リューフ

柳 真佐域

第1話『その運命の始まり』

 薄陽の漏れる雨戸を開けると、外は抜けるような春の青空だった。気持ちいい朝の日差しを、頭から浴びたリューフは、清々しい一日の始まりを全身で感じた。まだ寒さの残る冷ややかな初春の澄んだ空気は、胸いっぱいに吸い込むと心を爽やかにさせる。

 リューフは、台所で朝食の準備をしている母ハミルトンに、家事に使う水釜の水が少なくなったので、川の清流から水を汲んでくるようにお使いを頼まれた。物心ついた頃から行っている日課の一つだ。暮らすための仕事をこなし、当たり前に母の作る朝食を、母とそして朝に弱く、その顔にたっぷりと眠気を残した妹プラテナと一緒に三人で食べる。それがリューフの日常だった。

「よいしょっと」

 水車脇に置いてある、給水に使う担ぎ桶と、藁で編んだ籠を肩に掛け、リューフは小川をさかのぼって歩いた。キラキラと日の光を反射させる、澄んだこの小川でも、十分に飲み水として使えるが、ほんの少し足を伸ばせば湧き水の源泉にたどり着けるし、どうせならと、道中に生えた山菜も摘んでいこうと思い、リューフの腰帯には、鞘に入った短い鉈が括ってあった。磨き抜かれたルビーのような緋色の瞳に、青い空と白い雲が写り込み、首の後ろで一つまとめた若草色の髪の先が、有尾類の尻尾のように揺れる。まるで発光しているのではないかと見紛うほどに、その白く肌理の細かい肌と外側にピンッと先の尖った耳が、エルフの証だった。

 今日はセーム(エルフの通う学校)も休校なので、南の森に狩りに出かけても良い。里を白く染めていた雪深い冬が終わり、生き物の息吹を感じ始める季節。そろそろ動物達が、じっと寒さを堪えていた巣穴から、ひょっこりと顔を出す頃合だろう。あたたかくなってきたからと言って、まだ夜は底冷えのする寒さがある。飼っているヤギのミルクの出がいいので、ルネウサギ(一角兎)でも捕まえてシチューにするのもいいな。そんなことを考えながら道中を歩いた。変わりない、いつも通りの日和……そう、その時まではそのはずだった。

 山菜を摘み、籠に入れる。ぷっくりと膨れたゼンマイは、ほろ苦い春の味の訪れを感じることだろう。リューフは手で庇を作り、先を見た。

 それは何の前触れも無く、唐突にそこにいた。いつも通りの風景に溶け込みながら、ゆるく木漏れ日の差す陽だまりの中、岩谷に静かに鎮座するように、傷だらけの一匹の黒竜が居た。

 ガランガランッと音を立てて桶を落としたリューフは、すぐ様持っていた鉈をスッと鞘から抜き払い、手に取った。竜の姿があまりにも馴染んでいたので気配を感じなかった。まるでそこにいるのが当たり前な、そんな気配さえする。鉈を持った手はブルブルと震える。突然の驚きで高揚する気持ちと、そして酷く恐怖があった。リューフは本物の竜を見たのは生まれて初めてのことだった。

 

 セームの授業で、先生に習っていたこの世の成り立ち。大昔、まだ神々が地上を平定する前、魔が地上に蔓延り、絶え間ない争いをしていた時代。数多の生き物のその頂点に君臨していた竜は、神々と組する善き竜と、魔と組する悪しき竜に種族を二分し、その絶大なる力を、良くも悪くも遺憾なく振るっていた。

 嵐をも自由に翔る大翼や、大岩もバターを切るかの如く易々と切り裂く鋭い爪、全てを焼き尽くし灰も残さない火の息など、比類無きその力の前では、ひとつの種族が滅ぼされるほどの驚異的なものだった。

