鳥人

もり ひろ

第一章 『鳥になりてぇ』

 今思い返せば、あの一言が全ての引き金だったのかもしれない。

 仕事無し、彼女無し、貯金無し。住むところはかろうじてあるものの、部屋には洗面台しかないボロアパートだ。扉を開けて屋外の廊下を突き当りまで進むと、共用のシャワールームと汚いトイレ、台所がある。部屋にあるものと言えば、薄ぺらい寝具一式とささやかな衣類、丸めたティッシュが溢れたごみ箱と、シケモクが積みあがった灰皿。

 室内にいると陰鬱な気分になるものだから、私は散歩を日課として、極力室内に居ないよう努めている。

 昨日も日課の散歩の中で、河原を散策した。私が住む街の中心部を流れる河川に沿って上流を目指し、二つの河川が合流する地点へ至った。平日だというのに、観光客や近隣大学の学生がわらわらと往来している。私はそれぞれの河川に挟まれた三角地帯に腰を下ろし、空を仰いだ。

 一羽のトンビがひらり、ひらりと舞い、時折何か目掛けて急降下している。地面すれすれで何かを掴み、力強く急上昇したのち、再び優雅に旋回を開始した。

 それをぼんやり眺めていると、自然と口が動いた。

「鳥になりてぇ」


   ◇


 昨日見たトンビを思い返しながら、首をひねり身体をひねり、背中を眺める。

 不自然に盛り上がった肩甲骨には、人間の素肌としては不自然な風体をしている。昨日まで人間らしく毛の薄い背中がそこにあったはずだが、今私の目に映るのは、背中を埋め尽くす羽毛だった。手を回して触れてみると、なるほど、腰のあたりは普通の素肌だった。

 これまで意識して使ったことのない背筋に力を入れてみると、細かな羽毛を巻き散らかして頼りのない翼が広がった。

 ペンギンの雛のようにもこもこととして、昨日見たトンビのような優雅さはない。言ってしまえば、ぬいぐるみのような作り物っぽさもある。

 これまでの四半世紀の人生の中で一度たりとも羽ばたいた経験などないが、イメージと意識だけで背中に力を入れる。鳥の翼は人間でいうところの手にあたるはずなので、背中に力を入れるというのは妙な話だが、私の翼が背中から生えてしまっているのだから仕方がない。

 ウインクの練習をする時のように、手のひらで豚の蹄の真似をする時のように、意識をそこ一点に注ぐ。何とか翼を動かすことができるが、羽ばたくというよりも、機械仕掛けのおもちゃのようなぎこちなさが拭えない。翼の付け根からは動くものの、そこから翼の先までにあるいくつもの関節はピンと伸びたままで、大きなうちわと変わりない。

 伸びきった翼を大きく広げてみると、およそ三メートルはありそうだ。背中と関節一つで繋がるこれほどまでの長さのものを広げたものだから、背中がツンと張るような感覚があった。筋肉痛になるのは間違いないだろう。

 立ち上がってみて背中の力を抜いてみてもだらりと垂れ下がるだけだ。翼端は床に擂ってしまう。鳥のようにたたんでみようと力を入れても、無意味に羽ばたくだけだった。

 まずは翼を畳む練習から始めるべきだろうが、どこに力を入れるのかなんて見当がつかない。肩甲骨やその周りの背筋は前からあったが、翼の筋肉は「はじめまして」なのである。

 改めて考える。そもそも、鳥の翼は人間でいう手なのだ。翼の付け根は人間でいう肩で、ここは動かせることが分かった。その先の関節は、人間の肘や手首、指の関節に相当する。つまり、純粋に自らの腕を動かすつもりでコントロールすれば翼を畳むことができるに違いない。

 両目を閉じ、自らを俯瞰する。私の姿を想像する。肩甲骨から先は、自身の腕だ。肘を曲げれば翼が畳まれる。背中に畳まれた翼が納まる。上腕と前腕の内側がかすかに触れ合う。こうだ。

