒い布が巻かれていた。視聴覚室にあったような厚手のもので、遮光性が高そうだった。

 遮光布をそっと捲ると、水槽の中は土で満たされていた。水槽のガラス面には、土の中のラグビーボールほどの空間がいくつか見える。空間と空間は細い空間で結ばれており、一匹の生き物が行き来していた。

 ピンクの素肌に伸びた前歯。鋭い爪。細長い胴体と短い四肢。

 ハダカデバネズミである。

 私は水槽の上蓋を音を立てないように開き、そっと足元に置いた。こつん、と音がしたが、どこかの部屋から溢れ出る讃美歌にかき消される。

 蓋が開くと、エサの時間と勘違いしたハダカデバネズミが巣穴から這い出て来た。鼻先をスンスン鳴らしながら、水槽内の地面をぐるぐると回る。時折、こちらじっと見つめてくるが、この動物は目がほとんど見えていないと聞いたことがある。いつもと違う臭いに反応しているだけだろう。

 私が手を差し伸べると、彼は近寄って来る。指先の臭いを一通り嗅ぎ、手のひらに前足をかけた。

 その瞬間を逃さず、手のひらを一気に閉じた。親指と中指をハダカデバネズミの首に回し、手首を返すように首の骨を折った。

 刹那、断末魔の叫びが漏れたが、讃美歌のおかげで誰にも気づかれなかった。生肉を片手に携え、片手で上蓋を閉める。

 どこかの部屋から陽気な声で「ちょっとトイレ行ってくるわ」と聞こえたので、速やかに学生寮を後にした。

 寝床に戻り、肉を味わった。相当に甘やかされて育ったハダカデバネズミは、皮下脂肪をタプタプに蓄えていた。ハダカ“デブ”ネズミだ。ずいぶんと食べ応えがある。肝も脂で膨れており、生のフォアグラはきっとこんな味だろうと思われた。骨までしゃぶり切って、心地よい満腹感で眠りに落ちた。


   ◇


 節分を目前に控え、寒さは厳しさを増した。今宵は河川敷を飛び回り、手あたり次第の木々に降り立つ。

 河川敷沿いには片側二車線の通りがある。深夜ともなれば車はほとんど通らないし、人の往来もほとんどない。それでも稀に人の往来があるため、極力目立たないように飛び交った。

 河川敷沿いには染井吉野が並び、つぼみをギュッと閉じて春を待っているようだった。その枝の付け根あたりに小さな突起がある。枝が折れてささくれたトゲのような突起に、干からびたバッタが刺さっていた。

 これは“早贄”と呼ばれているもので、モズが冬に備えて餌を貯蔵しているものである。食料の種類は多岐に渡り、蛾、おけら、コオロギといった昆虫類から、カナヘビやヤモリの爬虫類、カエルやイモリの両生類まで様々だった。

 モズは昼行性なので、鉢合わせることはない。私は、彼らが汗水流して蓄えた早贄を手あたりしだいに口に入れていった。これが野生であり、自然である。これも弱肉強食の一角なのである。鷹は飢えても穂を摘まないらしいが、私は飢えたら何でも摘むのだ。

 そうしておよそ一週間かけて河川敷沿いの目につく早贄を食べつくし、さらに三角地帯に佇む神社を覆い囲む森の中の早贄を摘まんでいると、けたたましい声が響いた。キィ、キィと甲高い声が木々にこだまし、それに応えるように甲高い声が返って来た。

 何事かと突っ立っていると、正面から一羽のモズが勢いよく突っ込んできた。こちらが両翼を広げると、急旋回してそばの梢に降り立った。また一羽、さらにまた一羽、それぞれ微妙な距離を取りながら、私を取り囲んだ。

 私が彼らの早贄を食べていたことがバレてしまったのだ。曰く、食べた分の賠償と慰謝料として追加の食料を要求するということだった。

 私は平謝りして、例の学生寮へ忍び込んだ。夜間だというのに、彼らは少し後ろをついて飛んできた。

 先日食べてしまったハダカデバネズミに変わって、新たなハダカデバネズミが飼われていた。水槽のそばの壁には「ハダカデバネズミがいなくなりました。情報求ム!」という張り紙がなされている程度で、大した騒ぎにはなっていなさそうだった。

 まだ飼い始めて日が浅いせいで、同じ手口は通用しなかった。上蓋を開けた途端、警戒して巣穴の最奥に潜ってしまった。私は巣穴に手を突っ込んで、入り組んだ巣穴を崩落させながら彼の首元を掴んだ。抵抗して指先に噛みついたところで一気に引きずり出して息の根を絶った。