 神々と魔の永きに渡った戦が終わり、残った竜のそのほとんどが西南の大地にそびえるドルトフェント山脈の頂上のさらに奥、稲妻走る晴れることのない、厚い積乱雲の中に里を築いているとされている。

 その後は文明の進む時、度々その姿を現し、善と悪の審判を下すのだという。だから竜は神の使いか、悪の化身かなどと揶揄され、畏怖されている。

 リューフの目の前にいる竜は、その身体に多くの矢傷を負っていた。一生に一度眼にかかれば幸運な方だが、稀に野良の竜が、狩人に仕留められることも聞いたことがある。ドラゴンハンターやドラゴンスレイヤーと呼ばれる、竜を狩ることを生業とする者達によってのことだ。狩れば素材として余すところの無いとされる竜。翡翠色の瞳は刳り抜いても尚、その輝きと脈動する力は永遠に失われないと言われている。牙や爪は剣や槍に練成され、数多くの英雄たちの手に掲げられ、その鱗や骨からもたくさんの武具が仕立てられる。さらに一度竜と関わった者は、不思議な縁が結ばれ、その後の一生を竜と関わって過ごすとも言う。

 そんな傷を見るに、この竜は狩りにあったのだと分かった。強者がまたさらなる力を求めて殺し、奪い、そして最後には捨てられる、この竜もそんなものの一つになりつつあったのだろう。

 傷は今しがたのものではなく、昨晩かそれより少し前に負ったものに見える。火傷のように皮膚がただれた箇所もある。粗末な鉈を取り、臨戦体勢に入ったリューフの行動は、全くもって無謀極まりない行動だったが、家で待つ二人のためにもここで戦わなければならない。たった一人で何とか出来るとは思っていない。ただ少しでも厄介だと警戒心を持たせ、どこか違うところへ去ってくれないだろかと願っていた。

 桶を落とした音でか、竜はゆっくりとリューフの方に顔を向けた。特に驚いた様子も無く、人間に慣れているのか、ただゆっくりと観察するような眼差しを向けた。

 リューフの目、そして竜の目が重なり合い、二人は相対した。リューフの緋色の瞳。母ハミルトンと妹プラテナとも違う父親譲りの色、鏡を見るたび思わせる父親の像。違う種族との間に出来たリューフとプラテナ。今では穏やかになってきたが、幼い頃は穢れた血の流れる混血(バンデル)と呼ばれ蔑まされていた。蔑む周りも、自分自身も嫌っていたが、今のように朝の日差しを心地よく感じられるのは、母ハミルトンがたとえ片親だとしても、いつでも凛とした姿勢でいるからだろう。どんなときでも笑顔を絶やさず、守り、時には厳しく生きる術を教えてくれたハミルトンを、リューフは大好きに思っていた。プラテナももちろんそう思っているだろう。今頃はベッドから起きだし、顔を洗って母の手伝いをしている所だ。

 こんな粗末な鉈一本じゃどうにかなる相手ではないが、そんなのは百も承知だ。自然に右手に持つ鉈に力がこもる。どのくらい時間がたっただろう。瞬間的なものなのか数分の間なのか、リューフと竜は見つめ合った。そして互いに何かを感じ取った。竜の瞳に広がる世界をリューフも見るようになる。山に吹き込む風や流れる清流の音、さえずる鳥の声に木々のざわめき。ここにある生命の営みと、それを包む森羅万象の力をリューフは感じ取った。何かが繋がった気がした。そして、さっきまでの鉈にこもった力が抜けるのが先か、竜がのそりと動き、リューフを正面で見るように、体の向きを変えた。そしてゆっくりリューフの元へ歩み寄っていった。リューフは息を呑んで肩の籠を下ろした。元の体勢から見て、あまり大きくなかったのは分かっていたが、背丈は、精々水車小屋くらいのもので、まだ若い幼竜なのかもしれない。見上げるほど高くは無いが、その存在感たるや、凄みを感じる。歩み寄ってくる時、何の害意も殺意も感じず、竜はただゆっくりと歩を進める。二人にとって納まりのよい距離を静かに計っているかのようだった。