 わかる。感じる。感じるぞ。翼ではなく、腕をただただ曲げているだけで効果が得られていないことを感じる。脇をしめて前方にだらりと手の甲を垂れ下げた自分の姿が、目を開けずとも見える。まるで幽霊の物真似をしているかのような、極めて不格好な己の姿がわかる。

 目を開く。視線を下げる。やはりそこには、垂れ下がる手の甲が見える。背中の翼はピンと伸びたまま垂れ下がる。なんてこった。

 私は体をぐっとひねり、片翼を掴んで曲げてみた。ちょうど真ん中のあたりから二つに折れ曲がった。無理な姿勢で寝たあとの関節のようなギシギシとした痛みが伴ったが、曲げ伸ばしをしているうちに和らいだ。

 そうしてようやく、翼の感覚を感じ取ることができた。曲げ伸ばしをしながら、感覚に従って力を入れてみると、なるほど不器用ながら片翼が畳めるようになった。利き手と反対の手で文字を書くような違和感があるが、すぐに慣れると思う。

 今度はもう片方の翼も同じように曲げ伸ばしをしてみた。こちらも同じような痛みがあったが、先ほどよりスムーズに曲げ伸ばしができる。二度目となれば勝手知ったるつもりで、ややせっかちに感覚に従って力を入れてみるが、思うように畳めなかった。このたった一瞬で、最初の片翼が「利き翼」になってしまったというのだろうか。

 無理に動かそうとすると、不自然に体が傾いたり、ねじれたりする。片翼が勝手に動くこともある。逆向きでバッティングスイングした時も、こんなふうに逆の足が勝手に動いたり、不自然な姿勢になったりしたことがあった。

 躍起になっているうちに、翼で灰皿を吹き飛ばしてしまった。吸い殻と灰が飛び散り、細かな粒子が靄のように舞い上がった。

 あっと思った時には灰皿に翼が触れていたのだが、驚いたことに、その拍子に両翼がピタッと折りたたまれた。

 恐る恐る翼を広げてみて、再び畳んでみる。なるほど、今の一瞬でなんとなく感覚が掴めた。ぎこちないながら、翼を開閉できる。ようやく、それらしい感じになってきた。飛べるか否かは別として、翼を使いこなせるようになるまで、さほど長くはないかもしれない。

 酷く疲れた気分になり、私は布団に横たわり、泥のような眠りについた。


   ◇


 昨日見たものが夢であれと思いながら目を覚ました。夢であるわけもなく、私の背中には不格好な翼が生えている。相変わらず、ぬいぐるみのような綿毛が覆いつくしており、私が知っているどの鳥類の翼とも異なっていた。

 昨日習得したことを再確認する。ばさばさと翼を開く。ばさばさと翼を畳む。もう一度ばさばさと翼を開いて、まじまじと翼を眺める。辺りには細かな綿毛が飛び散っている。鳥の巣の様相を醸し始めた。

 床に散らばった綿毛を、翼を使ってかき集める。かき集めたところで、すぐに舞う。諦めた。

 昨日は風呂に入っていないことに思い至った。

 普段は、よっぽど汗をかいたり汚れたりしない限り、おおよそ二、三日ごとに近隣の銭湯へ通っていた。下宿の共用シャワールームは管理がなされておらず、酷く汚いので使用していない。

 近隣の銭湯は、国立大学のすぐそばにある。学生の憩いの場であり、たまり場でもある。それを古くからの常連が蹴散らすように我が物顔で利用する。両脇のシャワーは常連の席という暗黙の了解がある。湯船内に少しでもタオルが触れると怒鳴る常連がいる。ロッカーのカギを身に着ける位置で、何かのサインがある。一つ間違うと、知らない人がこちらの身体を素手で洗ってくれる。口うるさい常連が帰る深夜には学生連中が風呂桶と椅子を使って人間カーリングをする。脱衣場を覗きに来る老婆がいる。