 逃げるように学生寮を去り、ハダカデバネズミの肉をバッタほどのサイズに切り分けてモズ達に配った。

 こうして節分の夜は明けていった。


  ◇


 モズの早贄があてにできなくなり、この冬一番の寒波が街を闊歩する二月半ばの夜、私は植物園へ侵入した。

 人気のない植物園を歩く。園内の木々に目を向けると、枝の付け根にちょこんと小さな巣箱が鎮座していた。どれも生活感が出ており、巣箱の下にはどんぐりの殻が落ちている。

 巣箱は靴箱ほどの大きさをしており、正面に直径五センチほどの穴が開いている。天井部分は手入れや掃除のため、開閉できる造りをしていた。

 私はその一つを覗き込んだ。静かな寝息を立てるリスの夫妻がいた。茶色い身体、長いしっぽ、丸い耳の彼らを起こさないように、蓋を開けた。

 蝶番がキキと小さな音を立て、巣箱がわずかに振動した。ニホンリス夫妻が揃って目を開け、ピッと立ち上がった。私は正面の丸穴を片手でふさぎ、もう片手を巣箱に突っ込んだ。飛び回って逃げるリス夫妻の一匹を鷲掴みにした。すかさずそれを口に咥え、首元をかみ切って息の根を絶つ。その間に残ったもう一匹が巣箱から飛び出して木から飛び降りた。

 私は幹を蹴って飛び、落ち葉に覆われた地面を逃げるリスへ急降下した。躊躇いなく片手で鷲掴みにし、息を絶った。

 二つの肉塊を、予め用意していた袋へ入れる。

 次の巣箱を目指して、夜の植物園を徘徊した。監視カメラのリスクがあるので建物やフェンスには極力近づかないよう注意しながら、全部で三つの巣箱を襲撃した。

 合わせて五匹の獲物を携え、寝床へ帰った。

 その五匹もたった二日で完食してしまい、再び夜の植物園に訪れた。

 そうして一週間かけて全ての巣箱を空にしてしまった。ちなみに、巣箱には住まず木のうろや建物の隙間に住むリスもいるので、植物園のリスを絶滅に追い込んだわけではないことを断言しておく。

 植物園の獲物を狩りつくしてしまい、狩場の“ネタ”が尽きたため、私は昼間も眠い目をこすりながら食料を探した。夜行性の私には睡眠時間云々よりも、昼間の強い日差しが目に刺さるようでしんどかった。

 昼間の狩りは、おもに市営動物園である。ちびっ子が溢れるふれあいコーナーにそれとなく踏み入って、モルモットと触れ合う。そしてこっそりとそいつを懐に忍び込ませ、何食わぬ顔で出て行く。できるだけ大きくて、大人しい個体を選ぶ。速やかに動物園を後にして寝床で食し、ようやく眠りに就く。

 それも長くは続けられず、いよいよ本格的な食糧難を迎えた。二月の末、ぼちぼち梅が開花し始めてメジロやヒヨドリが歓喜に小躍りする頃、今年最後のダメ押しとばかりに街に雪が降った。

 あと十日、いや一週間もすれば気温がぐんと上がり、食料になる生き物が這い出してくるだろう。ここが最後の我慢どころだ。ここを耐え凌げば、また食に困らず暮らしていけるはず。

 夕方より降り始めた雪は、夜更けにかけて勢いを増した。道も木々も河川敷も屋根も、目につくところ全てが白かった。あまりの寒さに動くことができず、寝床でじっと朝を待った。

 外を歩く人の姿は皆無だった。ところどころ、民家の明かりが漏れているだけだった。漏れ出した白や橙の明かりに、人の影が躍る。カーテンの向こうを想像する。

 食べ物に困ることなくほかほかの食卓を家族で囲み、風呂でぬくぬくして温かい布団で眠るのだろう。

 心の底から思う。人間っていいな。

 そして口から出たのは、

「人になりてぇ」


   ◇


 先日降り積もった雪は、しばらく残った。日中少し溶けては夜間に凍った雪がカチカチになって道の端に押しやられていた。それでも歩道は毎晩のように凍結し、至る所で転倒している人の姿を見た。私も何度か転倒しかけたが、野鳥的身体能力を発揮して怪我は免れた。

 日中は春の気配が満ちるが、夜間はまだまだ冷え込む。メジロやウグイス、ヒヨドリといった花の蜜を吸っている連中の冬は終わった。小さな昆虫もちらほら姿を現し始めたが、まだまだ私の空腹を満たせるほどではなかった。何より盆地特有の昼夜の寒暖差に身体がやられ、狩りに出る気力がなかった。