 リューフと竜の距離が、一歩ずつ踏み込めば触れられる位置で歩が止まった。その頃には、リューフはもう鉈を地面に落としていた。それから一歩を踏み込んだのは、リューフの方で、竜はゆっくりと頭を、リューフの顔の高さに下ろす。それはまるで、歩み寄ってくれたことへの敬意のようなものに見えた。

「ケガをしてるんだね……大丈夫? 痛くないかい?」

 傷口には触れず、その周辺の肌に触ってみる。つるつるとした滑らかさとその奥に強く熱を感じる。脈打つ鼓動と呼吸は、早くも無く遅くも無く、落ち着き払っていた。リューフは目を伏せ、その鼓動を深く感じるように、深く深く息を吸い込んだ。そうすると竜も深く息を吸い、一瞬止まり、二人とも息を吐いた。竜が顔をリューフに寄せ、軽く触れた。そして、リューフはそれを受けて伏せていた目をパッと開き、

「待ってて! 手当してあげる! すぐに薬を持ってくるね!」

 と、リューフはさっき来た道を駆け足で戻った。

 

 家のドアを勢いよく開けると、リューフはすぐに台所を突っ切って薬籠を探した。逸る気持ちと落ち着こうとする気持ちとが相まって、少し挙動がおかしい。すると、

「どうしたの?そんなに慌てて」

ぐつぐつ煮える鍋の味見をしながら、ハミルトンは尋ねた。いつもなら山菜を肩から提げた籠に入れ、ついでに表で薪を割ってから帰ってくるのに。リューフは慌ただしく家中を駆けまわった。ハミルトンは、何かあったに違いないと言わんばかりに、リューフを振り返った。今のリューフからは、未知なる冒険に出る前のような、子供じみたときめきと、なんの根拠か使命感のようなものを感じる。

「母さん! 水汲みは後で必ずしてくるから!」

 と言い放つと、薬籠ごとテーブルの上にあるまだ用意の整っていないパンやハム、玉子なんかを口や両手に抱えて、来たときと同様、玄関のドアを元気良く開けて出て行った。 

 あっという間の出来事で、食器を用意していたプラテナが、声をかける間もなかった。

 

 まだいてくれたら、いやもう行ってしまっただろうかと、二つの感情が交互に沸き立ち、逸る足と共に、竜の元へ駆けるリューフ。木々の間からこぼれるキラキラとした太陽の光と、葉や枝で出来る影が、リューフの気持ちを表しているようだった。足が前に進む度、全身が心臓になったみたいに鼓動する。口の中に詰め込んだハムエッグと、葉物野菜をほお張りながらリューフは駆けた。

―――よかった、まだいる。

 竜はさっきまでいた場所に、静かに鎮座していた。近づくリューフに、もう警戒はしていない。そばに寄り息を整えると、竜の肩や腹に刺さっている三本の矢をゆっくりと抜いてやった。竜が低く呻いたかに見えたが、実際は痛みを感じないかのように微動だにしなかった。赤い鮮血がにじみ出る。滴る血液は岩に落ちると、ジュッっと音をたてた。沸騰するほど熱い血潮。傷口も燃えるように熱かったので、塗り薬を木のヘラを使い患部に塗ってやる。竜にエルフと同じものが効くとは限らない。薬草から作った薬が効けばいいが。傷口にしみるのか、竜は一瞬体を強張らせたが、その後はリューフの手の感触を確かめるような、素振りをみせた。それはまるで、今という種族の垣根を越えた、不思議とも取れる時間に浸っているようだった。手当てがあらかた済むと、リューフは持ってきたパンや、ウサギの肉を出して見せた。