 そこへ鳥の翼を生やした男が現れたらどうだ。常連に怒鳴られるかもしれない。貧乏学生の晩餐になるかもしれない。翼を素手で洗われるくらいなら、どうってことない。老婆はいよいよボケたと思うだろうか。

 下宿のシャワールームでは翼を広げて身体を洗うことはできないと思われた。

 ならば、今日も風呂はやめておこうか。

 しかし、涼しい気候に甘んじて、かれこれ四日も風呂に入っていない。髪の毛はべたつき、頭はかゆい。首を掻けば垢が出る。股もかゆい。足は臭い。

 要するに、そろそろ風呂に入りたい。

 ざぶんと頭から湯をかぶり、背中のこれも一緒に洗い流せないだろうか。泡立てた手拭いでごしごしと拭えないだろうか。

 少し自由に翼を動かせるようになったことでこの状況を受け入れ始めていたが、これは受け入れるべき状況ではないのだ。文明人として、受け入れてはならない、断じて。

 決意と同時に、一つの好奇心も生まれてきた。この状況は、はたして他人からはどのように見えているのだろうか。差別的な目を向けられる、ふざけていると思われる、はたまた他人からは見えないなどというご都合主義もあるか。

 むくむくと膨れた好奇心に突き動かされ、私は入浴の準備を始めた。翼を畳んで衣服を着るのは、少々コツが要る。翼の関節をぐいと寄せ、裾をくぐらす。不用意に力を入れると、衣服を引きちぎりかねない。

 自らの背中を見ることはできないが、不自然に出っ張っていることだろう。間違っても、二人羽織りではないことを断言しておきたい。

 薄い玄関から外へ出ると、冷たい風が吹き込んでいた。下宿全体が小刻みに震えている。帰宅したら倒壊して跡形もなく吹き飛んでいるのではないかと思ったことが幾度もあった。

 紅葉シーズンで観光バスが往来する通りを進み、銭湯へたどり着いた。道中、不自然に膨れた背中への視線を感じることはなかった。背中はぬくぬくと温かく、本物のダウンジャケットをまとっていると言えよう。うらやましかろう。

 四三〇円を支払い、脱衣場へ踏み入れる。常連が常置している風呂セットが見当たらないので、入浴中であることが伺える。扇風機に当たる学生、コイン式ドライヤーを使う中年男性、牛乳や缶ビールを飲む親子、人、ネズミ、コオロギ、有象無象が脱衣場に溢れていた。

 わざと目立つ位置のロッカーを使用する。やや大げさな音を立てて扉を開く。ベンチに荷物を広げる。誰もこちらを注視しない。

 勢いよく衣服を脱ぐ。翼がひっかかって、やや痛い。綿毛が飛び散る。誰の意にも介さず。

 翼を開き、背中を掻く。風でタオルが飛ぶ。老爺の髪がなびく。形勢に変化なし。

 ロッカーのカギは左肩に付ける。一番端のシャワーを使う。素手で身体を洗われたし、常連に怒鳴られて移動した。

 翼を念入りに洗う。綿毛が大量に流れ、排水溝が詰まる。

 タオルを湯船に漬ける。怒鳴られる。

 誰も翼に触れてはこないが、至って通常通りの銭湯だった。

 気味が悪いので、番頭の老婆に「私の背中におかしなものはついていないか」と尋ねたが、鼻で笑われただけだった。

 釈然としない気持ちを抱えたまま、巣へと帰った。


   ◇


 翼を授かってから三日目の朝を迎えた。

 今日は嫌に外が騒がしい。目の前の通りを往来する車両の音が轟く。窓のすぐ外からは雀の群れがちゅんちゅんで、通りの電線に留まる鳩のくるっくーが立体感を持って迫る。さらには河川敷で群を成すカラスがあーあーで、それに気圧されるトンビがぴひょろろろなのだ。