 それだけではない。例の「巨大飛翔生物」の噂も私のハンティング欲を減退させた。噂は尾びれ、背びれ、胸びれエラ浮袋がついて独り歩きしていた。

 噂はこうだ。

 体長三メートルほどの巨大生物が、大きな翼で闇夜を飛び抜ける。時折、繁華街に降りて来ては道行く人を驚かせているそうだ。時には人を襲うこともあり、行方不明者が出ているらしい。肉食で獰猛な性格をしており、鋭い両手には血が滴っている。

 一つ一つを訂正してみよう。まず、私の身長は百七十八センチ程度だ。翼はおよそ三メートルほどあるので、体長と両翼長がごっちゃになって伝わったのだろう。次に、繁華街に出たのはあの一度きりだ。確かに人を驚かせてしまったが、人を襲ったわけではない。行方不明者がいるとしたら、ドブネズミだろう。両手はまだまだ貧弱。今は冷水で手を洗うのがしんどい季節だ。手はできるだけ汚さないようにしている。

 またある噂では、明け方、カラスに混じってごみを漁っているらしい。

 一度だけ、魔が差したことがある。ごみを漁ったのだ。ところが、その日はビン、缶、プラスチックごみの日で、食べ物は得られなかった。もちろん、カラス達はいなかった。民家のそばのごみ捨て場でごみ袋を開け、中から出てきたプラスチックごみを見て、急に気持ちが覚めていくのを感じた。それ以来、一度もごみを漁っていないし、あの時は誰にも見られていなかったはずだ。

 こんな一人歩きした噂のため、私は思うように出歩けなくなっていた。寒さと噂に抑圧されて身動きが取れなかったが、とうとう空腹の頂点に達した。何をせずともムシャクシャし、食欲と破壊衝動に駆られ、寝床から勢いよく飛び立った。

 上空から街を見下ろす。縦横に規則正しく通りが張り巡らされている。まるで、碁盤を上から見ているように、無数の四角が並ぶ。その至る所に黒く塗りつぶしたような闇がある。神社や仏閣だ。私は闇ではなく、まばゆい明かりを放つ繁華街を目指した。着陸ポイントとして、できるだけ人気のないところを探した。河原に面した細い通りに薄暗い公園が見えたので、そこへ向けて降下する。

 久しぶりに深夜の繁華街へ降り立ち、飲食店が入った雑居ビルの裏手へ回る。

 先日と同様、飲食店の排気ダクトを探した。ほのかに熱を持った排気ダクトを発見した。裏を覗くが、生き物の気配はなかった。

 すぐに別の排気ダクト裏を覗いたが、そこにも生物の気配はなく、仕方なく別の建物を目指した。

 それから三軒、四軒と探し回ったが、どこにも獲物の姿はなかった。食物のエナジーを得られることなく、ただただ身体が冷えていった。

 食料を探すことにも疲れて、雑居ビルの屋上で休憩をした。ここなら下からは見えないので、騒ぎにもなりにくい。遮るものがないので、冷たい風を身体でもろに受ける。腰を下ろすと、尻から頭の先までが冷たさで痺れた。ぶるぶるとサブイボが這いあがって来るのを感じた。

 翼で身体を包み込み、少しでも風を避けた。膝を両手で抱え込んだ三角座りを、両翼ですっぽり覆った。翼の内側はほんのり温かい。じんわり身体全体が温まってきて、徐々に鳥肌が収まっていく。上空には雲一つなく、繁華街の明かりに負けじと星々が無数に広がっていた。

 アルファベットのWの形をしたカシオペア座を見つけ、柄杓の形の北斗七星およびおおぐま座を見つけ、その中間に位置する北極星を見つける。ベテルギウス、プロキオン、シリウスを見つけて三角形を引く。こんなに明るい場所でも、これくらいなら見つけられることを初めて知った。

 さらなる星座を探し出そうと目を凝らしていると、黒い大きな影が横切った。間違いなく、翼が生えている。おおよそ、二メートルから三メートル、私と同じかやや小さい。視界の右上から左下まで一気に突っ切り、私のそばに降り立った。

 私は身の危険を感じて立ち上がった。いつでも飛び立てるように身構えた。寒気と殺気で全身の毛穴が起った。

 そうして私は“彼女”と目が合った。

 私は、口元と両手を血に染めて音もなく翼を畳んだ彼女と対峙した。彼女は口から血を含んだ何かをペッと吐き出し、手の甲で口元を拭う。血痕が頬まで伸び、猟奇的だった。

 短く切り揃えた黒髪は風になびき、ベージュのダッフルコートの背面から畳んだ翼の翼端がわずかに見えている。ショートパンツにタイツのいで立ち。艶めく黒髪とは対照的な青白い素肌を血に染めていた。

 以前に雑居ビルの屋上で見かけた、黒髪の彼女だった。


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