「竜の食事って何を食べているのかわからないけど、もし食べられそうなものがあったら食べてみて」

 と、リューフは自分でもパンや、肉を食べながら少しずつ薦めてみた。わずかに鼻を鳴らし、竜は小さいながらも一口食べ、美味しさがわかったのか、二口、三口。喉を鳴らしながら食べ始めた。よかった! とリューフは、心の中で拳を握っていたが、リューフは給仕する仕草を、なるべく自然に見せるように努めた。中でもミュールの葉を、竜は美味しげに食べていた。ハミルトンの作る料理は、簡単な調理方法ながらも、素材の持つ本来の旨みを最大限生かし、程よい甘みや塩気、酸味など、いつもさじ加減が丁度いい。持ってきた食材を、全て平らげたのと見やると、どうやら竜も、その味が気に入ったようだ。リューフは、本来の目的である水汲みをすることにした。そしてその時、もうひとつ名案が浮かんだ。

「少し歩くけどついて来て。君の大きさでも入れるだろうから」

 と、リューフは再び担ぎ桶を肩に掛け、竜の前を誘導するように歩いた。歩幅は断然に竜の方が大きいだろうが、竜はリューフに歩調を合わせている。リューフは思った。

―――竜と……いやもしかしたらこの竜だからなのか、一緒にいると時間がゆっくり流れているようで……そう、まるで世界を感じることが出来そうなそんな気さえする……何なのだろうこの感覚は……。

 もっともっとこの竜のことを知りたいという衝動が沸々と湧いてくる。それがどこからくるものなのかわからないが、今この一分一秒を大事に、この竜とずっと一緒に過ごしたいと、不思議に強く思わされた。

 湧き水の出口までくると、リューフは肩の担ぎ桶を下ろした。それから竜の方を振り返り、またついて来るように目配せをした。わずかな時を歩くと、一本の木の元へたどり着いた。それはただの木ではない、何百年と歳月を重ねた巨木。土からせり出た根のなりは、小さなものでも太さはリューフの身長よりも高く太い。そしてその尾根の間に竜がスッポリ入る程度の空洞があった。

「怪我が治るまでここを使うといいよ! もともと僕の家は里のはずれだからここのことは妹にしか話していないからさ」

 そう言ってリューフは、竜を穴へと案内した。

「時々様子を見に来るから、何か欲しいものがあったら言ってね」

 そう言い残すと、リューフは空の桶に湧き水を入れ、来た道を戻って行った。


 『竜』この出会いをなんと表現したらいいのだろう。持っている言葉を尽くしても尚、有り余るときめき。あの黒竜が、リューフに光をもたらしたのは間違いない。しかし、これから起こる、凄惨で残酷で無慈悲な運命が待っていることに、少年リューフは、まだこの時、感覚さえない。非日常の出来事に、期待と魅力的な謎ばかりが先行し、僅かばかりに、体と気持ちが浮足立っていることにすら、気がついていないのだった。覚悟の無い試練の過酷さたるや、人の人格など易々壊してしまう。そのことを教えてくれるものが一人でもいてくれたのならあんな結末にはならなかっただろう。とは言え物語はまだ序章。そのことはこれからの道標に心に留めておこう……


リューフの住む、モータムフの里は、他のエルフ里とは少し違い、人との交易を僅かばかり行っていた。決めたれた期間、厳選された人物でやりとりをし、条約の基それがおこなわれていた。そのことに関わるある逸話があった……


 その男は一介の人間でありながら、さらに奴隷としての身の上でありながら、勇猛果敢に力をふるい、一度剣を握れば上級騎士公を含めたとて、右に出るものはいなかった。人一倍大きな体躯で弱きを守り、悪しきを退ける姿は、誰もが見惚れるもので、英雄の称号を与えるに等しい。男の功績は世を轟き、やがて王をも動かすほどだった。男は王より騎士の称号を得た。騎士となってからも、男の活躍は衰えることなく、むしろそれまで以上の戦果をあげた。