 忙しない鳥業界の喧騒は途絶えることなく、やれ冬支度だ、やれ巣の材料だ、やれ交尾だと聞こえてくる。かと思えば、餌付けされたアオサギへの妬み、巣箱を得たメジロへの嫉みを口にする。狸に喰われたツグミへの追悼もあれば、猫の玩具となったセキレイへの悪態もある。鳥業界とは話題に尽きないのだ。

 そうやって遠巻きに連中の会話を聞いていると、耳障りな会話も紛れてきた。どうやら、声の主はこの下宿内にいるらしい。屋根裏から汚い声が聞こえてくる。なんでも、共用の台所に誰かが忘れていった煮物が美味かったというのだ。

 この汚い下宿にも煮物なんて手の込んだ料理をする人間がいることに、たいそう驚いた。いつ訪れても使用感の感じられない台所だったからだ。もちろん、清掃も行き届いてはおらず、三角コーナーや排水溝には化石が出土していた。冷蔵庫だけは、常にアルコールで満たされており、使用感が満ちていた。

 それにしても、連中にはやや腹が立つ。人様の煮物を勝手に食べるなんて、害獣風情が無礼だと、当事者に代わって心の中で憤る。食って、ヤって、寝て、増えて。我々とはけた違いのスピードで世代を紡ぐ連中の気楽な生涯に自分が置かれている状況を重ねる。職場から逃げ出してかれこれ一か月経ち、金も社会的地位も、交友関係も失った自分。それでも残り半世紀はあろう人生。自分が連中のようにあっという間に生涯を終えていく生き物だったら、これほど悩むことはなかった。どんな状況でも長い人生が待っている、生きていかねばならない、だから悩むのだ。

 自由を求めて飛び出したつもりが、自らの首を絞めている。

 そうして再び「鳥になりてぇ」と呟いたが、背中に触れて、そっと前言を撤回した。


   ◇


 四日目を迎えたところで、背中には変化はない。相変わらず埃のような綿毛に覆われた翼が、形だけは立派に生えている。だいぶ細かな動きを習得したが、それと同時に至る所が筋肉痛に襲われている。少しでも和らげようと、翼を引っ張たり伸ばしたり。しっくりは来なかった。

 現状を打開すべく、自分なりにどのような手段で収入を得るか考えてみた。正社員などと贅沢は言わない。非正規雇用でも、日雇いでも構わない。百円でも得ないと食事にありつけない。状況は逼迫している。

 近所のコンビニでアルバイトを募集していたな、月に十万程度は稼げるかな。住み込みの仕事なら家賃もかからないな。まかないが出る飲食業も魅力的だ。履歴書が必要になるな、買う金はないから無料の求人誌の付録を使おうかな。

 ならば、近隣のコンビニへ出向いて無料求人誌を何部か頂戴して来ようと思い至ったところで、急に壁の汚れが気になった。それまで気にしていなかった、気づいてさえなかった壁の汚れ。それと部屋の角の埃。窓枠にたまった有象無象。

 これは身に覚えがある。

 テストの前夜だ。

 必死にテスト勉強していると、どうしてだか掃除をしたくなる。あれだ。

 一つの汚れが気になると、次々と気になる点が出てくる。窓の隅にこびりついたハエの死骸、玄関の隅に転がる害虫の糞、電球表面の埃。これまで見えていなかったものが目に入る。

 いよいよ我慢ができなくなり、着古した肌着を濡らし、かたく絞って掃除を始めてしまった。

 結局、求人誌も履歴書も手にすることなく一日を終えた。


   ◇


 昨日は結局、室内を隅から隅まで拭き上げ、珍しく布団を干し、溜まった洗濯物を消化した。食事を忘れて作業に勤しみ、夜半に疲れて寝てしまった。

 起きてみれば、背中から落ちた綿毛がそこかしこに散り、掃除の無意味さを痛感した。ところで、私はどれだけの寝相をしているのか、はなはだ疑問である。一晩でこれほど体毛を撒き散らかすことなど、常人にできるものなのか。