 まだ男に若さの残る頃、男は騎士団を率いて、遠征で南へと向かった。南には人を頭からバリバリと喰らう魔物や、騙し惑わすのが、何よりの楽しみとしている妖精と、そして知識と理を司るエルフがいた。

 先に結論から言っておくと、遠征は失敗に終わった。団員のほとんどが魔物に食われ、残りは森に迷い惑わされて、帰って来る者はいなかった。しかし、しばらくの時が流れ、一人帰還する者がいた。男だ。体には数多く大きく深い傷痕が残っていたが、そのどれもが見事に治癒し、装いも遠征に出たときよりも、見事に織られた光輝く衣を、その身に纏っていた。男は王に提言した。

「先の遠征で深手を負い、部隊と散り散りになった私は、南の森のエルフにこの命を助けられました。王様! エルフと同盟を結びましょう、さすればわが国も遥かに栄えることは間違いありません。それに私はこの傷の手当てをし、無事にここに帰ってこられるよう良くしてくれたエルフに恩を返したいのです。王様! 何卒お考え巡らせては頂けますでしょうか!」

 王は思案し、そして男に述べた。男を再び騎士団長とし、聖騎士団を再編成し、その年の取れたての作物や装飾芸術品、そして王家の紋章を、捺印した同盟の証書を男に持たせ、再び遠征へと向かえと命令した。準備が整った三年後、男は再び南へと向かった。兵の数はそれほど多くは無かったが、皆、手練れぞろいの精鋭たちだった。そしてその道中、男は言った。

「決して油断することのないよう、皆、気をしっかりと引き締めておくこと。私は運よく帰ってこられたが、今私を含め、皆が帰ってこられる保障はどこにもない。そしてエルフが我々を歓迎してくれるその保証も無いのだ!」

 その言葉が、騎士団の士気という名の血の巡りを良くしたのか、エルフの里の入り口まで、聖騎士団は誰一人欠けることはなかった。入り口の前で男の声が轟く。

「私は北の国、イルダスの聖騎士団団長、シルバ! 先の遠征の際、深手を負い、この里のハミルトンに手厚い看護を得た者である! その際の礼と我が国とエルフの交友関係を築きたく特使に参った!」

 男の声に力が宿ったか、深淵よりエルフの長が出てきた。そして話し合いの元、エルフは騎士団が持ってきた品々を受け取り、誓いをたてた。そしてその一年後、ハミルトンから女児が生まれ、名をプラテナ(生まれたての光)とつけられ、その傍らにはまだ幼いリューフがいた。


 ヒュンヒュンと軽快な風切り音と、時折キンッと打ち重ね合わせられる高い金属音が、耳の奥に響く。リューフは腕をしならせ、細剣を巧みに操り、鋭い剣撃を繰り返す。それを大きな体には似合わず、風を泳ぐ、一枚の落ち葉のような身のこなしで躱し、時折極めて軽い、だが芯のとれたわずかな振りだけで、剣を払い返す男、フェルゲン。フェルゲンはリューフたちの隣の家に住んでいる叔父だ。フェルゲンは仕事のない休日の早朝、時間の空いている時に、リューフの剣の稽古をつけてくれている。

「踏み込みが足りない! それに攻撃も単調になってきているぞ! 常に相手の間合いと呼吸を意識するんだ!」

「はい! せやっ!」

「違う! もっと鋭く!」

 フェルゲンは、まるで行儀の悪い子供の手を、鞭で叱るように、リューフの剣を捌く。その体躯は、繊細な美しさが評されるエルフに似合わず、巨木のように見事で、逞しい体格をしている。持っている剣も、リューフの持っている剣の、一回りも二回りも大きく、柄を握る大きな手も、その隆々と筋肉が引き締まった腕も、実に男らしい。稽古とはいえ、リューフは全力で挑んでいるのに、まだ一撃とて満足のいくような出来はない。隙を見つけたりと、渾身の一撃を放った瞬間、ひらりと身を翻し、それならばと思い上下左右から息をつく暇もないほど、剣撃を繰り出しても、まるでフェルゲンの剣に、吸い込まれるように剣が引き寄せ合う。実に歯痒い。一度大きく剣を払うと、距離を取る。

「セームでは随一と言われても、やはりまだまだだな。リューフ、剣に身を任せるな。感じるまま、流れに身を任せるというのも、また一つの道ではあるが、戦いとは思考だ。相手の心理を読み、動きを見極め必殺必中の一撃を入れる。そういうものだ」

「はい! もう一本お願いします!」

 竜と出会ったあの日以来、リューフの日常は変わった。友人とチャルカ(球を使った遊戯)をする機会も、ぐっと減ったし、大図書館で、何やら本を持てるだけ持っては、それをせわしなく読み、貸し出していい図書を持っては、東の森を良く出入りしていた。あまりの熱心ぶりに、ハミルトンも理由を聞いたが、今、急いでいるからと、そそくさと飛び出してしまう。生き生きとした顔つきからして、良からぬことをしているわけではないだろうと思うが、モヤッとするものを解消したいと、セームの講義の最中に思うのであった。もしかしたらプラテナになら、何か話しているのかもと思い、帰ったら尋ねてみようと言うところで終業のチャイムが鳴った。


 リューフの妹プラテナは、生まれつきの病弱な体質だ。人とエルフのかけ合わせが、彼女に対し、うまく働かなかったのかもしれない。幼い頃は、外に出歩くこともあったが、十一歳の今、一日の大半をベッドの上で過ごしている。彼女を退屈させまいと、リューフは様々な分野のものに挑戦し、その結果をベッドの横に来ては、楽しそうに話す。窓からの景色も、作物を育てるための畑を半分花壇に変え(もちろんあとで代わりになる土地を耕したが)季節が変わるごとの楽しみを作った。リューフは、プラテナの笑う顔が大好きで、挑んで失敗することもあるが、あるがままを受け入れてくれる妹の愛情を感じ、一生懸命になる。リューフは「兄様」と敬愛をこめて慕う妹を、母ハミルトンと同じく一番大事に思っている。プラテナも、そんな兄様の様子が最近どうもおかしいと思う。いつものように、その日の一日のあった出来事を、ベッドの横で話してはいるのだが、なにか隠していることがある気がしてならない。問い詰めてみようとも思ったが、兄の表情から、疚しい事柄でもなさそうなので、話してくれるまで待とうと思っていた。楽しくなる話題だったら良いのだけど。


 竜の容態は、リューフの看護の介があってか、日に日に良くなっていく。矢で傷ついた羽の大部分の穴は、塞がりつつある。もうじき飛ぶことも出来そうだ。

図書館には、竜に関係する書物がたくさんあった。全ての竜が生まれる竜の里『エルゴナ』は世界の天井を極める、ドルトフェント山脈の頂上の先に渦巻く、分厚い積乱雲の中、それはあるという。そこに生えている星の草「カルエ」は、竜の傷には一番良いようだ。流石にそれは手に入らなかったが、出会ったときに食べたウサギの肉のように、こっちから食べられるかどうか見せると、自分でも納得しているようで、少しずつ口にしてくれている。

 竜については、やはり良き竜と悪しき竜、様々な書かれ方をされていて、残念ながらと言うか黒竜は、悪の象徴とされている記述が多かった。負を司り、関わる者の運命を悲惨なものにするとされている。しかし、だったら何故、どうして悪しき竜に堕ちたのか、生まれ出でた時すでに、悪と決まって生まれてくるのか、リューフはそれが気になった。出会った時の、あの感覚が本物だということを、信じたいと強く願った。

 傷の治り具合を見るたび、別れのときが迫ってくることの実感が湧き、少し切なくなる。飛び立つ姿を見送った後、再び会うことはあるのだろうか。劇的でなくていい、また当然のように、風景に溶け込んでいるような、そんな再会があるのだろうか……わからない。