 丸一日、何も食べていないものだから、酷く腹が減った。ひとまず、外へ出て食料を調達せねば。

 いつも通り、河川敷を歩く。今日も鳥業界は騒がしい。ムクドリが集団営巣している団地では高周波の音波を発する機械を導入したとか、オシドリの夫妻の離婚調停が泥沼化しているとか、大学寮で飼育されている雄のインドクジャクは実は雌にペイントしたものだとか、がーがーで、ぴーぴーで、ちゅんちゅんで、ひゅーひゅーなのだ。

 正直やかましい。空腹がさらに感情の起伏を励起する。要するに、腹が減ってイライラするのだ。

 河川敷に設置されたごみ箱をカラスがあさる。耳障りで目障りな光景の中で見つけたものがあった。

 ごみ箱のすぐそばの斜面をミミズが這っていた。カラスたちは人間の食べ残しに夢中になり、ミミズに気づく様子はない。

 私はずんずん近寄り、カラスたちを蹴散らす。口々に文句を言いながら四散する。別にごみをあさりたいわけなじゃないのだと弁明する。ならば何用かと問われ、私はミミズを摘まみ上げて見せた。

 一羽一羽の顔を眺め、私はそれをすすった。口いっぱいにミミズ特有のクセが広がり、それを土の香りが追う。噛めば歯ごたえがあり、噛むほどに粘りが出る。肉感のある喉越しがたまらない。

 そばにある石をひっくり返す。二匹のミミズを逃げる前に素早く摘まむ。贅沢に二匹を丸呑みにした。芋虫もいたので、箸休めにつまむ。こちらは、濃厚なミルクのような味わいが奥深い。

 カラス連中に見せびらかすように食して見せたが、やつらにとっては、人間の食べ残しこそがご馳走であり、自然食の時代は終わったとのことだった。都会っ子にこの味はわからないらしい。

 私は手あたりしだいに食べ物を口にした。ミミズだけでなく、芋虫、蛾、トカゲ、ザリガニなどなど。どれも独特の風味があった。蛾は粉が口の中や喉にこびりつき、芋虫のような濃厚な味わいがあった。トカゲは鱗が気になったが、淡泊で食べやすい。ザリガニの殻は丁寧にはがした。口直しに木の実を食べた。酷く渋い味がした。

 腹が膨れて満足したところで帰路に就く。

 こうして五日目も終えた。


   ◇


 六日目の朝。ついに私の背中に変化が訪れた。

 それまで翼の表面をびっしり覆っていた綿毛がぼろぼろと抜け落ち、下から艶のある灰色の風切り羽が現れた。ところどころ、丘で放牧された羊のようにまばらな綿毛が残るものの、ようやく鳥らしくなってきた。

 羽ばたくたびに、綿毛は抜け落ち、玉となって床を転げた。

 そろそろ練習しなくてはと思い至り、いつものように河川敷へ足を運ぶ。

 ちょうど、鴨の家族が飛ぶ練習をしていた。母親がバタバタと羽ばたきながら、川面を滑走していく。水面を蹴り、母親の重い身体がテイクオフした。それを追うように四羽の子鴨が滑走を始める。まだあどけなさの残る翼で懸命に羽ばたき、色つやの良い水掻きで川面を蹴っても、誰一羽として浮かび上がることはできなかった。見かねた父親がそれを追い抜くように滑走をして、手本を見せる。

 私も河川敷で同じように走ってみる。背中の翼を大きく広げると、風の抵抗が両翼にのしかかる。八の字を描くように羽ばたいてみた。空気が後ろにかき出され、身体を押す。足がもつれそうになる。翼に揚力が感じられる。もう一度、空気をかいてみる。今度は確実に身体が浮き上がった。

 足が着地してもスピードに追い付けず、足がもつれる。転びそうになりながら羽ばたくと、加速をしながら身体が浮き上がる。それを繰り返しながら、浮いたり降りたりを繰り返し、一キロほども駆け抜けた。