 月が満ちる日の朝礼で、セームには里の長老リーベルトが訪れ、教えを説いてくれる。生きとし生けるものそのすべてに、辿るべき運命と、定められた宿命あるという。もし自分にこの竜との運命や、宿命があるならば、きっとまた会えるのだろうと、東の森で狩りをしながら思う。この間、竜の体を清流で濡らした手拭で拭いてやっていて感じた。竜の瞳に今、リューフは写っていない。そのことが確かな別れが近づいているのだと分かる。そういえば最近、里の若い衆が忙しそうにしている。今日はフェルゲンも、朝の挨拶もなしに、家を飛び出していった。そして、いつもより空気が硬く張り詰めている、そんな気がした。


 火だ。家が燃え、門扉が崩れ、怒号の渦が里にこだましている。火は剥き出しの敵意を持って、里の全てを焼きつくそうと放射状に伸び、その手を絡め、上へ上へと這い上がる。まるで生き物のように。鼻につく焦げた匂い。煙たさの奥に、少しの肉が焼けた臭い。立ち込める黒煙。そして逃げ惑う人、人、人。そんな惨状を馬鹿みたいにぼぅと見るリューフの横を、人々が手に持てる僅かばかりのものと幼子を連れて、着の身着のまま逃げている。蜘蛛の子を散らしたどころの騒ぎではない。リューフの瞳と、同じ色をした炎が瞳に写っている。悲鳴や叫びは何処か遠くに聞こえ、それよりもパチッっと炭が爆ぜる音の方が耳につく。鬨の声が上がり、我に返る。里の北に見たことも無い、青白い甲冑の兵団が、迫っていた。西からも黄土色の甲冑の兵団が、体をすっぽり覆えるように大きな盾を持って列を成している。蠢くそれはまさに、獲物に寄って集る甲虫の群のようだった。

―――プラテナ……!

 リューフは人の群れを交わしながら、中央の広間を突っ切ろうと駆け抜けた。

 逃げる人の群れをあらかた躱すと、若い衆が甲冑の兵団を里に入れないように、奮闘していた。今まで鍛錬をした魔法を駆使して、なんとか敵の進行を食い止めている。だがその上を火矢が襲い、徐々に押されるかたちになっているようだった。若い衆の中にフェルゲンの姿が見えた。

「フェルゲンさん! これはいったい何がどうなって……家の方にも奴らは来ているんですか!?」

 リューフに一瞥をしたが、呪文の詠唱と、集中を解くわけにはいかず、少しの間待つように、フェルゲンは目配せをした。呪文が終わると、薄い光の障壁が、リューフと若い衆の前に現われた。魔法障壁。リューフも使えるが、見上げるほどの高さのものは扱えない。せいぜい自分一人覆うのがやっとだ。魔法障壁は、火矢が当たると弾き返し、見事に攻撃を防いでいた。振り返ってフェルゲンが言う。

「奴らは北側と西側から押し込むように来ている! 南のはずれのお前たちの家なら、まだ大丈夫なはずだ! 行って南の神殿まで連れて行け! 子供は皆あそこに集まっている!」

 そう言うと、フェルゲンは正面に向き直り、また新たに呪文の詠唱を始めた。早く、早くプラテナの元へ行かなくては!

 

 家に着くとすぐさまプラテナの部屋に駆け込んだ。

「プラテナ! 大丈夫か! プラテナ!」 

「兄様! あぁ良かった無事で」

 プラテナの顔は不安と恐怖でいっぱいで、今にも泣きだしそうである。

「すぐに家を出るよ! 神殿が避難所になっているらしい、駆けていくから背中に乗って!」

 そうして、リューフとプラテナの二人で家を出ようと、玄関の扉を開けたその時、里の中心でこれほど離れても、はっきりと分かる程、凄まじく眩い火柱が上がった。

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