 息があがり、全身に心地よい疲労感があった。かつての青春時代に白球を追いかけたあの日々のような爽やかな気持ちに浸りながら、ベンチに腰を掛ける。翼の綿毛は完全に抜け落ち、薄い灰色の翼になった。

 ところで、私は何という鳥なのだろう。

 先ほどの鴨のようにバタバタと羽ばたくような鳥や雀のように羽ばたき続ける鳥は忙しなくて嫌だ。ペンギンだとしたら陸上生活には適していない。ダチョウなのだとしたら、こんなに立派な翼は不要だ。できれば、トンビのような優雅な鳥でありたい。

 先ほどの鴨ファミリーが視界を横切る。結局、一羽も飛ぶことができずに今日の特訓は終わったらしい。頑張ったご褒美に美味しい食パンが食べたいという甘えた声が聞こえる。

 私も、今日のところはここで引き揚げた。帰りしなに腹ごしらえをし、銭湯で汗を流して一日を終えた。


   ◇


 七日目にして知恵を思いついた。なんでも、アホウドリは崖の上から飛び降りるように離陸するらしい。私も試してみようと思い、近所にある小さな山を登った。この山の中腹には、盆に行う送り火で用いる火床があり、斜面が大きく開けている。パラグライダーの滑走路のように眼下に街が広がる斜面を駆け下りて、勢いで離陸しようという魂胆である。

 背中に生やした翼のせいで、身体が重い。一歩、また一歩と山道を進むたび、息があがる。昨日の全力疾走の筋肉痛で太ももが痺れている。膝に力は入らない。

 ようやく茂った木々が開け、広大な斜面が現れた。

 眼下に見える街を見ても、自分が住んでいる街とは違う世界のように見える。ところどころ、木々が生い茂っている場所は、寺社仏閣だろう。街の真ん中を突っ切る河川は、いつもの河川だ。視線を遠くへ移すと、同じく盆の送り火で用いる火床がいくつか見えた。

 大通りを目で辿って自分の住まいを見つけたが、そこに住んでいる実感はなかった。

 大きく息を吸い込むと、下界とは異なるにおいの空気が体内を満たす。ほんの二百メートル程度の標高ながら、立派な山岳の空気があった。

 呼吸が整ったところで、目の前の空をにらむ。もう一度息を吸い込み、私は駆け出した。斜面を強く蹴り、翼で空を掻く。背中がぐっと押され、足の回転が追い付かないほどに加速する。大きく身体が浮き上がるが、体勢を整えることができない。

 強くにらんだ空は視界の上へ上へと流れた。代わって、視界の下から下界が流れ込んできて、それも上へと流れた。次に現れたのは、今いる山肌だった。

 手をバタつかせながら前のめりに転げ、顎をしたたかに打ち付けても、なおも転がる己を停めることはできなかった。激しく転げ、上が下になり、下は右になって、右は左になった。

 ようやく停まった頃には、火床の一番下まで転げており、割れた顎から血が滴った。痛みを覚えた手首はみるみる腫れていき、口の中で鉄の味が広がった。全身の力は抜け、すぐには立ち上がることができない。

 翼をまじまじと眺める。ところどころに土や草が付着し、路肩に打ち捨てられた鳥の死骸のようだった。

 上空から声がしたので見上げると、騒ぎを見に来たカラスが群れを成していた。

「鳥になりてぇ」


   ◇


 割れた顎の治療に行く金もなく、ティッシュだけで処置をしているうちに、あっという間に一週間が経った。

 何もせず寝て起きてを繰り返すうちに、昼夜が逆転してしまった。ぐだぐだと昼前まで寝ていたのが次の日には昼頃の起床に代わり、その翌日には昼を過ぎ、翌日はおやつごろに目を覚ますようになった。

 その間、屍のようにじっと過ごし、いよいよ空腹が限界に達した。

 顎や手首の痛みがなんとなく和らいできたので、食料調達に出る。

 河川敷に出ると、辺りはすでに夕焼けに染まり始めていた。

 今日も鳥界は騒がしい。ハヤブサが市バスと衝突したとか、観光地になっている商店街でスズメの丸焼きが売られているとか、カモの親子が外国人観光客連中に追い回されたとか。

 川面には水鳥たちが渡ってきていた。キンクロハジロとマガモ、バンといった水鳥が井戸端ではなく川端で会議をしている。空がだいぶ混んでいて、まだ到着していない水鳥集団があるそうだ。ヒヨドリとムクドリが備えて大集団をなし、糞を巻き散らす。人々の悲鳴が聞こえる。そういえば、最近はツバメを見かけない。

 ヌートリアファミリーが規則正しく整列して川を渡っていく。ヌートリアとは戦時中に日本へ持ち込まれた大型のネズミの仲間で、駆除の対象となる外来生物である。愛嬌のある外見ゆえに餌付けをされ、この河川でも爆発的に増殖した。その後、市の涙ぐましい駆除活動の末、ヌートリアたちはその数を大幅に減少させた。長い巣穴を掘り繁殖することが知られているが、その巣穴では人類に対するレジスタンス活動を模索しているとの噂だった。

 母トリアの後ろを、長兄トリア、次兄トリア、弟トリア、妹トリアが続く。母トリアが何度も振り返り、子トリアの安全を確認する。

 母トリアが全員の安全を確認した刹那、空から勢いよく舞い降りた影、浮き上がる弟トリア、悲鳴をあげる妹トリア、舞い散る羽。

 トンビが弟トリアを鷲掴みならぬ鳶掴みをし、高々と羽ばたいていく。

 トンビが足を滑らし、弟トリアが落下し始めた。

 私は強く地面を蹴り、羽ばたいた。衣服は破れた。一直線に、弟トリアの元へ飛び寄った。

 手を伸ばしたが、甲斐なく弟トリアは河川敷に叩きつけられた。一瞬、全身を震わせたかと思うと、一切の動きがなくなった。

 トンビは私の姿を見て、遠く飛び立った。一連を遠巻きに眺めるカラスの視線を感じる。

 そばには小さなげっ歯類の亡骸が転がる。母親は鋭い声をあげているが、私に近付こうとはしない。

 私はその小さな肉塊を手に取った。


   ◇


 昨日は、トンビから横取りをした形ではあったが久しぶりに肉にありつくことができた。あの後、河川敷に暮らすヌートリアやネズミを上空から探し、片っ端から捕らえていった。明け方には腹も膨れ、久しぶりに心地の良い眠りについた。

 夕方、のろのろと寝床を抜け出し、河川敷を上空からパトロールする。ネズミを捕らえる。飛び疲れたら、地上でミミズを探す。虫も食べる。

 羽休めに御苑のクスノキで休憩をしていると、声をかけられた。

 長い長い前置き、脱線、喜怒哀楽を身振り手振りで大げさに語るが、要するに「そろそろ越冬のためにベトナムへ渡るから一緒にどうか」というお誘いだった。

 明日にはここを出るらしい。

 南方の方が食べ物が豊富という点、非常に温暖で過ごしやすいという点において、たいへん魅力的な誘いである。間違っても、彼女が自分の好みだったとか、そういうことではない。断じて。

 心が大きく傾いたが、明日までに下宿を引き払うことが困難である旨を伝えた。そして何より、私は語学力に乏しい。現地の言語が何語なのかさえ知らない。試しにいくつかの単語を発してもらったが、何一つとして意味を理解できるものがなかった。

 私に教養がないことがわかると、彼女は私をやや冷ややかな目で見るようになった。私は居ても立ってもいられなくなり、白み始めた夜空を音もなく羽ばたきながら下宿へ逃げ帰った。


   ◇


こうして私の、鳥生が幕を開けた。

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